資本主義による民主主義プロセスの侵食
「一人一票」から「一円一票」への変質をめぐる考察
序:問題の所在
資本主義と民主主義の関係を論じるとき、従来は「資本主義という価値観」と「民主主義というプロセス」が、それぞれ独立した概念として扱われてきた。資本主義は経済システムであり、民主主義は政治システムである。両者は異なる領域に属し、相互に影響を与えながらも、概念的には分離可能であると考えられてきた。
しかし、現実を注意深く観察すると、この図式は既に崩れている。資本主義は単なる一つの価値観にとどまらず、議論のプロセスそのものにまで侵入し、民主主義の根幹を蝕んでいるのではないか。これは、人々が資本主義的価値を内面化しているという水準を超えた、より構造的で深刻な問題である。
本稿では、資本主義が民主主義的プロセスの各段階にどのように浸透し、「一人一票」の原則が「一円一票」の現実へと変質していく様相を、具体的に検討する。
第一章 選挙過程における資本の論理
- 1-1. 選挙資金と政治参加の不平等
- 1-2. 政治の職業化と資本依存
- 2-1. 報道の市場化
- 2-2. 情報の商品化と議論の劣化
- 2-3. 世論調査の商品化
- 3-1. ロビイストの台頭
- 3-2. 規制の捕獲
- 3-3. 情報の非対称性
- 4-1. 政党の変質
- 4-2. 政策の収斂と選択肢の消失
- 4-3. 第三勢力の困難
- 5-1. 消費者としての市民
- 5-2. 政治的無関心と冷笑主義
- 5-3. 「自己責任」イデオロギーの浸透
- 6-1. 国境を超える資本、国境に縛られる民主主義
- 6-2. タックスヘイブンと税の空洞化
- 6-3. 国際機関と民主的統制の欠如
- 7-1. デジタルプラットフォームの支配
- 7-2. 監視資本主義とプライバシーの終焉
- 7-3. フェイクニュースと真実の危機
1-1. 選挙資金と政治参加の不平等
民主主義の最も基本的な原則は「一人一票」である。この原則は、社会的地位、財産、学歴、性別に関わらず、全ての市民が平等な政治的権利を持つことを意味する。しかし、選挙の現実を見ると、この形式的平等は実質的不平等によって空洞化されている。
現代の選挙運動には膨大な資金が必要である。テレビ広告、インターネット広告、ポスター、ビラ、選挙事務所の運営、スタッフの雇用——これらすべてに金がかかる。アメリカの大統領選挙では、候補者一人あたり数億ドルから十億ドル以上の資金が使われる。日本でも、国政選挙における候補者の選挙費用は数千万円から億単位に達する。
この状況が何を意味するか。金を持つ者だけが、効果的に自分の主張を有権者に届けることができる。富裕層や大企業は、献金を通じて特定の候補者を支援し、間接的に政治的影響力を行使する。候補者は、選挙資金を調達するために、大口献金者の意向を無視できなくなる。
形式的には「一人一票」が保証されていても、実質的には「一円一票」の論理が働いている。資本を持つ者は、一票を投じるだけでなく、何百万人もの有権者の判断に影響を与える手段を持つ。一人の富豪の政治的影響力は、数万人の一般市民の影響力を凌駕する。
1-2. 政治の職業化と資本依存
選挙に金がかかるという事実は、政治家という職業のあり方を変容させた。かつて政治家は、市民の代表として、本業の傍らで公的任務を果たす存在であった。しかし現代では、政治は高度に専門化した職業となり、常時、資金調達に従事しなければならない。
アメリカの連邦議会議員は、就業時間の30〜70%を資金調達活動に費やすと言われる。パーティーへの出席、大口献金者への個別訪問、電話での寄付依頼——立法活動よりも資金調達が優先される。この構造の中で、政治家は必然的に資本の論理に従属していく。
日本でも状況は似ている。政治資金パーティー、企業献金、政治団体への寄付——これらを通じて、政治家は常に資金を集め続けなければならない。資金を提供する側は、見返りを期待する。それは露骨な利益誘導である場合もあれば、より微妙な「配慮」である場合もある。いずれにせよ、政治的意思決定が資本の影響下に置かれることに変わりはない。
こうして、民主主義の代表者であるはずの政治家が、実際には資本の代理人へと変質していく。選挙という民主主義の根幹プロセスが、資本によって植民地化されているのである。
第二章 メディアの商業化と世論形成
2-1. 報道の市場化
民主主義が機能するためには、市民が十分な情報を得て、合理的な判断を下すことが前提となる。この情報提供の役割を担うのがメディアである。しかし、現代のメディアは、公共的機能を果たすと同時に、営利企業でもある。
新聞社やテレビ局は、広告収入に依存している。視聴率が高い番組ほど、広告料金が高くなる。その結果、メディアは視聴者の関心を引く内容を優先し、重要だが退屈な政策論議は後回しにされる。政治報道は、政策の実質的内容よりも、スキャンダル、対立、人間ドラマといった娯楽的要素に偏っていく。
さらに深刻なのは、広告主への配慮である。大企業が主要な広告主である以上、メディアは大企業に不利な報道を避ける傾向がある。環境問題、労働問題、企業の不正——こうしたテーマは、広告主の利益と衝突する可能性があるため、扱いが慎重になる。あるいは、まったく報道されない。
インターネット時代になっても、状況は変わらない。むしろ悪化している。ニュースサイトは、クリック数を稼ぐために、センセーショナルな見出しを付ける。SNSでは、感情的な投稿ほど拡散される。アルゴリズムは、ユーザーの既存の信念を強化する情報を優先的に表示する。こうして、冷静な議論は駆逐され、分断が深まる。
2-2. 情報の商品化と議論の劣化
民主主義的議論の前提は、異なる意見の対等な交換である。しかし、情報が商品化されると、議論は娯楽へと変質する。
テレビの政治討論番組を見てみよう。そこで行われているのは、真摯な議論ではなく、視聴者を楽しませるための「ショー」である。論客は、相手を論破することを目指す。冷静な分析よりも、攻撃的なレトリックが評価される。複雑な問題は、単純化され、二項対立に還元される。
視聴者は、議論の内容を吟味するのではなく、誰が「勝った」かを判定する。政治は、スポーツの試合のように消費される。政策の是非は、論理的妥当性ではなく、誰がより雄弁か、誰がより攻撃的か、誰がより「面白い」かで判断される。
こうして、民主主義的議論は空洞化する。市民は、十分な情報に基づいて熟慮するのではなく、メディアが提供する娯楽を消費し、感情的に反応する。議論のプロセスそのものが、市場の論理によって歪められているのである。
2-3. 世論調査の商品化
世論調査は、本来、民意を把握するための道具である。しかし、それもまた商品化されている。世論調査の結果は、ニュースとして販売される。衝撃的な結果ほど、ニュース価値が高い。
メディアは、世論調査を頻繁に実施し、その結果を大々的に報道する。しかし、質問の設定によって、結果は大きく変わる。「あなたは増税に賛成ですか」という質問と、「財政健全化のための増税に賛成ですか」という質問では、回答が異なる。世論調査は、中立的な測定器具ではなく、世論を操作する道具にもなりうる。
さらに、世論調査の結果自体が、世論を形成する。「支持率が低下」という報道は、さらなる支持率の低下を招く。「逆転の兆し」という報道は、バンドワゴン効果を生む。世論調査は、民意を反映すると同時に、民意を創り出す。そして、この過程は、メディアの商業的利益に従って運営される。
民主主義において、市民の意見は主権の源泉である。しかし、その意見の形成過程そのものが、資本の論理に支配されているとすれば、民主主義の主権者は誰なのか。市民なのか、それとも資本なのか。
第三章 ロビー活動と政策形成の歪み
3-1. ロビイストの台頭
民主主義において、政策は公開の議論を経て決定されることが理想である。しかし実際には、多くの重要な政策決定が、非公開の場で、ロビイストと政治家の間で行われている。
アメリカでは、ロビー活動は巨大産業である。ワシントンD.C.には、議員の数を上回るロビイストがいる。彼らは、特定の企業や業界団体の利益を代表し、議員に働きかける。接待、献金、情報提供、時には選挙支援——あらゆる手段を使って、政治家に影響力を行使する。
日本でも、形式は異なるが、本質は同じである。業界団体は、官僚や政治家と密接な関係を築く。天下りの受け入れ、政治献金、審議会への委員派遣——こうした手段を通じて、自分たちに有利な規制や政策を実現しようとする。
問題は、ロビー活動の能力が、資本の大きさに比例することである。大企業は、専門のロビイストを雇い、継続的に政治家に働きかけることができる。他方、中小企業や労働者、消費者、環境保護団体などは、同等のロビー活動を展開する資源を持たない。
3-2. 規制の捕獲
この非対称性は、「規制の捕獲」と呼ばれる現象を生む。本来、規制は公共の利益のために存在する。環境規制は環境を守り、金融規制は市場の安定を守り、労働規制は労働者を守る。しかし、被規制産業が規制当局に強い影響力を持つと、規制は産業保護の道具に変質する。
例えば、金融規制を考えてみよう。金融危機の後、より厳格な規制が必要だという社会的合意があった。しかし、金融業界は強力なロビー活動を展開し、規制の骨抜きに成功した。規制法案は議会を通過したが、その実施細則は業界に有利な形で定められた。規制当局の幹部は、金融業界出身者で占められ、退職後は再び金融業界に戻る。
こうして、民主主義的プロセスを経て決定されたはずの政策が、実際の運用段階で変質する。市民は、規制が強化されたと信じる。しかし実際には、規制は産業の利益を守るために機能している。民主主義の外見は保たれるが、その実質は空洞化している。
3-3. 情報の非対称性
ロビー活動が効果的である理由の一つは、情報の非対称性である。現代の政策課題は、極めて専門的で複雑である。議員や官僚は、すべての分野に精通することはできない。そこで、産業界から提供される「専門知識」に依存する。
しかし、この専門知識は中立的ではない。企業が提供するデータは、自社に有利な結論を導くように選別され、解釈されている。独立した研究機関の報告書でさえ、資金提供者の意向に影響される。「タバコは健康に害がない」という研究を、タバコ会社が資金提供した研究機関が発表する。「温暖化は自然現象だ」という研究を、化石燃料産業が資金提供した研究機関が発表する。
一般市民は、こうした情報操作を見抜くことは困難である。専門知識を持たず、時間も資源もない市民は、メディアが報じる表面的な情報に依存せざるを得ない。そして、そのメディアもまた、前述のように資本の影響下にある。
こうして、政策形成のプロセス全体が、資本によって包囲される。形式的には、議会での議論、公聴会、パブリックコメントといった民主主義的手続きが踏まれる。しかし、その背後では、資本が情報を操作し、議論の枠組みを設定し、最終的な結論を方向付けている。
第四章 政党政治と資本の論理
4-1. 政党の変質
政党は、本来、特定の理念や政策を実現するために、志を同じくする人々が結集した組織である。しかし現代の政党は、選挙に勝つための機械へと変質している。
選挙に勝つためには、金が必要である。金を得るためには、献金者の意向に配慮しなければならない。政党の政策は、理念ではなく、資金提供者の利益によって決定されるようになる。
アメリカの二大政党制を見てみよう。共和党と民主党は、イデオロギー的には対立している。しかし、両党とも大企業からの献金に依存している。その結果、両党の政策は、特定の争点では対立するが、資本の基本的利益に関わる問題では一致する。金融規制、貿易政策、税制——こうした分野では、両党の違いは表面的である。
日本でも同様である。自民党は保守政党、野党は革新政党と位置付けられる。しかし、経済政策においては、両者とも大きな違いはない。いずれも企業献金を受け、いずれも経済成長を最優先する。政権交代が起きても、根本的な政策転換は起きない。なぜなら、政党の行動を制約しているのは、理念ではなく、資本だからである。
4-2. 政策の収斂と選択肢の消失
この状況が生み出すのは、政策の収斂である。主要政党が資本に依存している限り、資本の利益に反する政策は、選択肢から排除される。
例えば、富の再分配を考えてみよう。多くの先進国で、所得格差が拡大している。論理的には、累進課税の強化、相続税の引き上げ、金融所得課税の強化などが選択肢になりうる。しかし、これらの政策は、主要政党の政策課題にならない。なぜなら、これらは献金者——富裕層と大企業——の利益に反するからである。
民主主義の本質は、選択である。異なる選択肢の中から、市民が自分たちの代表を選び、政策を選ぶ。しかし、選択肢そのものが制約されているとすれば、選挙は形式的な儀式に過ぎない。資本の利益に適合する範囲内でのみ、選択が許されている。これは、真の民主主義と言えるだろうか。
4-3. 第三勢力の困難
それでは、既存の政党システムの外から、新しい政治勢力が登場し、真の変革をもたらすことは可能だろうか。理論的には可能である。しかし現実には、極めて困難である。
新しい政党や政治運動が成功するためには、既存政党と同等の資金と組織が必要である。しかし、資本の利益に挑戦する政党は、企業献金を得られない。草の根の小口献金に依存するしかない。これは、資金力で圧倒的に劣ることを意味する。
さらに、メディアの壁がある。既存の政治秩序に挑戦する勢力は、メディアから「過激」「非現実的」とレッテルを貼られる。あるいは、単に無視される。メディア露出が少なければ、有権者に政策を知ってもらうことができない。
こうして、政治システムは自己再生産する。資本に依存する政党だけが生き残り、資本に挑戦する勢力は周縁化される。民主主義は形式的に維持されるが、その内実は硬直化する。これもまた、資本による民主主義プロセスの侵食の一形態である。
第五章 市民の内面化:主体性の喪失
5-1. 消費者としての市民
ここまで、資本が民主主義の外的プロセス——選挙、メディア、ロビー活動、政党——を侵食する様相を見てきた。しかし、最も深刻な侵食は、市民の内面で起きている。
資本主義社会において、人々は消費者として訓練される。朝起きてから夜寝るまで、人々は商品を選択し続ける。どの歯磨き粉を使うか、どのコーヒーを飲むか、どの服を着るか、どのスマートフォンを買うか——無数の選択が、消費の領域で行われる。
この消費者としての訓練は、政治にも及ぶ。政治家は商品のように扱われ、政策はパッケージとして提示され、市民はそれを「購入」する。選挙は、政治的商品の販売競争になる。
消費者は、自分の好みに合う商品を選ぶ。しかし、その好みは、広告によって形成される。同様に、政治的「好み」も、政治広告、メディア報道、SNSの情報によって形成される。市民は、自分で考えて判断しているつもりでいるが、実際には、与えられた選択肢の中から選んでいるに過ぎない。
5-2. 政治的無関心と冷笑主義
消費者としての市民は、受動的である。商品を選ぶが、商品を作り出すことはしない。同様に、政治的消費者は、提示された選択肢の中から選ぶが、自ら政治的主体として行動することはしない。
多くの市民は、政治に関心を持たない。投票率は低下し続けている。なぜか。一つの理由は、「誰に投票しても同じだ」という認識である。そしてこの認識は、ある意味で正しい。前述のように、主要政党の政策は収斂しており、実質的な選択肢は限られている。
さらに、冷笑主義が蔓延する。「政治家は嘘つきだ」「政治は汚い」「結局、金と権力の争いだ」——こうした態度は、政治への幻滅の表れである。しかし同時に、それは現状維持への暗黙の同意でもある。政治を変えることを諦め、冷笑することで、現状を受け入れる。
この冷笑主義は、資本にとって都合がいい。市民が政治に無関心であれば、資本は自由に政治を操作できる。市民が冷笑的であれば、民主主義の理念に訴えることは無意味になる。民主主義の空洞化は、市民の無関心と冷笑によって完成する。
5-3. 「自己責任」イデオロギーの浸透
資本主義は、特定のイデオロギーを伴う。その核心は、「自己責任」である。成功は個人の努力の結果であり、失敗は個人の責任である。この論理は、社会的・構造的問題を個人の問題に還元する。
貧困は、怠惰の結果である。失業は、努力不足の結果である。病気は、自己管理の失敗である。この論理では、社会保障は不要であり、規制は有害であり、再分配は不公正である。全てを市場に委ね、個人の選択に任せるべきだという結論になる。
この自己責任イデオロギーが深く内面化されると、市民は連帯を失う。自分の問題は自分で解決すべきであり、他人の問題は他人の責任である。集団的行動、社会運動、労働組合——こうした連帯の形態は、時代遅れとみなされる。
しかし、連帯なき市民は、無力である。個人として、巨大な資本や権力に対抗することはできない。集団として組織されてこそ、市民は力を持つ。自己責任イデオロギーは、市民を分断し、無力化することで、資本の支配を強化する。
こうして、資本主義の論理は、市民の思考様式そのものを支配する。人々は、資本主義的価値観を「自然」で「当然」のものとして受け入れる。代替的な価値観は、想像することすら困難になる。これが、最も根源的な侵食である。
第六章 グローバル化と民主主義の空洞化
6-1. 国境を超える資本、国境に縛られる民主主義
20世紀後半以降、資本のグローバル化が加速した。企業は国境を越えて活動し、資本は瞬時に世界を移動する。他方、民主主義は国民国家の枠内で機能する。この非対称性が、新たな問題を生んでいる。
多国籍企業は、各国の税制や規制の違いを利用する。利益は税率の低い国に移転し、汚染を伴う生産は規制の緩い国で行う。労働コストの安い国に工場を移転し、労働者を解雇する。こうした企業行動に対して、一国の民主主義は無力である。
例えば、ある国が環境規制を強化しようとする。すると企業は、「そんな規制をすれば、我々は他国に移転する。雇用が失われる」と脅す。政府は、雇用喪失を恐れて、規制を断念する。あるいは、骨抜きにする。こうして、民主主義的に選択された政策が、資本の移動性によって覆される。
6-2. タックスヘイブンと税の空洞化
タックスヘイブン(租税回避地)の存在は、この問題を象徴的に示している。世界中の富裕層と大企業が、タックスヘイブンを利用して税を回避している。その額は、数十兆ドルに達するとされる。
税は、民主主義の根幹である。市民は税を払い、その税を財源として、民主主義的に選ばれた政府が公共サービスを提供する。しかし、富裕層と大企業が税を回避すれば、この循環は破綻する。
税収が不足すれば、政府は支出を削減するか、増税するしかない。支出削減は、社会保障の削減、教育予算の削減、インフラ投資の削減を意味する。増税は、主に中間層と労働者に課される。富裕層と大企業は、タックスヘイブンを使って逃れる。
こうして、税負担は下方に移転する。不平等は拡大する。そして、民主主義は弱体化する。なぜなら、公共サービスの質が低下すれば、市民は政府を信頼しなくなり、政治に幻滅するからである。
6-3. 国際機関と民主的統制の欠如
グローバルな問題に対処するために、様々な国際機関が設立されてきた。IMF、世界銀行、WTO——これらの機関は、グローバルな経済秩序を管理する役割を担う。
しかし、これらの国際機関には、民主的統制が欠如している。意思決定は、加盟国の代表によって行われるが、その代表は民主的に選ばれていない。あるいは、選ばれていても、国際機関での活動について市民に説明責任を負っていない。
さらに、これらの機関の政策は、しばしば資本の利益に偏っている。IMFの構造調整プログラムは、債務国に緊縮財政と民営化を強制する。WTOは、自由貿易を推進し、各国の規制を「貿易障壁」として攻撃する。これらの政策は、途上国の民主主義を弱体化させ、労働者と環境を犠牲にして、多国籍企業の利益を増大させる。
グローバル化は、民主主義の空間を縮小させる。重要な決定が、国民国家の民主主義の手の届かないところで行われる。市民は投票できるが、その投票は、グローバルな経済秩序には影響を与えない。民主主義は、形式的には維持されるが、実質的には無力化される。
第七章 テクノロジーと新たな侵食形態
7-1. デジタルプラットフォームの支配
21世紀に入り、新しいタイプの資本が登場した。Google、Facebook(Meta)、Amazon、Apple——いわゆるGAFAである。これらのデジタルプラットフォーム企業は、かつてない規模の富と権力を蓄積している。
これらの企業が持つのは、単なる経済的権力ではない。情報の支配である。Googleは検索を支配し、Facebookはソーシャルメディアを支配し、Amazonは電子商取引を支配する。人々が見る情報、人々が接触する意見、人々が購入する商品——これらすべてが、プラットフォーム企業のアルゴリズムによって制御される。
アルゴリズムは、ユーザーのエンゲージメントを最大化するように設計される。エンゲージメントが高いほど、広告収入が増えるからである。しかし、エンゲージメントを高めるのは、冷静な議論ではなく、感情的な対立である。怒り、恐怖、憎悪——こうした感情を喚起するコンテンツが、優先的に表示される。
こうして、公共圏は汚染される。建設的な議論は駆逐され、分断が深まる。民主主義に必要な理性的対話は、不可能になる。そして、この状況を作り出しているのは、プラットフォーム企業の利益追求である。
7-2. 監視資本主義とプライバシーの終焉
デジタルプラットフォームのビジネスモデルは、「監視資本主義」と呼ばれる。ユーザーの行動は、徹底的に追跡され、分析され、商品化される。あなたが何を検索し、何をクリックし、何を購入し、誰とメッセージを交換するか——すべてのデータが収集される。
このデータは、ターゲティング広告に使われる。しかし、それだけではない。政治キャンペーンもまた、このデータを利用する。有権者の心理プロファイルを作成し、個々人に最適化されたメッセージを送る。恐怖を感じやすい人には恐怖に訴える広告を、怒りを感じやすい人には怒りを喚起する広告を送る。
2016年のアメリカ大統領選挙で、ケンブリッジ・アナリティカ社がこの手法を使ったことが明らかになった。数千万人のFacebookユーザーのデータを無断で取得し、心理プロファイルを作成し、選挙運動に利用した。これは氷山の一角である。同様の手法は、世界中で使われている。
民主主義は、市民の自律的判断を前提とする。しかし、市民の思考が、データ分析と心理操作によって誘導されるとすれば、その判断は自律的と言えるだろうか。民主主義の主体は、市民なのか、それともアルゴリズムなのか。
7-3. フェイクニュースと真実の危機
デジタル時代のもう一つの問題は、フェイクニュースである。誰でも、低コストで、大量の偽情報を流布できる。そして、プラットフォームのアルゴリズムは、真偽を問わず、エンゲージメントの高いコンテンツを拡散する。
フェイクニュースは、選挙を歪める。虚偽の情報に基づいて、有権者は判断を下す。しかし、選挙が終わった後に真実が明らかになっても、結果は変わらない。民主主義の意思決定は、事実に基づくべきである。しかし、事実と虚偽の区別が曖昧になれば、民主主義は機能不全に陥る。
さらに深刻なのは、「真実の危機」である。フェイクニュースの氾濫は、人々の信頼を損なう。何が真実で何が嘘か、誰も確信を持てなくなる。すべてのニュースが疑わしく見える。この状況では、権力者は「これは虚偽だ」と主張することで、不都合な真実を否定できる。真実が存在しなくなれば、権力への説明責任も存在しなくなる。
テクノロジーは、民主主義を強化する道具にもなりうる。情報へのアクセスを拡大し、市民の参加を促進し、権力を監視する。しかし現実には、テクノロジーは資本に支配され、民主主義を侵食する道具になっている。この矛盾を解決しない限り、民主主義の未来は暗い。
結論:民主主義の再生は可能か
ここまで見てきたように、資本主義は民主主義のあらゆる局面に浸透している。選挙、メディア、ロビー活動、政党、市民の意識、グローバル化、テクノロジー——民主主義的プロセスの各段階が、資本の論理によって侵食されている。
「一人一票」という民主主義の基本原則は、形式的には維持されている。しかし実質的には、「一円一票」の現実が支配している。富を持つ者が、より多くの政治的影響力を持つ。資本を持つ者が、政策を決定する。市民は投票できるが、その投票は、資本が設定した選択肢の中でしか行われない。
この事態は、単に不平等の問題ではない。民主主義そのものの危機である。民主主義は、市民の平等な政治参加を前提とする。しかし、資本による侵食は、この平等を破壊する。一部の者が圧倒的な権力を持ち、大多数の者が無力化される。これは、もはや民主主義ではない。寡頭制である。
それでは、どうすればいいのか。民主主義を再生することは可能なのか。
完全な答えは、誰も持っていない。しかし、いくつかの方向性は指摘できる。
第一に、政治資金の規制である。選挙における資本の影響力を制限するために、献金額の上限設定、企業献金の禁止、公的資金による選挙運動の支援などが必要である。
第二に、メディアの民主化である。公共放送の強化、メディアの所有規制、アルゴリズムの透明性確保、フェイクニュース対策——こうした施策を通じて、情報空間を資本の支配から解放する必要がある。
第三に、ロビー活動の透明化と規制である。誰が誰にいくら献金したか、どの企業がどの政策に働きかけているか——これらの情報を完全に公開し、市民の監視下に置く必要がある。
第四に、税制改革である。タックスヘイブンの廃絶、累進課税の強化、金融所得課税の強化、富裕税の導入——こうした施策を通じて、富の集中を抑制し、公共の財源を確保する必要がある。
第五に、グローバルな民主主義の構築である。国際機関の民主化、グローバルな税制協力、多国籍企業への規制——国民国家を超えた民主的統制の仕組みを作る必要がある。
第六に、市民の主体性の回復である。消費者としての受動性を脱し、市民としての能動性を取り戻す。連帯を再構築し、社会運動を組織し、集団的に行動する。これなくして、他のいかなる改革も実現しない。
これらの方向性は、いずれも容易ではない。なぜなら、それらは資本の利益に反するからである。そして、資本は既に政治を支配している。民主主義を守るための改革を、民主主義的に実現することは、極めて困難である。
しかし、不可能ではない。歴史を振り返れば、労働運動、公民権運動、女性参政権運動——市民の集団的行動が、権力構造を変革してきた例は数多くある。それらは、困難で、時間がかかり、犠牲を伴った。しかし、最終的には成功した。
民主主義は、完璧なシステムではない。人間の誤謬性を前提とした、不完全なシステムである。しかし同時に、それは自己修正能力を持つシステムでもある。間違いを認識し、議論し、訂正する——この反復のプロセスこそが、民主主義の本質である。
資本主義による民主主義プロセスの侵食は、深刻である。しかし、この問題を認識し、議論し、対抗することは可能である。そして、それこそが、民主主義的行為である。
民主主義を守るためには、民主主義を使うしかない。この逆説こそが、我々が直面している挑戦の核心である。困難ではあるが、放棄することはできない。なぜなら、民主主義の代替案——独裁、寡頭制、権威主義——は、さらに悪いからである。
「一人一票」から「一円一票」への変質は、進行中である。しかし、まだ完了していない。我々には、まだ時間がある。問題は、その時間を使って、何をするかである。
(了)
