倫理という名の鏡

倫理という名の鏡

 我々はしばしば、倫理や道徳というものを、数学の公式や物理の法則と同じような「客観的な真理」として捉えたがる。あたかも宇宙のどこかに不変の正解が記された石碑があり、それを忠実に守ることこそが「善」であると信じるのである。しかし、近代の歴史が証明したように、ある時代の「真理」は次の時代には「誤謬」となり、ある文化の「正義」は隣の国では「蛮行」と指弾されることも珍しくはない。

 では、倫理とは単なる一時的な約束事に過ぎないのか。もしそうであるなら、前述したような「DNAの生存戦略」という冷徹な淵を直視したとき、我々はもはや倫理などという不自由な衣を脱ぎ捨て、剥き出しの利己主義へと回帰してもよいはずである。

 しかし、ここに一つの逆説がある。私が思うに、人が倫理的であろうとするのは、それが天から与えられた「真理」だからではなく、そう振る舞うことなしには、自分という存在を認識することすら不可能になるからではないか。

 想像してみるがいい。他者を顧みず、ただ自らの本能的欲望のみに従って生きる個体を。そこには、他者との関係性の中に浮かび上がる「自己」の輪郭がない。鏡のない部屋で自分の顔を知ることができないように、倫理という他者への応答の基準を持たない者は、自分が何者であるかを定義する言葉を持たないのである。

 「私はこのように生きる」という宣言は、常に「私は他者に対してこのように振る舞う」という倫理的選択を前提としている。つまり、倫理とは外側から課せられた義務ではなく、内側から「自分を自分たらしめる」ための構造そのものなのだ。嘘をつかない、あるいは苦境にある隣人に手を差し伸べるといった行為は、客観的な正解を求めての行動というよりは、そう振る舞う自分であって初めて、私は私として正視できる、という自己理解の条件なのである。

 自らの足元に横たわる生物学的な深淵を覗き込み、人間がただの生存機械に過ぎないという虚無を認めながらも、なお我々が倫理を保持しようとするのは、その暗闇の中に一筋の「人間としての意味」という光を灯すためである。

 倫理とは、真理の探究というよりは、むしろ自らの存在の尊厳を賭けた「自己認識の作法」にほかならない。夕陽がすべてを等しく影に変えていく中で、誰に命じられることもなく、自らの内なる律動に従って正しく立とうと試みること。その孤独な身振りのなかにこそ、我々が「人間」という言葉に託した、ささやかではあるが揺るぎない希望が宿っている。人間は自分を直視する。そこから連帯しようではないか。

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