治療者は教育分析を受けるものであるが、
その結果どうなるか。
河原に落ちている小石で例えると、
角がとがっていたら、御迷惑になるといけないから、
できれば、角を丸める、
できなければ、自分には角があることを知っておく、
という程度がせいぜいではないか。
まん丸の石になれば一番いいのだろうけれども、
それには時間もかかるし、
結局、無理なことかもしれない。
そこまでは要求されていないような気もする。
色々な治療者がいて、色々な患者がいて、相性が問題になることもある、
という程度でいいようにも思う。
ピアノの鍵盤が並んでいるけれども、
一部の鍵盤は、たたいても、音が出ないかもしれない。
教育によって、音が出るようになればいいけれども、
うまくいくとも限らない。
教育する側が、全部の音を聴けるのかと言えば、そのような保証もない。
代々、ある音は欠落したままという状態も大いに考えられる。
一番最初の人はどのようにして自分を教育したのかという問題があって、
フロイトの場合は、フィレンツィとの長い間の手紙の交換があったと言われている。
親は、理想的な親であることは無理だ。
治療者も同じだろう。
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教育分析が可能であると考えること自体が傲慢で反省のない態度であって、
教育分析によって、そのような無反省な態度が遺伝してゆくことも考えられる。
教育分析は成功するかもしれないが、しないかもしれない。
何が成功かもよく分からない。
尖った石が役に立つ場面もあるのだから。
上司に従順な部下を生産することは可能かもしれないが、
その程度ではないか。