いままさに不条理の嵐の中で
夕陽が地平の彼方に沈み、辺りが急速に闇に包まれるとき、人はしばしばその暗がりに実体のない恐怖を見出し、騒ぎ立てるものである。現代の日本を覆っている「ならず者国家」への怯えと、それに伴う再軍備の合唱を耳にするとき、私はかつてこの国が陥った、あの救いがたい理性の麻痺を思わずにはいられない。
憲法九条を捨て、自衛隊を軍隊に変え、軍事費を積み増し、さらには「祖国防衛」の名の下に若者の生命を国家の祭壇に捧げよという声が、公然とメディアを賑わせている。彼らは、愛する家族を守ることと、国家という抽象的な機構を守ることを、巧妙に、かつ暴力的に混同させている。しかし、私は思うのだが、国家とは本来、市民の生命を保障するための「契約」に過ぎず、その逆ではない。家族を守るという具体的で親密な愛情を、国家という暴力装置の燃料に転換させる身振りは、文明の進歩ではなく、野蛮への退行にほかならない。
さらに憂慮すべきは、この勇ましい主権回復の叫びの裏側で、実際には大国の要求に屈し、「自発的隷従」を演じている我々の姿である。他国との連帯を自ら断ち切り、特定の同盟関係の末端で軍事化を急ぐことは、国際社会における日本の孤立を深めるだけではないか。かつてラ・ボエシが説いた「自発的隷従」は、現代においても形を変えて生き続けている。右派マスコミが稼ぎ時とばかりに煽り立てる言説の洪水の中で、かつて戦後日本が静かに、しかし決然と積み上げてきた「平和を希求する精神」が、足元から崩れ去っていく。それは、知的な誠実さが失われ、声の大きな愚者が横行する時代の風景である。
しかし、我々はこの「夢の絶たれた」ような苦痛の中で、絶望に身を任せてはならない。憲法九条の精神とは、単なる「無防備」を説くものではなく、武力による安全保障という、人類が長らく囚われてきた「暴力の呪縛」から、世界に先駆けて脱却しようとする、高貴な知的試行であったはずだ。
現実を見れば、一国のみの平和が不可能であることは明白である。真の安全とは、かつてカントが夢想し、国際連盟や国際連合が不完全に追い求めてきた「世界政府」の樹立、そして地球規模の警察権力と軍隊が成立したときに初めて実現するものであろう。それは現在の我々にとっては、果てしなく遠い理想郷に見えるかもしれない。しかし、理想とは、現実との距離を測るための指針であり、そこに向かって一歩ずつ歩み寄るための北極星である。
今、我々になすべきは、この不条理な嵐の中で、九条という「未完の理想」の灯を消さないことである。諸国民との連帯を諦めず、武力によらない外交の可能性を、執拗なまでに探り続けること。それは、軍事力を競うよりもはるかに知的な忍耐を要し、はるかに高度な文明の作法を必要とする。
馬鹿が威張る時代に抗う唯一の道は、我々自身が理性の淵に踏み止まり、深く、かつ高く思考し続けることである。夕陽は沈んだが、明日の朝を信じて種を蒔くことはできる。世界政府という壮大な夢を視界から外さず、この「壮大な実験」の途中経過を生き抜くこと。その謙虚で誇り高い姿勢の中にこそ、平和の種火は宿り続ける。私は、そのように強く確信し、その一点で連帯する人々を誇りに思う。
