Ⅰ.なぜ「希望」は強制に変わるのか
回復モデルは、もともと
- 疾患中心モデルへの批判
- 専門家支配への抵抗
- 当事者の尊厳の回復
から生まれました。
しかし、善意の理念ほど、制度に回収されやすい。
決定的な転換点
希望が
「本人が持ってよいもの」から
**「持つべきもの」**に変わった瞬間
ここで回復は、
- 権利ではなく
- 義務になります。
Ⅱ.臨床で起きる「希望の強制」の瞬間
1.「目標」を聞かれることが負担になるとき
- 「将来どうなりたいですか?」
- 「5年後の目標は?」
- 「回復のゴールを設定しましょう」
これらは一見、尊重的です。
しかし、
- まだ生き延びるだけで精一杯の人
- 何も望めない状態の人
にとっては、
希望を語れない=不適切
という沈黙の圧力になります。
2.「前向きさ」が評価指標になるとき
回復モデルが制度化されると、
- 意欲
- 主体性
- ポジティブな語り
が、暗黙の評価軸になります。
その結果、
- 苦悩を語る人
- 迷い続ける人
- 立ち止まる人
は、
「回復していない人」
として、周縁化されます。
3.「希望を持てない自分」への二重の自己責任
従来の医療モデルでは、
- 病気で苦しい
回復モデルの歪んだ形では、
- 苦しい
- しかも希望を持てない自分が悪い
という、二重の責任が生まれます。
これは、
回復モデルが意図したものとは正反対です。
Ⅲ.三人の思想で読む「希望の暴力」
1.マルクス —— 希望の個人化
マルクス的に見ると、
- 本来、社会が引き受けるべき困難
- 制度が生み出す行き詰まり
が、
「あなたの希望の問題」
にすり替えられている。
これは、
- 自己責任論の新しい形
- 「優しい言葉を使った管理」
です。
2.フロイト —— 希望が防衛になるとき
フロイト的に見ると、
- 希望は常に善ではありません。
希望は、
- 絶望に触れないための防衛
- 喪失を感じないための回避
にもなります。
回復モデルが
- 絶望を十分に悲しむ時間
- 何も望めない時期
を奪うとき、
治療は深さを失います。
3.ウェーバー —— 希望の合理化
ウェーバーは、こう言うでしょう。
意味は、
合理的に設計された瞬間に、
生命を失う。
希望が、
- プログラム化され
- 目標管理され
- 成果測定される
とき、それは
「合理性の檻」に入れられた希望になります。
Ⅳ.臨床家ができる、ささやかな抵抗
これは革命の話ではありません。
臨床でできるのは、ほんの小さなことです。
- 「希望がなくても、ここにいていい」と明言する
- 目標を急がない
- 回復しない語りを遮らない
- 「よくなる」より「生き延びる」を尊重する
これだけで、
回復モデルは再び、人間の側に戻ります。
Ⅴ.まとめ
回復モデルが「希望の強制」になるとき
回復モデルは、
人を希望づけるために生まれた。
しかし、いつの間にか
希望を持つこと自体が、
人を評価する基準になってはいないだろうか。
「目標は何ですか」
「前向きに考えましょう」
「回復を目指しましょう」
それらの言葉が、
まだ立ち上がれない人にとって、
どれほど重いかを、
私たちは忘れがちである。
希望は、本来、
誰かに促されて持つものではない。
希望が持てない時間、
何も望めない季節、
ただ生き延びるだけの期間――
それらもまた、人間の回復の一部である。
回復モデルが人を救うのは、
希望を語らせるときではない。
希望がなくても、
その人の場所を奪わないときである。
