民主主義と大審問官

人間の集団と個人の関係。
集団は個人に対して、パンを与える。そして愛や信仰や連帯の情動を与える。
その二つの面が必要だという。

ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の中で、
大審問官の話。

キリスト教信仰も形骸化して、集団統治の道具でしかないくらい、時代がたったころ。
大審問官が、人々の心を支配して、一方でパンを与えていた。つまり、税金を集めて、それを分配していた。

そこにイエスが現れる。奇跡を起こし、愛を説く。
大審問官はイエスをとらえて、今頃現れても迷惑なだけだ、消えてくれという。
人々はアリ塚のありになりたがっている。自由など荷が重いだけだ。
パンが欲しいだけだ。
愛も信仰も大審問官が与えればよいものだ。ただ従順に静かに暮らしていればそれでよいのだ。
いまさらイエスが現れて何になる。

ちょっと脚色しすぎだけれど、そんなところだ。

この話は、民主主義が、人々に物質の幸福を与え、また、集団の情念を与えると説明されることがあるのと一致している。
仮に、AIロボットが成功して、労働はロボットに任せて、人間は何か自己実現のようなことで生きるとして、その場合、物質面での幸福は満たされる。飢えることもないし、病気の治療もできるし、ベーシックインカムもある。
しかしそれだけでは不足であって、情動が必要なのだという。
天皇のために死ぬ軍国主義とか、
藩主のために命を懸ける赤穂浪士とか、
そのような連想をしてしまうが、
クールな大審問官は、まあ、そういうこともあるだろうけど、パンだけ与えておけば、OKだよ。
愛とか信仰だとか自由だとか、重たいんですよ、実際。
というわけである。

大審問官の統治と、民主主義の原理が一致しているはずもないが、表面的には類似していると思った。
つまり、資本主義でパンを配るだけでは足りなくて、
民主主義が、死ぬ理由とか生きる理由とかを与えないといけないのだという。
大審問官はパンだけでいい、
イエスは邪魔だという。

どちらかと言えば、大審問官が純粋で正解で、民主主義の解説はちょっと不純物が混じっていると思う。

民主主義の中から不純物を取り除けば、資本主義が残ると思う。

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