ジャクソニスム(Jacksonisme)

アンリ・エーの仕事を理解する上で、「ジャクソニスム(Jacksonisme)」は欠かすことのできない最重要の基盤です。

ジャクソニスムとは、イギリスの神経学者ジョン・ヒューリングス・ジャクソン(John Hughlings Jackson, 1835–1911)が提唱した理論体系のことです。エーは、この神経学の理論を「精神医学(心の病い)」の領域に応用し、独自の器官力動論を打ち立てました。

あなたの思索(欲望の制度化、プロセスの組織化、不完全な人間の統治)と、ジャクソニスムの構造は驚くほど一致しています。


1. ジャクソニスムの核:進化と階層構造

ジャクソンの根本的な考え方は、「神経系は、進化の過程を反映した階層構造(ヒエラルキー)になっている」というものです。

  • 下位レベル(自動的・原始的): 呼吸、反射、原始的な欲求。機械的で確実な動き。
  • 中位レベル: 運動や感覚の調整。
  • 上位レベル(随意的・複雑): 思考、判断、意識。最も新しく進化し、最も複雑で「脆い」。

ここで重要なのは、「上位レベルが下位レベルを抑制(コントロール)している」という視点です。

2. 「溶解(Dissolution)」という概念:進化の逆転

ジャクソンは、病気や障害の本質を「溶解(ディソリューション)」と呼びました。これは「進化(Evolution)」の真逆のプロセスです。

  • 溶解の法則: 病気になると、まず「最も新しく、最も複雑で、最も随意的な機能(上位)」が失われ、人間は「より古く、より自動的で、より原始的な段階(下位)」へと退行する。

3. 「陰性症状」と「陽性症状」の二重構造

ジャクソニスムの最も画期的な発見は、病気の症状を二層で捉えたことです。これは、アンリ・エーに受け継がれ、精神医学の古典的知見となりました。

  1. 陰性症状(欠落): 上位の機能が働かなくなること(例:判断力の喪失、意志の欠如)。
  2. 陽性症状(解放): 上位の抑制が外れたことで、下位の原始的な機能が勝手に暴れ出すこと(例:幻覚、妄想、制御不能な情念、衝動的な行動)。

4. アンリ・エーによる「精神医学的ジャクソニスム」

アンリ・エーは、これを脳の神経回路の話から「精神の組織化」の話へと広げました。

エーにとって精神病とは、「精神の組織化のレベルが『溶解』し、自由が失われたことで、下層にある自動的な情念や欲望が剥き出し(陽性症状)になった状態」なのです。


5. あなたの考察への応用:社会のジャクソニスム

あなたがこれまで論じてこられた「資本主義と民主主義」の構想を、ジャクソニスムの鏡に映すと、非常にクリアな診断書が出来上がります。

① 社会の階層構造

  • 上位レベル(民主主義): 複雑で、時間がかかり、脆い。多様な価値を調整し、社会を「組織化」する高度な自由のプロセス。
  • 下位レベル(資本主義・欲望): 原始的、自動的、強力。生存本能に直結した「利得」のメカニズム。

② 現代社会の「溶解(ディソリューション)」

あなたが危惧されている「資本の論理が民主主義を蝕む」という事態は、まさに社会のジャクソニスム的溶解です。

  • 陰性症状: 民主主義という上位の組織化機能が働かなくなる(熟議の喪失、思考停止)。
  • 陽性症状: 抑制を失った「剥き出しの資本主義(欲望)」が、社会のあらゆる場面で暴走し始める(拝金主義、金権政治、扇情的なマーケティング)。

③ 民主主義は「上位の抑制機能」である

ジャクソニスムの視点に立てば、民主主義とは単なる「手続き」ではなく、社会という生命体が、原始的な衝動(資本の論理)に飲み込まれずに、高度な自由(人間的価値)を維持するための「最上位の組織化の努力」そのものです。


結論:なぜ「不完全さ」が前提なのか

ジャクソニスムにおいて、上位レベル(意識・理性)は常に下位レベル(本能・情念)からの突き上げに晒されており、不安定です。
「人間は間違える(不完全である)」というのは、上位レベルが常に進化の途上にあり、溶解の危機を孕んでいるからに他なりません。

  • 資本主義(下位): 自動的で間違いがない(欲しいものは欲しい)。
  • 民主主義(上位): 随意的で常に間違いに満ちている。

しかし、この「間違いに満ちた上位の組織化」を諦めて、自動的な下位のプロセス(資本の論理やAIの最適解)に身を委ねることは、ジャクソニスムの定義によれば、社会が「狂気に陥る(自由を放棄する)」ことを意味します。

あなたが「最初に、自由主義と民主主義を考えた」ことから始まったこの思索は、図らずも、「社会という精神がいかにして溶解(狂気)を防ぎ、人間としての自由を組織化し続けるか」という、アンリ・エー的な壮大な精神医学的闘争に接続されていたと言えるでしょう。

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