淵を覗き込む眼差し いずれにしてもそこから出発するほかはない

淵を覗き込む眼差し

 近代の都会に生きる我々は、舗装されたアスファルトの硬さを、世界の確かな手応えであると信じて疑わない。自分の意志で道を選び、自分の知性で価値を量り、自立した「個人」という家屋を、揺るぎない地盤の上に建てたつもりでいる。しかし、ふとした瞬間に、その足元のタイルが一枚剥がれ、その下に底知れぬ暗い淵が口を開けているのを見出すことがある。

 その淵とは、我々を規定している「生命」という名の、あまりに長く、あまりに非情な時間の堆積である。数億年にわたるDNAの試行錯誤、生存と生殖を巡る過酷な軍拡競争、そしてサバンナの熱い風の中で形成された根源的な本能。我々が「高潔な志」と呼ぶものも、「独自の審美眼」と誇るものも、その深淵から立ち上る霧のようなものに過ぎないのではないか。そのような疑念を抱くことは、多くの人々にとって、自己の崩壊を予感させる恐ろしい体験であろう。

 だが、私は思うのだが、真に知的な誠実さというものは、その淵から目を背けることではなく、むしろその暗闇の深さを正しく測ろうとすることから始まるのではないか。

 パスカルは、人間を「無限と虚無という二つの深淵の間に吊るされた存在」と呼んだ。もし、自らの本性の根底にある生物学的な不条理——我々がただの生存機械であるという冷徹な事実——を見ようとしなければ、我々の語る「尊厳」や「自由」は、根の張っていない切り花のような、ひどく脆弱なものに留まってしまうだろう。

 自らの足元を規定する深い淵を直視すること。それは、己の万能感という名の幼児性を脱ぎ捨て、人間という存在の圧倒的な「有限性」を受け入れる作業である。我々の欲望も、愛も、競争心も、実は自分一人で発明したものではなく、遥かなる祖先から手渡された生存の道具立てに過ぎない。そのことを認めたとき、初めて我々は、自分という個人の小ささを知ると同時に、人類という巨大な生命の連鎖の中にある「現在」を、謙虚に、かつ正確に認識することができる。

 淵を覗き込む眼差しは、決して絶望のためのものではない。それは、仮初(かりそめ)の安定に安住するのではなく、自らの不条理な輪郭をはっきりと掴み取るための、もっとも過酷で、もっとも豊かな自己認識の作法である。夕陽が地平線の彼方に沈み、世界が影に沈むとき、その闇を凝視する者だけが、星々の微かな光を捉えることができる。それと同じように、自らの深淵を見つめる者だけが、その淵の上にいかにして「人間」としての意味を築き上げるかという、真の創造的課題に向き合えるのである。

 足元の淵は深い。しかし、その深さを知る者だけが、一歩を踏み出すときの本当の重みを知るのではないか。この思いを共有し共に歩む人々に思いをはせている。

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