拡大鏡としての民主主義――資本・権力・依存症としての国家主義
ピケティが繰り返し示してきたことは、驚くほど単純で、しかし厳しい。
労働者がどれほど勤勉であっても、資本がある限り、資本の成長速度には追いつけない。
これは道徳の問題ではなく、構造の問題である。
資本は、放っておけば必ず自己肥大化する。
そして資本は、必ず権力と結びつく。
権力もまた、自己肥大化する性質をもつ。
この二つが結合したとき、社会は静かに、しかし確実に、労働者から未来を吸い上げていく。
戦争、革命、軍事独裁などの出口しかなくなる。
しかしそのようにして屈折点はあったとしても、結局、資本と権力の自己肥大化は続く。
1.少数が全体を支配する「選挙の拡大鏡」
日本政治で起きていることは、決して「国民の総意」ではない。
自民党内の極右的勢力は、党内でも少数派である。
それにもかかわらず、総裁選の力学によって、彼らは権力の中枢に立つことができる。
投票率を50%と仮定すれば、
権力党はその半分、25%を取ればいい。
さらにその半分、12.5%を押さえれば、党のトップになれる。
しかも、維新のような外部勢力を戦術的に利用すれば、実質10%に満たない支持でも、国家全体を動かすことが可能になる。
これが拡大鏡である。
これは民主主義の「欠陥」ではない。
民主主義の構造的特性である。
選挙は、少数意見を排除するだけでなく、特定の少数を拡大表示する拡大鏡としても機能する。
理論的裏付けが乏しく、実数としては少数であっても、
拡大鏡に映れば、それは「支配的な声」に見えてしまう。
2.防衛族・ITゼネコン・霞が関の収斂
この拡大鏡の先に、いま日本で伸長しているのが、
- 自民党と霞が関の防衛族勢力
- 軍事費膨張を背景にした官僚機構
- ITゼネコン的な巨大請負資本
である。
軍事費の増大は、安全保障の議論というより、利権の再編成として機能している。
武器、システム、サイバー、データ。
すべてが「公共性」を名乗りながら、資本の成長領域として囲い込まれていく。
このとき、国民は「守られている」と感じるように誘導される。
しかし実際には、守られているのは国家ではなく、資本の循環路である。
軍事費膨張に伴い、あたらな利権が発生する予定だ。その利権を誰が取るのか、必死の争いである。良心的になった方が負ける。口では「歴史の法廷で裁かれる」などと言いつつ、利権に群がる。
3.アメリカと「金の卵を産む鶏」
日本と韓国は、長らくアメリカにとって「金の卵を産む鶏」だった。
安定し、勤勉で、技術力があり、軍事的にも経済的にも従順だった。
ところが今、アメリカはこの鶏に、軍事費負担の増大を求めている。
これは比喩ではなく、文字通り、鶏を絞め殺す行為である。
- 軍事費増大
- 増税
- 社会保障の圧縮
- 若年世代の生活不安
- 少子化の加速
結果として、日本も韓国も、人口的・経済的に「滅亡方向」へ進んでいる。
もしこの道を突き進めば、
米国が命令 → 日本が軍事費増大 → 増税 → 日本衰退 → 統治不能
という、植民地経営としてすら失敗した結末に至る。
これは反米感情の話ではない。
合理性の問題である。
4.資本党とは名乗らない
政治の対立軸は、本来、単純だ。
- 資本
- 労働
しかし労働者側は、「社会党」「社会民主党」「労働者党」と、比較的正直に名乗る。
一方、資本側は決して「資本党」とは名乗らない。
資本は常に、
- 国家
- 成長
- 安全
- 伝統
- 現実主義
といった言葉の背後に隠れる。
その結果、国民は「階級としての対立」を認識できないまま、
情緒的な物語に巻き取られていく。
増税とインフレは現実である。
5.86兆円という異様な約束
トランプの関税問題をめぐって、日本は86兆円をアメリカに投資すると約束した。
この数字に、合理的説明は存在しない。
国内投資ではなく、国外投資。
将来世代の負担を、外交的儀礼として差し出す。
それでも大きな反発が起きないのは、
多くの日本人が、日本の没落を直視したくないからだ。
「日本はまだ技術大国だ」
「世界の真ん中で、再び咲き誇る」
こうした言葉は、痛みを和らげる。
しかしそれは、治療ではなく麻酔薬による依存症である。
6.国家主義という依存症、アベノミクスという依存症
国家主義もまた、貧しい国民を一時的に幸福にする依存症である。
アベノミクス再現論も同じだ。
効きますと大声で語る人がいる。
だが、現実は何も変わらない。
問題は、これに代わる「未来像」を、誰も提示できていないことにある。
政治家も、知識人も、有権者も、
もう一つの説得力ある物語を持っていない。
だから、古い依存症に戻る。
うっかりしていると、自己責任です、それが民主主義ですと言われて、請求書が待っている。
7.形式としての民主主義、内容としての政治
ここで重要なのは、政治を二つに分けて考えることだ。
- 民主主義は「形式」の問題
- 軍事費、国家主義、平和主義は「内容」の問題
「内容がよければ独裁でもよい」という考えは、
思想史的には明確な後退である。
形式を壊した瞬間、
その「よい内容」を誰が保証するのか。
8.非核三原則という空文
非核三原則のうち、「持ち込ませず」を削除したいという議論がある。
だが冷静に考えれば、
現状でも日本が核持ち込みを厳密に監視・検証しているわけではない。
米国にとって重要なのは、
「実際に持ち込むこと」ではなく、
潜在的に持ち込めるという曖昧さである。
抑止力とは、常に想像力の産物だ。
この点で、「持ち込ませず」はすでに空文化している。
それでもなお、この原則をあえて問題にするのは、
「作らず」「持たず」についても、いずれ消したいという願望の表れだろう。
結語:依存症をやめた後の痛みを引き受けられるか
いま日本社会に必要なのは、
新しい依存症ではない。
依存症の後の痛みを、
どう分かち合い、どう耐え、どう再設計するかという、
地味で、時間のかかる議論である。
資本と権力は、放っておけば太る。
だからこそ、民主主義は拡大鏡としてだけでなく、
減速装置として使われなければならない。
その覚悟がない限り、
どんな「強い言葉」も、
ただの依存症で終わる。
依存症を断ち切るには、かなりの困難が伴う。
しかしいつかは覚めなければならない。
依存したままで死亡したいのだろうか。
死亡診断書もアメリカが書いてくれるだろう。
死亡診断書はすでに出来上がっていて、あとは主治医のサインをするだけである。
みんなで興奮して泳ぎ続け、沖に上がって死んでしまう鯨だ。
