他者の痛みに触れるとき——共感の神経科学的基盤と人間学的精神療法

他者の痛みに触れるとき——共感の神経科学的基盤と人間学的精神療法

静かな朝、カフェの片隅で新聞を読んでいた男が、ある記事にふと目を留める。若い女性が通りすがりの人に助けを求めたが、誰も立ち止まらなかったという。男は眉間にしわを寄せ、ため息をつく。そしてその瞬間、彼の脳内では、小さな“炎”のような神経活動が起こっている。まるでその女性の痛みが、自分の身に起こったかのように。

これこそが「共感」が脳で起こる瞬間であり、その中心には「ミラーニューロン」が存在している。1990年代、イタリア・パルマ大学の神経生理学者たちは、サルの脳を観察中に、他者の行動を「見ただけで」自分がそれをしているかのように活動する神経細胞群を発見した。それはまさに、神経細胞が「他者を模倣する鏡」として働いていたことから、mirror neurons と名づけられた。

以来、ミラーニューロンは、「共感の神経的土台」として広く知られるようになった。たとえば、誰かが指を切ったのを見たとき、こちらの脳の「体性感覚野」や「島皮質」などの領域が活性化し、まるで自分が同じ痛みを体験しているかのような反応が起こる。ここには、「他者の情動を、自らの神経系で再現する」という、いわば「内的シミュレーション」の機構が働いている。

だが、果たしてそれは本当に「共感」なのだろうか。

脳科学者 Jean Decety はこの問いに答えるべく、共感をより精密に定義しようとした。彼によれば、共感とは単なる感情の共有(emotional contagion)ではなく、「他者の視点を保持しつつ、その感情状態を認識する認知的・感情的能力の統合」である(Decety & Jackson, 2004)。つまり、「感じること」と「区別すること」が、共感の二本柱なのだ。

ここで思い出すのは、ロジャーズのあの言葉である。「相手の靴を履いて歩きながら、その靴が自分のものではないと知っていること」。共感とは、ただ“感情に巻き込まれる”ことではなく、その痛みの源が「他者のものである」と理解しつつ、それに心を寄せる行為なのである。

けれども、人間学的精神療法は、この神経科学的定義に、さらに深い問いを投げかける。すなわち、私たちはなぜ、他者の苦しみに触れたとき、自らの魂の奥で震えるような感覚を覚えるのか。なぜ、見知らぬ人の涙に、自分の胸が熱くなるのか。

この問いには、神経活動やホルモン分泌だけでは届かない、存在論的な深さがある。

たとえば、ヴィクトール・フランクルは、人間の本質を「意味を問う存在」と定義した。そして意味とは、他者との関係の中で生まれる。誰かの苦しみに心が反応するのは、それが単に「生存に役立つ」からではなく、「人間としての意味」を開く扉だからである。

この視点からすれば、共感とは「神経系の反応」である以前に、「存在としての共鳴」である。哲学者マルティン・ブーバーの言う「我と汝」の関係において、他者は単なる対象(It)ではなく、関係性の中で呼びかけてくる「汝(Thou)」として立ち現れる。そしてその呼びかけに応答するとき、私たちは初めて「共感」という名の〈橋〉を架けるのである。

興味深いのは、現代の脳科学もまた、この人間学的直観を静かに裏づけ始めていることだ。最近の研究では、「共感」は単一の脳領域に閉じるのではなく、情動系、認知系、自己・他者の区別に関わる前頭前皮質などの広範なネットワークの相互作用により生じることがわかってきた(Singer & Lamm, 2009)。つまり、共感とは、単なる「感じる器官」ではなく、「意味を編む回路」なのである。

また、神経ペプチドであるオキシトシンや、内側前頭前皮質(medial prefrontal cortex)の働きは、「自己と他者を橋渡しする」神経的ハブとして注目されている。オキシトシンは母子間の愛着や恋人同士の絆に関与すると同時に、「他者を信頼する感情」を生み出す神経伝達物質であり、ある意味で共感の“ホルモン的下地”とも言える。

だが、人間学的視点から言えば、これらの知見はあくまで「必要条件」であり、決して「十分条件」ではない。共感とは、ただの反応ではなく、「応答(response)」であるべきなのだ。つまり、他者の存在に真に「向き合う」という行為である。

精神療法の場面では、このことがきわめて重要である。ときに患者は、自らの語る痛みに「共鳴されること」を強く欲する。だがその一方で、「安易に理解されたくない」とも感じている。そこには「わかってほしいが、簡単にわかってほしくはない」という、逆説的な欲望がある。

このような「共感の揺らぎ」は、脳科学では捉えにくい部分だ。だが人間学的精神療法は、この微細な感情の機微にこそ注意を払い、「共感」を単なる技術ではなく、「倫理的選択」として位置づける。そこでは、沈黙も、眼差しも、身体の姿勢も、すべてが「応答」の一部となる。

詩人 R.S. トマスは、「理解とは、耳を澄ますことだ」と言った。共感とは、神経反応ではなく、「耳を澄ます姿勢」である。その姿勢には、科学では測りきれない「祈り」のような気配がある。


参考文献

  • Decety, J., & Jackson, P. L. (2004). The functional architecture of human empathy. Behavioral and Cognitive Neuroscience Reviews, 3(2), 71-100.
  • Singer, T., & Lamm, C. (2009). The social neuroscience of empathy. Annals of the New York Academy of Sciences, 1156(1), 81-96.
  • Jaspers, K. (1954). Way to Wisdom: An Introduction to Philosophy.
  • Buber, M. (1923). Ich und Du [I and Thou].
  • Frankl, V. E. (1946). Man’s Search for Meaning.

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