以下に、**うつ病に対する認知療法(Cognitive Therapy; CT)**に基づいた事例を詳しく提示します。アーロン・ベックによる古典的な認知理論の枠組みに即して、認知のゆがみ・スキーマ・自動思考に焦点を当てながら、治療プロセスを描きます。
臨床事例:30代男性のうつ病に対する認知療法
1. 患者プロフィール
- 年齢・性別:35歳、男性
- 職業:システムエンジニア
- 主訴:気分の落ち込み、仕事中の集中困難、「自分は無能だ」という思い
- 現病歴:2か月前から抑うつ状態。業務の失敗と人間関係のこじれをきっかけに、「自分はダメだ」という思考が繰り返され、朝の起床困難、興味喪失が目立つ。食欲や睡眠は比較的保たれているが、気分の回復は乏しい。
- 既往歴:初診。大学時代にも一時的な抑うつ状態あり。
2. 認知モデルに基づく仮説構築
- 自動思考(Automatic Thoughts):
- 「自分は何をやっても失敗する」
- 「上司は僕を軽蔑している」
- 「みんなの足を引っ張っている」
- 基本的信念・スキーマ(Core Beliefs):
- 「自分は価値のない人間だ」
- 「他人に受け入れられるには完璧でなければならない」
- 認知の歪み(Cognitive Distortions):
- 全か無か思考(All-or-nothing thinking)
- 過度の一般化(Overgeneralization)
- 個人化(Personalization)
3. 治療の枠組み
- 頻度と期間:週1回のセッション、合計20回
- 技法的枠組み:ベックの認知療法に基づき、段階的に思考記録、再構成、行動実験へと進む
- 治療の目標:自動思考とスキーマの認識・検証・修正、行動活性化による気分の改善
4. 治療経過(抜粋)
第1〜5回:評価と認知の気づき
- 初期セッションで認知モデルを教育(psychoeducation)。
- 気分と考えの記録を用いて、日々の自動思考と気分との関連をモニタリング。
- 例:「朝出社するときに“また失敗するに決まってる”と思ったら、憂うつさが8/10になった」
→自動思考を「考え」として客観視する視点が育ち始める。
第6〜10回:認知再構成と行動実験
- 自動思考への質問法(Socratic questioning)を導入:
- 「それは事実か、解釈か?」
- 「その考えを裏付ける証拠、反証はあるか?」
- 「同じ状況で他人に同じように言うか?」
- 修正された思考例:
- 自動思考:「上司は僕を軽蔑している」
- 修正後:「彼は忙しくて対応が素っ気なかっただけかもしれない」
- 気分の変化:憂うつさが8/10 → 4/10に軽減
- 行動実験:
- 回避していた同僚との会話に挑戦。
- 「自分が無能」という思い込みが現実に合わないことを体感。
第11〜20回:スキーマの修正と再発予防
- 核となるスキーマ:「人は完全でないと価値がない」 → セラピストと共に「人間には不完全さがあり、それが自然である」という新たな枠組みを検討。
- セルフスキーマの再構成に伴い、以下のような自己表現が可能に:
- 「完璧じゃないけど、努力している自分も悪くないと思えるようになった」
- 再発予防のセッションでは、未来のストレスに備えた「考えの点検表」や「早期警告サイン」のリストを作成。
5. 治療的成果
- 抑うつスコアの大幅な改善(BDI: 28→10)
- 自動思考の頻度・強度の減少
- 対人関係回避の改善と業務復帰
- 自己に対する見方の柔軟性の向上
6. 理論的まとめと考察
認知療法では、うつ病は**非合理的で歪んだ思考パターン(認知の歪み)**が情動や行動に悪影響を与えていると考える。とくにうつ病では「自分・世界・未来」に対する否定的スキーマ(いわゆる「認知の三徴候」)が根底にある。治療はこれらの認知を明確化し、検証し、より適応的な思考へと修正することで、気分と行動の改善を導く。
この事例では、思考の“事実と解釈”の区別、認知再構成、行動活性化が有効に機能し、持続的な回復が得られた。認知療法は構造的かつ短期的なアプローチが特徴であり、抑うつ症状の改善において実証的な効果が繰り返し確認されている(Beck et al., 1979; Cuijpers et al., 2013)。