語られざるものと沈黙の倫理——癒しはどこにあるのか?
精神療法という営みにおいて、最も頻繁に用いられる「技法」は、案外「沈黙」であるかもしれない。言葉にし尽くせぬ感情、語り損ねた思い、あるいは意図的に避けられた記憶。それらは沈黙のなかに静かに息づき、ときに部屋の空気を張りつめさせる。
だが、その沈黙のなかに、まるで見えない第3の存在のように、「真実」が同席していることがある。治療者と患者が互いに語らずとも、その場の「雰囲気(Stimmung)」が、両者の心にある種の理解をもたらす。これは哲学者マルティン・ハイデガーが繰り返し論じたことであり、「語る以前の存在理解(Vorverständnis)」が、まさに治療的空間の根底にある。
■ 「語ること」ではなく「在ること」
精神療法が有効である理由を、認知の再構成や感情の調整といった心理学的プロセスに還元しようとする試みは多い。しかし、人間学的精神療法の視点からすれば、治療とは何よりもまず「関係的現象」である。言い換えれば、「語ること」が治すのではなく、「共に在ること」が癒すのである。
かつて、ホロコーストを生き延びた精神分析医ブルーノ・ベッテルハイムは、収容所での体験を語ることに深い警戒を示した。彼は、「あの体験は語るに値しないのではなく、語るには重すぎる」と述べた。語られることで、かえってその重みが矮小化されることへの恐れ。そのような「語れないこと」への敬意が、治療者には必要なのだ。
■ 沈黙の倫理
治療者の沈黙は、無策や怠慢の表れではない。むしろ、語りえぬものへの「倫理的態度」である。それは、患者の語りの外にある「沈黙の物語」に耳を澄ます姿勢であり、その沈黙のなかに共に居続ける勇気である。
ヴィクトール・フランクルは『夜と霧』のなかで、「人は何を与えられるかではなく、何に耐えることができるかによって、その本質が問われる」と述べた。私たち治療者もまた、何かを「する」者である前に、「耐える」者でなければならない。患者の痛みに耐えるだけでなく、自らの無力感や、答えのなさに耐える倫理。それが沈黙のもつ意味である。
■ 物語の手前にある「声なき声」
私たちはよく、患者の「語り」に注目しがちだが、人間の苦悩の多くは「語られる前」にすでに存在している。子どもが初めて言葉を覚える以前に感じた恐怖。あるいは、無意識に刻まれた身体的記憶。それらは言葉としては表出されないが、まぎれもなく「存在している」。この「前言語的」な次元に注意を払うことが、人間学的精神療法の要点である。
精神分析の祖、フロイトですら、夢の解釈や自由連想の彼方に「言葉にならないもの」の存在を感じ取っていた。ましてや実存主義の系譜を汲む私たちは、その「声なき声」にいっそう繊細でなければならない。詩人のポール・ヴァレリーは言った——「言葉は誤解の源である」と。だからこそ、誤解されるリスクを引き受けた上で、それでも「語らずにはいられないもの」を尊重する姿勢が必要だ。
■ 他者とは「わかりきれない存在」である
ラカン派の精神分析では、他者の欲望は常に「斜めから」しか捉えられないと言う。他者の苦しみもまた、完全に理解されることを拒んでいるかのようである。だが、それを以って「わからないから関わらない」という態度を取ってしまえば、治療関係は成り立たない。
哲学者エマニュエル・レヴィナスは、人間存在の根本倫理を「他者の顔に直面すること」と表現した。顔とは、沈黙のなかに現れる「問いかけ」であり、理解不能であるにもかかわらず応答を要求する存在である。精神療法とは、そのような「顔」にどう応じるかという実践であり、沈黙の問いに対して沈黙のうちに応じる、そういう在り方なのかもしれない。
■ おわりに:語られぬものを守る
精神療法の本質は、「語らせること」にあるのではない。それはむしろ、「語られずに済むように守ること」かもしれない。沈黙を共にすることでしか触れられない痛みがあり、言葉にしないままであることによって癒える傷もある。
精神療法の部屋は、語られた言葉だけでなく、語られなかったこと、語ることができなかった感情のために用意された「沈黙の容器」でもある。その容器のなかで、人は言葉以上のものに触れうる——それが、癒しの根源である。
【参考文献】
- Heidegger, M. Being and Time. (1927)
- Frankl, V. Man’s Search for Meaning. (1946)
- Levinas, E. Totality and Infinity. (1961)
- Valéry, P. Tel quel. (1941)
- Bettelheim, B. The Informed Heart. (1960)
- Lacan, J. Écrits. (1966)