無我の共感——仏教的まなざしと臨床の出会い

無我の共感——仏教的まなざしと臨床の出会い

「苦しみの世界に、他者がいる。そして、その他者に気づく私がいる。だが、その『私』とは、一体誰なのだろうか?」

精神療法の場において、「共感すること」は、単なる技能ではなく、存在そのものの問いに触れる瞬間である。他者の苦しみを感じ取ろうとするとき、その痛みの影は、時に自分自身の過去へと差し込む。感情の共鳴だけでなく、人生の物語が交差するような感覚——それは、あたかも境界線が一瞬消え、自己と他者のあいだに風が吹き抜けるような体験である。

この「境界が溶ける」感覚は、実は仏教的な共感の核心にある。すなわち「無我(anattā)」の世界観である。


共感とは、我を超えることである

西洋的な共感概念の多くは、心理学的、神経科学的な説明をベースとしている。共感(empathy)は、他者の感情状態を認知し、それに感情的に反応する能力であり、ミラーニューロンの活動や情動の模倣によって説明されることも多い(Gallese, 2001)。

しかし仏教における共感は、そうした感情的模倣や投影とは一線を画する。仏教では、そもそも「自己」というものの固定的な存在を認めない。「私」というものが常に流動的であり、五蘊(色・受・想・行・識)の仮和合であると見る。ゆえに、「他者の苦しみを自分のように感じる」ことは、「他者と自分は分かれている」という前提を超えて、「私があなたであるかもしれない」という実存的な直観へと導かれる。

慈悲(karuṇā)とは、単なる同情ではない。それは、無我の直観に基づいた、「苦しむものに手を差し伸べずにはいられない」心の動きである。『ダンマパダ』にはこうある:

「他者の苦を己が苦しみのように感じる者こそ、まことの修行者である」

このときの共感とは、「我」が「汝」に歩み寄るのではなく、「我」そのものが透明になり、「苦しむ存在」に自らを重ね合わせる運動である。


臨床という仏教的な空間

人間学的精神療法においても、こうした「自己と他者の境界のゆらぎ」は重要な主題である。オイゲン・ミンコフスキーが語ったように、精神病理とは、存在のリズムの乱れであり、時間や空間における「世界との接触のゆらぎ」である。

この「接触」を回復させる営みは、仏教的な意味での「気づき(sati)」と重なる。すなわち、「今・ここ」で起きていることに対する完全な注意深さであり、患者の語りにただ静かに寄り添い、解釈するのではなく「共に坐る」こと。これは、まさに「臨床的マインドフルネス」とも言える態度である。

仏教の修行者は、沈黙のなかで、他者の存在と同調する力を育む。臨床家もまた、言葉にしえない苦しみを聞く力を必要とする。ときに共感は、説明ではなく「呼吸の一致」として立ち現れる。患者の呼吸が浅くなれば、自らも呼吸を浅くし、相手が涙を流せば、心のなかでそっと一緒に泣く——そのような、言葉にならない関係性の生成。


空なる共感——構造と自由のあいだ

仏教の根本思想である「空(śūnyatā)」もまた、共感を考える上で鍵となる概念だ。空とは、「あらゆるものが他との関係性によって成り立っており、独立した実体が存在しない」という洞察である。この「空」こそが、共感を成り立たせる根拠となる。

自己が実体として固定されているならば、他者を真に「感じる」ことは不可能だろう。しかし、自己が関係の網の目のなかに浮かぶ存在であるならば、共感とはその網目を通じた響きのようなものとして立ち現れる。

この視点は、精神療法の「関係論的アプローチ」にも通じる。つまり、心の病は、単に個人の内面だけでなく、「関係性の場」において発症し、癒されるという考え方である。人間は「人と人のあいだ」でしか癒されない。それはまさに、仏教的な「縁起(pratītya-samutpāda)」の世界観に他ならない。


仏教的共感の臨床応用——技法から態度へ

では、仏教的な共感は、どのように臨床実践へと翻訳されうるのか?
以下にいくつかの応用を示しておこう。

  • 無評価的受容の姿勢:クライエントの語る物語に、良し悪しや正誤を加えずに聞く。それはまさに「ただそこにある」ことを許す態度である。
  • 「自己=他者」感覚の育成:セラピストが、自分の中にクライエントの苦しみの断片を探す。あるいは、相手の語ることを「私にもありうること」として聴く。
  • 沈黙の共感:仏教における「黙照」にならい、言葉にできないものを言葉にしようとするのではなく、共に黙って在ること。
  • 縁起的理解の支援:苦しみの原因を「自己責任」ではなく、因果と関係性のネットワークのなかに見る枠組みを提供すること。

結びにかえて——共感とは、一緒に在ること

仏教的共感とは、固定的な「私」から自由になることによって開かれる、新たな倫理的空間である。それは、他者の痛みに「触れる」ことではなく、「共に在る」こと。「わたし」が「あなた」の苦しみを癒すのではなく、「あなたと共に苦しむわたし」が、そこに在ること。

人間学的精神療法においても、セラピストとは「癒す者」ではなく、「共にいる者」である。そうした態度が、やがて「癒し」と呼ばれる何かを、そっと育んでいく。

共感は、知識でも技術でもなく、「在り方」の問題である。仏教はそのことを、2500年前から静かに語り続けてきた。そして現代の臨床現場で、それは新たな命を得て、再び語られようとしている。


参考文献・関連書籍

  • Batchelor, S. (1997). Buddhism Without Beliefs. Riverhead Books.
  • Gallese, V. (2001). The ‘shared manifold’ hypothesis. Journal of Consciousness Studies, 8(5–7), 33–50.
  • Halifax, J. (2018). Standing at the Edge. Flatiron Books.
  • Kornfield, J. (2008). The Wise Heart. Bantam Books.
  • 木村敏(2001)『あいだ』みすず書房。
  • 中村元(1982)『ブッダのことば』岩波文庫。

タイトルとURLをコピーしました