温存的精神療法 Conservative Psychotherapy という着地点──理性への信仰から誤差修正知性へ

Conservative Psychotherapy という着地点

──理性への信仰から誤差修正知性へ

I.逆説的な自己診断

精神科医として長年臨床を続けてきた私が、ある時期から自分の治療スタンスを振り返り、その核心に「温存的精神療法(Conservative Psychotherapy)」という言葉を据えるようになった。

これは、自分でも少なからず意外なことだった。

私はずっと、自分をラディカルで理知的な人間だと思ってきた。Radical であり、liberal であり、intellectual である——そう自己規定してきた。学生時代には、批判的精神医学の文献も読んだ。フーコーの『狂気の歴史』を読み、反精神医学運動も読み、制度としての精神医療の暴力性についても読んだ。そういう自分が、なぜ「Conservative」という形容詞にたどり着いたのか。

仲間の精神科医に話すと、戸惑われることもある。「保守的な精神療法? それは支持療法とは違うのか。それとも単なる折衷主義か」と問い返される。その違和感はよくわかる。だが、私が使うConservative という言葉には、特定の意味がある。それを以下で説明したい。

II.理性主義の壁——歴史的俯瞰から

まず、少し大きな視野から考えてみたい。

人間の営みの一つの軸は、「理性・合理性をどこまで信頼し実現できるか」という問いである。この問いは、精神医療にとっても他人事ではない。

フランス革命を思い出してほしい。あれは、単なる政変ではなく、理性主義の政治的実験だった。「人間は理性によって社会を設計し直せる」という確信が、ギロチンと恐怖政治を生み出した。エドマンド・バークはその同時代に、『フランス革命の省察』の中でこれを鋭く批判した。バークの要点を一言でいえば、「人間の理性には限界があり、長年かけて積み上げられてきた慣習・制度・暗黙知には、言語化できない知恵が宿っている」ということだ。革命的に設計された社会は、その暗黙知を破壊してしまう。

ソ連型社会主義も、ある意味で同じ構造を持っていた。マルクス・レーニン主義は、歴史の合理的法則を発見したという確信に基づく理性主義の実験だった。夾雑物は大量にあったものの、「理性によって社会を再設計できる」という信念が根底にあった。そしてこれも、周知の通り崩壊した。

バークの保守主義は、反動でも反知性主義でもない。それは「謙虚な理性」とでも呼ぶべきものだ。私が Conservative Psychotherapy という概念を語る時、このバーク的な知的謙虚さへの共鳴がある。

III.先験的理性の限界——臨床という試練場

しかし、私がより強くこれを実感したのは、歴史書からではなく、日々の外来診察室からだった。

研修医の頃、私はある種の「理性的治療者」を目指していた。認知行動療法の技法を学び、精神力動を体系的に把握し、エビデンスに基づく治療計画を立てる——そのような理想があった。患者さんの問題を正確に定式化し、合理的な介入を行えば、病態は改善に向かうはずだ、と。

ところが、臨床はそう動かない。

例えば、重度の強迫性障害の患者さんがいたとする。曝露反応妨害法が最も効果的なエビデンスを持つ治療法だということは、私も患者さんも知っている。理屈はわかる。だが、その患者さんは「わかっているけどできない」と言い続ける。こちらが「なぜできないのか」を論理的に分析して伝えても、それは往々にして逆効果になる。理屈を重ねるほど、患者さんは「わかっている、でも……」という苦しさの中に追い込まれていく。

あるいは、長年の抑うつを抱えた患者さんを考えてみよう。認知の歪みを同定し、自動思考を検討し、スキーマを修正する——CBTの教科書通りに進めようとすると、患者さんは「そう考えればいいのはわかるけど、そう感じられない」と言う。知的理解と感情体験の間には、橋渡しが必要なのだ。その橋を架けるのは、技法ではなく関係性であることが多い。

カントの言葉を借りれば、私は「純粋理性」による治療から「実践理性」へ、さらにはその先へと移行していった、ということになるかもしれない。だが、もっと臨床的な言い方をするなら、私は「理性に患者さんを合わせる」治療から、「患者さんにこちらの理解を合わせる」治療へと重心を移した。

IV.誤差修正知性という概念

この転換を、私は「誤差修正知性(error-correcting intelligence)」という概念で捉えるようになった。

これは、先験的理性(a priori reason)との対比で考えると分かりやすい。先験的理性とは、経験に先立つ理性、つまり「こうあるべきだ」という演繹的な確信から出発する知性のあり方である。それに対して誤差修正知性とは、現実との齟齬(誤差)を絶えず検出し、自分の内的モデルを修正し続ける知性のあり方だ。

脳科学的に言えば、これはベイズ的な予測符号化(predictive coding)のモデルに近い。私たちの脳は、世界についての内的モデルを持ち、そのモデルから予測を生成し、現実との予測誤差(prediction error)を検出して、モデルを更新し続けている。Karl Friston らが提唱するこの枠組みは、精神疾患を「予測誤差の処理の異常」として捉えることができる。

臨床においても同じ構造がある。治療者は患者についての内的モデルを持つ。そのモデルが現実の患者さんと一致しないとき(誤差が生じるとき)、その誤差を治療者が修正するのか、患者さんに修正を強いるのか——Conservative Psychotherapy は前者の姿勢を基本とする。

これは決して「患者さんの言いなりになる」ということではない。治療的な方向性は持つ。しかしその方向性は、患者さんの文脈、歴史、価値観、そして変化への準備性(readiness for change)を丁寧に読み取った上で、可能な限り小さな誤差修正の積み重ねとして実現していく。

外科医に例えるならば、「最善の術式で切除する」より「体に最小限の負荷で、確実に回復できる手術をする」という発想の違いに近い。

V.「書く」ことと認識の時間性

少し話題を変えて、認識と記述の問題について考えたい。これは、私自身の臨床思考の発展と関係している。

私は、短期間に大量の文章を書くことには懐疑的になっている。思いつきの端緒は、短期間のうちにいくつも生まれる。しかしそれを分析し総合し記述するとき、私たちは知らず知らずのうちに、同じ時期に持ちがちな認識の癖(「潜在的内的同型性」とでも言うべきもの)を繰り返してしまっている。

数年後に読み返すと、「あのころは情熱があったが、幼かった」と感じることが多い。書いた当時は、真実を書いたと確信している。しかし後から見ると、当時の自分の状況や感情の文脈の中で、特定の思考パターンに囚われていたことがわかる。

これは自己批判ではない。むしろ、認識の時間的構造についての観察だ。私たちは常に、現在の文脈に規定された形でしか思考できない。だからこそ、自分の思考を「最終的な真実」として確定させることには慎重でなければならない。

臨床においても同じことが言える。患者さんの現在の語りを、その人の「真実」の固定した表現として受け取るのではなく、その時点の文脈における表現として受け取ること——これも誤差修正知性の一形態だと私は考える。

精神科医として私たちが行っていることは、患者さんが自分自身の「誤差」に気づき、それを修正するプロセスの伴走者になることかもしれない。そしてそのためには、私たち自身が自分の認識の誤差に敏感でなければならない。

VI.精神医学の潮流と、それへの半分の抵抗

現在の精神医学の主流は、生物学的精神医学とエビデンス・ベイスト・メディスン(EBM)の組み合わせだ。私はその半分に同意している。

神経科学の進展は目覚ましく、精神疾患の病態理解は確実に深まっている。薬物療法のエビデンスは蓄積され、治療成績の向上に貢献している。これを無視することは知的誠実さに反する。遺伝子研究の成果は圧倒的であり、今後はさらに圧倒的になるだろう。

しかしもう半分では、私は抵抗を覚える。

一つは、「個別性の捨象」の問題だ。EBMは集団的なエビデンスを個人に適用する。しかし、目の前の患者さんは常にN=1である。その人の人生史、対人関係のパターン、変化への動機、文化的・社会的文脈——これらを捨象した「標準的治療」が、すべての患者さんに等しく有効なはずがない。

もう一つは、「説明可能性の過信」の問題だ。精神症状を神経回路の機能不全として説明できるようになったとき、それで「わかった」と思い込む危険がある。しかし、痛みの神経生理学を完全に説明できても、苦しんでいる人の「意味の次元」には届かない。精神医療が意味の次元を扱わなくなるとき、それは患者さんの人格の一部を切り捨てることになる。

私はプレゼン能力が低く、この半分の抵抗を学術的に論陣を張って説得することが苦手だ。同時代の主流に抗って影響を与えることは、私には難しい。しかし、もし遠い将来に、こうした問いを持つ精神科医が現れたとき、この文章が一つの参照点になればと思う。傲慢に聞こえるかもしれないが、それは同時に、自分の限界への謙虚な認識でもある。

VII.垂直方向への跳躍——魂の浄化という目標

最後に、語りにくいことについて書く。

人生には二種類の運動がある。水平方向の運動と、垂直方向の運動だ。

水平方向の運動とは、地上での豊かな体験の蓄積だ。人との出会い、旅、仕事、喜怒哀楽——それを次々とダイナミックに体験していくこと。これはこれで、素晴らしいことだと思う。そして、私は、それだけでは人生ではないと思う。

私にとってより切実なのは、垂直方向の跳躍だ。ある瞬間、水平面の広がりではなく、深さの方向へと意識が向かう。日常の出来事の下に、別の次元が垣間見えるような感覚——それを言語化しようとすると、その感覚は逃げていく。これが表現の限界というものだろう。しかしそこが大切だ。

比較宗教学的な文脈で言えば、私の最終的な目標は「魂の浄化」だと思っている。ただし、この言葉は慎重に使わなければならない。「魂」とは何か、「浄化」とはこの文脈で何を指すのか——これを精密に定義しようとすれば、概念の壁はかなり高い。宗教的な信仰を持たない私が「魂の浄化」を語るとき、それはある種の比喩あるいはメタファーとして機能している。

しかし、このことは臨床とも無縁ではない。私が患者さんと会うとき、その人の「症状」だけでなく、その人の「存在のあり方」と向き合うことがある。症状の消失が治療の目標ではなく、その人が自分の人生を、より本来的に生きられるようになることが目標になる、そういう臨床の瞬間がある。

Conservative Psychotherapy の「温存」とは、症状を抑圧したり、問題を覆い隠したりすることではない。その人がすでに持っている、傷つきながらも維持されてきた「何か」——それを丁寧に扱い、保護し、育てることだ。その「何か」を、私は「魂」と呼んでいるのかもしれない。

泣き止まない子供のようなもので、仕方がない、寄り添って待つしかない。治療者の人生の時間も有限である。その有限の時間を、いま目の前にいる患者さんとの共有時間として提出している。

おわりに

先験的理性への信仰から、誤差修正知性への信仰へ——この変化が「よいことだったのか」と自問することがある。

あるいは、これ自体がまた別の「信仰」への移行に過ぎないのかもしれない。何かを信じないではいられない人間の脳の癖があって、対象を変えただけかもしれない。むしろ、その部分を空白のままにしておく方が、知的に誠実なのではないかという考えも浮かぶ。

しかしそれでも、臨床の現場で患者さんと向き合うとき、何らかの「理解の枠組み」は不可欠だ。その枠組みを「正しい」と固定せず、常に誤差を検出し修正し続けるという姿勢——それが、今の私にとっての Conservative Psychotherapy の意味するところだ。

ラディカルを自認する精神科医が、Conservative にたどり着いた。この逆説が、何らかの思考の契機になればと思う。

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