他者の魂の中庭へ――ロジャーズとユングにおける共感のかたち

他者の魂の中庭へ――ロジャーズとユングにおける共感のかたち

春まだ浅い午後、書斎の窓辺に座っていたとき、不意にふたつの名前が頭をよぎった。Carl Rogers と Carl Gustav Jung。前者は、誠実で温かなアメリカのセラピスト。後者は、深い森の中から人間の魂の夢を掘り起こしたスイスの探求者。私たちはこのふたりを、しばしば「愛情」と「神秘」、「透明」と「深淵」などと対照的に語るが、ふと立ち止まってみれば、どちらも「他者の魂に触れる」方法を生涯かけて模索した点で、驚くほど似ている。

けれども、彼らが「共感(empathy)」という行為に託した意味は、ずいぶんと違っていたように思う。

ロジャーズにとって、共感とは「他者の内的世界を、まるで自分自身のものであるかのように感じ取ること」、ただし「その世界に溺れ込まず、それが他者のものであることを忘れない」ことだった。彼の言葉を借りれば、セラピストは「相手の靴を履いて歩きながらも、その靴が自分のものではないことを忘れない人」である。

この比喩は、あまりにも優れていて、心理療法の教科書にも繰り返し引用される。クライエントの語る言葉、表情、沈黙、涙、そして呼吸の調べに耳を澄ましながら、「私はあなたを理解しようとしています」という態度を、全身で伝えていく。共感はそこで、他者の存在に寄り添い、孤独な魂が「自分が理解されている」と感じられる場を創るのだ。

一方、ユングは、共感という語をあまり積極的には用いなかった。それはおそらく、彼にとって「他者を理解する」とは、表層的な感情移入のレベルにとどまるものではなく、もっと深い「象徴的参加 participation mystique」に関わるものだったからだ。彼は個人の無意識を超えた「集合的無意識 collective unconscious」の存在を仮定し、人間は象徴や夢を通して、共通の深層に根差した意味世界を分かち合っていると考えた。

ユングにとって、セラピストがすべきは、「相手の話をよく聴くこと」ではなく、「相手の無意識の象徴言語に耳を澄ますこと」だった。そこでは共感は、感情のやりとりというよりも、象徴とイメージの交換であり、「魂と魂の儀式的舞踏」とさえ呼べるような営みだった。

例えるなら、ロジャーズの共感は「静かな湖に石を投げ、その波紋を共に眺める」ようなものだが、ユングの共感は「夜の森に共に分け入り、そこに現れる神秘的な獣と対峙する」ようなものだと言える。

こうして両者を対照してみると、ふとある比喩が浮かぶ。

ロジャーズの共感は、相手の家に招かれ、そのリビングルームでじっくりと話を聴くことだ。ソファに腰を下ろし、照明のぬくもりの中で、心の窓をそっと開けていく。だがユングの共感は、相手の家の裏庭を抜け、さらにその奥にある「魂の中庭」へと、地下の通路を通って入り込むことに近い。そこには、個人を超えた象徴や元型(archetype)が満ちており、セラピストは解釈者ではなく、旅の同行者であり、あるときは通訳であり、あるときは共に迷う者となる。

このように見ると、ロジャーズの「共感」は倫理的な姿勢であり、ユングの「共感」は神秘的な体験への参与だとも言えるだろう。

人間学的精神療法は、この両者の間に橋をかけようとする試みのように思える。つまり、他者の語る世界に耳を傾けるだけでなく、その背後にある無意識的・身体的・存在的な層にまで降りていく勇気を持つこと。そこでは、「共感」は単なる技術や態度を超えて、「相手の存在に身を投げ出す」行為に近づく。ヤスパースの『世界観の心理学』には、「真の出会いとは、自己が自己であることをやめて、他者の真実に触れんとする試みである」とあるが、これはロジャーズにもユングにも通底する精神ではないか。

思えば、「他者を理解する」という営みほど、希望と困難が交錯するものはない。私たちは日々、他者の表情、声、振る舞いの背後に、何かを“読み取ろう”としている。だが、その何かはしばしば誤解され、無視され、すれ違ってゆく。私たちは、自分が見ている川と、他者が見ている川が違うということに、なかなか気づけない。あるいは気づいても、それを言葉にできない。

「本当にわかってもらえた」と誰かが感じるとき、それは単に情報が正確に伝わったということではない。むしろ、「あなたは、私の魂の言葉にならない部分にまで、触れてくれた」という感覚が生じたとき、人はようやく孤独から少しだけ解放される。

心理療法という場は、そうした奇跡が起こりうる、稀有な空間である。だが、その奇跡は、何も特別な術や知識によって生まれるのではない。それは、セラピストが「どこまで他者の未知に耐えられるか」、そして「どこまで自分の既知を脇に置けるか」という、人間としての覚悟にかかっている。

最後に、詩人ライナー・マリア・リルケの『マルテの手記』の一節を思い出す。「愛するとは、おそらく、この世界の隣に、もうひとつの世界を忍ばせることだ」。共感もまた、同じことなのかもしれない。誰かの語る小さな出来事、その奥に隠された深い世界をそっとすくい上げる。それは「理解」ではなく、静かな参加であり、敬虔な立ち会いである。

ロジャーズが照らした明るい部屋の中で、私たちは相手の語る人生に耳を傾ける。ユングが案内した深い森の中では、夢や象徴に導かれながら、魂の風景をともに歩く。

そして人間学的精神療法は、両者の間に流れる川の上に、一本の橋を架けようと試みている。ときに、その川は濁り、ときに美しく澄みわたる。だが、どちらの岸にも、誰かがこちらを見つめている。自分と異なる視界をもつ誰かが、そこに、確かに生きている。


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