中立という名の重力 スイス

中立という名の重力

 スイスという国を語るとき、我々の多くはアルプスの峻険な嶺や、平穏な湖畔の風景を思い浮かべる。しかし、その「永世中立」という地位が、単なる平和への願いという情緒的な産物ではなく、冷徹なまでの自己防衛の意志と、膨大な軍事的・経済的コストに裏打ちされた「武装中立」であることを忘れてはならない。日本がスイス型の中立を目指すという着想は、戦後の混迷から脱する一つの処方箋として古くから語られてきたが、それを現代の地政学的な文脈で検討するとき、我々は幾つもの高い障壁と、論理的な矛盾に向き合うことになる。

 まず認めなければならないのは、スイス型中立の本質が「拒絶」にあるという点である。彼らは大国の同盟を拒む代わりに、自力で領土を死守するだけの強力な軍隊と、国民皆兵の徴兵制を維持し続けている。もし日本がこの道を選ぶとするならば、現在、日米安保条約という「傘」に委ねている安全保障を、すべて自前で調達しなければならない。それは必然的に、防衛予算の劇的な増大と、若者を戦場へ送る準備を平時から行うという、戦後日本がもっとも忌避してきた選択を強いることになる。ここに、憲法九条を信奉する平和主義と、スイス型の武装中立との間の、埋めがたい亀裂がある。

 地理的な条件も、スイスとは決定的に異なる。ヨーロッパの心臓部で山岳に囲まれた内陸国であるスイスに対し、日本は広大な海域を抱える島国であり、核を保有する大国群と直接対峙している。現代のミサイル技術やサイバー戦の時代において、海という天然の要害はかつてほどの障壁にはならず、むしろ補給路の脆弱さを露呈させる。一国のみでこの広大な空間を封鎖し、防衛し続けることは、技術的にも経済的にも、ほとんど不可能なまでの過酷な試行となるであろう。

 しかし、中立という選択肢が持つ魅力、あるいはメリットもまた、否定しがたい。特定の同盟関係に縛られないことは、対立する諸勢力の間で「対話の窓口」としての地位を確立し、国際紛争の仲裁者としての外交的影響力を高める道を開く。それは、アメリカの要求に「自発的服従」を繰り返す現在の外交から脱却し、自らの知性と意志で国際社会の連帯を模索する、主体的な歩みの始まりとなり得る。

 困難の核心は、制度としての「中立」を宣言することよりも、その地位を支えるだけの「知的な自立」と「国民的な覚悟」が我々に備わっているか、という点にあるだろう。安保条約に安住しながら中立を夢見るのは欺瞞であり、一方で、再軍備を叫ぶだけで近隣諸国との不信を煽るのもまた、浅薄な偽のリアリズムである。

 他国が長距離ミサイルを日本の複数の原発施設に向けて、破壊できるまで連続して分散して発射し続ければ、防衛システムは突破されてしまうだろう。容易に理解できる現実である。防衛装備がとれだけあっても、である。つまりは日本は本気で防衛を考えていない。別の都合で軍拡を志向しているだけである。台湾近くの島に何を作っても、どうしようもないだろう。

 他国とすれば、いろいろ考えなくても、日本は経済的にも軍事的にも政治的にも、人口の面からも、自ずから自滅の道を歩んでいるのだから、時間を待っていればよいだけだ。むしろ日本側から攻撃があった場合に備えておく必要がある。日本が自滅の恐怖に耐え切れず、他国を攻撃する可能性はある。防国の絶対線などと勝手なことを言って、過去の歴史を繰り返すしかないのだろう。過去の経験のテンプレートを盲目的に感情的に反復するしかないのか、あるいは、新しいテンプレートを知的に求めるのか。私としては、日本人の死にたい本能よりも、生き延びたい本能に期待する。

 真の意味で中立を目指すならば、それは軍事的な増強ではなく、むしろ徹底した外交努力と、国際社会からの「日本はどの陣営にも属さないが、平和の維持には不可欠な存在である」という信頼の獲得に向けられるべきではないか。スイスが歴史の中で勝ち得たのは、武装の強さ以上に、その中立がヨーロッパの安定に寄与するという周囲の合意であった。

 日本にとっての希望は、憲法九条が掲げた理想を、単なる無防備の言い訳としてではなく、新しい国際秩序を構想するための「知的な武器」として再定義することにしかない。大国の軍拡競争という重力から自由になり、諸国民との連帯を独自の回路で築き上げること。その困難な、しかし気高い知的労働を抜きにして、我々の生存の道は拓けないように思われる。

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