他者の窓辺に立つということ――共感についての人間学的精神療法の試論

他者の窓辺に立つということ――共感についての試論

ある日、ひとりの患者が語った話が、私の記憶に深く残っている。

乳癌を患う女性だった。彼女の話によれば、若い頃、父親と車で大学までの長い道のりを共にしたことがある。思春期の不協和を経て、和解のきっかけにしたいと密かに願っていた。助手席に座り、風景を見ながら語り合える時間。それが彼女の思い描いた“理想的な旅路”だった。だが、現実は異なった。父親は窓の外に流れる川を見て、「なんて汚い川だ」と吐き捨てるように言った。その言葉が繰り返されるたび、娘は次第に口を閉ざしていった。彼女には、その川がただ美しく流れているようにしか見えなかったのだから。

何も話せないまま、ふたりは大学に着いた。

年月が過ぎ、彼女はふたたびあの道をひとり運転して走った。そのとき初めて、道路の両側に川が流れていたことに気づいた。自分の見ていた側の川は清らかだったが、父の座っていた側の川は、たしかに汚れていた――ゴミが浮かび、濁流が渦巻いていた。彼女は静かに言った。

「今回は私が運転していました。あのとき、父の窓からは本当にあんな川が見えていたんですね。でも、もう遅かった。父は、もうこの世にいなかったから」

この話は、私の中に長くとどまり続けている。患者が体験した「視界のズレ」は、我々が日常で見落としがちな真理を内包している。私たちは、つねに自分の座る側の窓からしか、世界を見ていない。そして、その視界を当然のものと思い込んでしまう。だが、他者の窓から見える世界は、まったく異なっているかもしれない。

Carl Rogers は1957年に、効果的な治療者が備えるべき三つの条件として、「正確な共感(accurate empathy)」「無条件の肯定的関心(unconditional positive regard)」「真実性(congruence)」を挙げた。共感とは、相手の感情を“正しく感じとる”というよりも、相手がどのように世界を見ているかを、できるかぎり正確に、かつ非判断的に把握しようとする姿勢そのものである。

人間学的精神療法――つまり、人間存在の全体性を基礎においた療法――においても、この「他者の窓辺に立つ」という姿勢は根本にある。心理的支援の技法以前に、われわれは「共に在る(Mitsein)」ことを問われる。これはマルティン・ハイデガーが『存在と時間』において示した存在様式であり、人間はもともと他者と共に存在する存在(Dasein)だという前提から出発する。

哲学的には、それは「自己を他者の立場に置くこと」ではなく、「他者の自己としてそこに在る」ことに近い。哲学者レヴィナスが言う「顔(le visage)」の倫理もまた、それを語っている。顔を見るとは、他者が世界に投げ出されている事実、そしてその脆さを引き受けるということである。

このように考えると、冒頭の患者の物語は、心理療法の技術論を超えた、人間存在そのものへの深い洞察へと私たちを導いてくれる。彼女は、父の窓から世界を見ようとしなかった自分を悔いたのではない。むしろ、その視界の差異に、あらためて“生の孤独”と“関係の可能性”とを見出したのだと思う。彼女の語りは、治療という行為の倫理的核心を、私に突きつけてきた。

心理療法において、「共感」はしばしば言葉のやりとりとして理解されがちである。だが実際には、それは時として“語られないもの”を聴くことであり、共に沈黙することであり、相手の存在に「いる」と感じさせることである。エマニュエル・モーニエが言うように、「沈黙には言葉よりも深い真実が宿る」ことがある。

私自身、治療のなかで、患者が前回のセッションをどう受け取っていたのか、まったく予想もしなかった内容を語られることがある。たとえば、私がほんの一言で済ませた表現が、患者の心に深い印象を与えていたり、あるいは私が最も重要だと感じた話題が、患者にとっては何の意味も持たなかったりする。

あるとき、Ginny という創作を志す女性患者とのあいだで、興味深い試みをした。彼女は自己表現に困難を抱えており、1年間のグループ療法でもほとんど沈黙を貫いていた。私を理想化しすぎていたのだ。別れのとき、私は彼女に、治療費の代わりに毎回「言葉にならなかった思い」を綴って提出することを提案した。私もまた、自分の感情や気づきを文章にして渡した。数ヶ月後、お互いの記録を読み返すと、それはまさに羅生門であった。

彼女が大きな意味を見出していたのは、私が偶然かけた言葉――「今日の服、似合っていますね」といったようなものだった。彼女が傷ついていたのは、私がわずかに眉をしかめた瞬間だった。私が重要だと考えていた分析や言葉は、彼女の記憶には残っていなかった。

このような「共鳴の不一致」は、われわれの存在様式そのものに根ざしている。自己と他者は、たとえ同じ部屋にいても、異なる時間と空間を生きている。だからこそ、「共感」は神話的な理想ではなく、不断に試み続ける努力であり、希望であり、誤解と修復のプロセスである。

Erich Fromm は共感を教えるとき、ローマの詩人Terenceの言葉を引用したという――「私は人間だ。人間的なことは、何ひとつ自分と無関係ではない」。これを別の言葉で言えば、「あらゆる他者の中に、自分自身の一部を見出せ」。たとえそれが、自分には到底受け入れがたい衝動や思考であっても、その中に「私にも在るかもしれない何か」を探すことである。

過去を知ることもまた、共感への道である。過去は現在の意味づけを編み直す糸となる。患者の視点に“過去”というレンズが入るとき、その見ている世界の色合いが理解されることがある。たとえば、愛する者を何度も失った人が、あらゆる関係を「喪失の予兆」として見るのは自然なことだ。

最後に、少し文学的な引用で結びたい。Albert Camus の『異邦人』のなかで、ムルソーが母の死に涙を流さなかったことは、人々の非難を招いた。だが、それは彼が冷淡だったからではない。彼は「涙を流す」という表現方法を選ばなかっただけで、そこに感情がなかったわけではない。人は、異なるかたちで愛し、悲しみ、憤る。その違いに気づくことが、共感の始まりである。

共感とは、他者の窓辺に立ち、しばしその風景に見入ることである。そこに見えるものは、あなたが見ていた世界とまったく違うかもしれない。だが、それこそが「関係する」ということの、奇跡であり、倫理であり、救いなのである。


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