「支える」ということ──人間学的精神療法の視座から
精神療法という営みは、いかに言語が中心であるとはいえ、その本質は決して言葉に尽くされるものではない。患者が数年後、あるいは十年後にその治療の経験を回顧したとき、何を覚えているだろうか? 洞察か、解釈か。いや、むしろ彼らが語るのは、セラピストがかけてくれた、ささやかであたたかな「支えの言葉」「支えのまなざし」「支えの姿勢」「支えの表情」であることが多いのだ。
これはユージン・ギンデルリン(E. Gendlin)が語る「felt sense(感じられた意味)」にも通じる。患者の内面に生じる言語以前の感覚、あるいは世界との「意味あるつながり」を、セラピストの支援がそっと包み込む。ある一言が、患者の内的宇宙に深く沈み、変容のきっかけとなることがある。
自己の感受性を讃える
ある小説家の患者が、不倫関係を断ち切る象徴として私書箱を閉じた。その行為の背後には、長年の関係性の終結、習慣の喪失、そしてアイデンティティの再構成があった。この決断に私は深い賞賛を示した。なぜなら、それは「意味の再構築」という実存的な営みだったからだ。
ヴィクトール・フランクルの言葉を借りれば、人間は「意味を求める存在」である。その意味の再編に立ち会い、伴走者であることは、セラピストのもっとも神聖な役割のひとつであろう。だからこそ、患者のこうした行動を「価値あるもの」として明示的に承認することには、計り知れない治癒力がある。
支援は存在の承認である
人間学的精神療法(Daseinsanalyse:現存在分析)の立場からすれば、支援とは単なる「助け」ではない。それは患者の存在全体へのまなざしであり、ひいては「そのままで在ること」への承認である。ルートヴィヒ・ビンスワンガーやメダルト・ボスが語るように、治療とは、患者の「現存在(Dasein)」が世界とどうかかわっているか、その「ありよう」に光をあてることである。
ある患者が「私は感受性が強すぎて、忘れられない」と語ったとき、私はこう答えた。
「君のその感受性こそが、君の作品に命を吹き込んでいる。強すぎる感情があるからこそ、他者の痛みに共鳴し、深い物語が書ける。君の弱さは、実は君の強さの裏返しなんだ。」
このような語りは、「再構成(reframing)」の技法でありながら、同時に患者の存在への深い共感の表れでもある。
身体性と支援のジェスチャー
ときに、言葉を超えた支援もある。セッションをほんの数分延長する行為。静かに座って、相手の沈黙を尊重すること。あるいは、ほんのわずかに微笑むこと。こうした非言語的な「身体のふるまい」も、支援のひとつの形である。メルロ=ポンティが説いたように、身体は「世界への投企」であり、「意味の担い手」でもある。セラピストの身体もまた、意味を発するのだ。
美しさと魅力をどう扱うか
セラピーの場において、患者からの「私って魅力的?」という問いほど、セラピストを緊張させるものはない。しかし、そうした問いの背後には、「私という存在が受け入れられるか」という根源的な不安が隠れている。物語の登場人物、Dr. Lashはこう答えた。
「もし私たちが別の世界で出会っていたなら、私はきっと君に惹かれていただろう。」
このような回答は、あらゆる倫理的枠組みの中で考え抜いたうえでの誠実な応答である。患者の「存在の承認」を優先することで、治療関係の深まりが生まれる。
記憶に残るのは、「一言」
ある作家の話。彼が個人的に思い出すのは、『エクソシスト』の作者ウィリアム・ブラッティの言葉だという。彼が世間に酷評されたとき、落ち込んでいた彼に、ブラッティはこう言った。
「君が傷つくのは当然だよ。だからこそ、君はいい作家なんだ。」
この一言は、彼にとって今でも大切な支えであるという。
セラピストもまた、支えられて生きている。だからこそ、私たちは患者を支えることができるのだ。
補遺:参考にした思想と文献
- Gendlin, E. T. (1981). Focusing. Bantam Books.
- Frankl, V. E. (1959). Man’s Search for Meaning. Beacon Press.
- Binswanger, L. (1963). Being-in-the-World: Selected Papers of Ludwig Binswanger.
- Merleau-Ponty, M. (1962). Phenomenology of Perception.
- Yalom, I. D. (1999). Momma and the Meaning of Life. Harper Perennial.
人を支えることは、言葉を尽くすことではない。「あなたの存在には意味がある」と伝えることだ。その一言が、人生を決定的に変えることがある。精神療法は、その奇跡のためにあるのかもしれない。