精神医学の教科書を読んでみて、こんなにも膨大な勉強を求められているのかと思う。
薬理学とか放射線学とか、専門の人には入り口だけの物足りない解説だと思うが、
医学生が精神科を勉強するとした場合には、なかなか噛み応えがある。
精神科の教科書なので、各専門科目の記述よりはなんだか簡単なような、説明が足りないような、結局、最初から分かっている人にしか分からないような、そんな記述もある。図も現代の図としては、やや粗末なものが多いと感じる。各専門科目の本には、もっと素晴らしい模式図やイラストやスケッチがたくさんある。特に解剖学や組織学関係、また画像診断関係は、素晴らしい世界が広がっているのに、なんだかさえない図が多い感じがする。
2024年の新生児は68万人だったとかで、多かった時は200万人を超えていたのだから、1/3程度になったことになる。その後も、100万人程度はいたものだ。
医学部の定員が一定であることを考えると、世代の人数が、200万人時代、100万人時代、そして18年後の将来の68万人時代と考えると、入学難易度にかなりの差があるとは思う。3倍入学しやすくなることになる。もとスポーツ選手とかアナウンサーとか、医学部で勉強すると話題になったとのことだ。
しかしそれ以上に、医学で学ぶように要求されている水準は、時代とともに上がっている。昔よりも入学しやすくなったうえに、学ぶ内容は飛躍的に増えているのだから、学生さんは大変である。その先も、専門医の維持とかでたくさんの勉強が必要になる。診断も治療法も薬も新しくなる。毎週何かしらのジャーナルがメールに届いている。
もちろん、職場で、他の人たちとうまくやっていくとか、価値観の中心はどんなものかとか、そのような、学問でない部分も大きいのだが、学問の部分だけを考えると、実際、膨大なものになっている。内科・外科・小児科の教科書はもっと分厚い。昔はハリソン、アンダーソン、ネルソンという教科書があって、釈迦三尊の教えと言っていた。
専門用語が多い文章を日本語にすることの意味があるのかとも感じる。理解の補助になることもあるが、日本語で見てもどうせ分からないので、英語を見ることになるのであれば、最初から英語だけのほうがいいと思う人もいるだろう。日本語と英語と両方で理解するのは、二倍の労力とは言わないが、余計なことをしているような気もする。専門用語が少なくて、日本語だけで何とか分かるようならば、理解の助けにはなる。文化のありかたとして日本語がそういった専門用語も取り込んで、日本語のシステムの中で、理解できるようにするのは、勉強の初心者には意味があることだと思う。
日本語として意味不明な文章も、英語で多分こんな文章だろうなと想像しながら読んだりする。それでもいいと思う。
英語脳を作り上げるか、日本語ー英語の翻訳脳を作り上げるか、選択肢はある。
場合によっては、日本語が壊れてしまう場合がある。それもまた新しい日本語だし、個性だとの見方もある。しかしそれは壊れた日本語だとの見方もある。どちらも、理由がある。