radical vs conservative

私はラディカルで理知的な人間なのに、
最近語っていることが「温存的精神療法」だとは、なんとしたことだろう。
Conservative Psychotherapy である。
内心ではかなり抵抗があった。
radical で liberal で intelectual であるはずが、
Conservative にたどり着いている。
この言葉がふさわしいとの考えは現在も変わらない。

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短期間のうちに大量の文章を書くのはあまり良いことではない。
人間は、思い付きの端緒は、短期間のうちにいくつも考えつくかもしれない。
しかしそれを分析し総合し記述するときは、やはり潜在的内的同型性を演じてしまっているような気がする。
数年後に読み返してみて、愚かだったとか、幼かったとか、感じるので常である。
その時々の情熱は自分としては本物だったけれども。
しかし後に残ったものを自分で評価すれば、この時期にはこんな方向で考えていたのだと納得できる程度である。
書いたときには、真実であれば、永続するものと思っていた。しかし、現在は、あの当時の自分の状況を考え併せて、当時の思考や感情を解釈する。
結果として、あのころは、情熱はあったけれど、幼かったということになる。
多分、今後もそうだろう。
過去の自分は自分にとって常に幼くて恥ずかしい。

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人間の一面は、理性・合理性をどこまで信頼して実現できるかだと思う。
例えば、フランス革命の各局面で、やはり、理性主義を実現しようという情熱があった。結果としては、理性以外の何かが大量に流入したと思う。エドマンドバークはそれを批判した。その批判は当たっていると思う。バークの考えは温存的精神療法に近いところもあると思う。
例えば、ソ連型社会主義もそうだったと思う。夾雑物は大量にあったものの、理性主義をどこまで実現できるかの実験だったとも解釈できる。そして、これも、敗北した。もちろん、福祉国家主義などとして形を変えて、理性主義は残っている。
結果として、歴史や社会や人間は、理屈通りにはいかないことを学んできた。

個人的な臨床経験としても、理性主義の行き止まりと言える。理屈としてはいいことを思いついても、現実はその通りにはいかないのである。
ここで、純粋な理性の実現(カント的な先験的理性)というよりは、誤差修正知性のを考えるようになったのかもしれない。
目の前の患者さんに合わせないとしょうがない。理性に患者さんを合わせても、患者さんは治らない。患者さんにこちらの考えを合わせることはつまり、誤差修正知性である。脳内の世界内モデルの修正をするしかなかった。

勿論、世界の精神医学の潮流というものはあって、私半分はそれに同意している。しかし半分は反発している。誤解や曲解で終わってしまうことが多い。私は自分を主張することが苦手だ。なにも理解していない人を、一から理解させることなど、到底できない。浅くしか理解しないなら、別段それで私が困るわけでもない。
ただ、私にプレゼン能力があったらと残念に思うことはしばしばである。今現在の同時代人に伝わらなくても、遠い未来の一部の人に通じたらと思う。傲慢不遜でもあり、謙遜でもあるが。

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私にとって、地上で右往左往するのは退屈だ。もちろん、ダイナミックに歩いて、人生を味わうのはうらやましいと思う。しかしそれよりも、垂直方向にジャンプすることが私に取って大切だ。
この感覚を言葉で細分化すると、いまのこの感じが逃げて行ってしまう。これが表現力の限界なのだろう。
自分の文章であれば、何とか状況証拠も勘案して推理して、一応の理解に至ることもある。しかし他人では困難だろう。過去の自分の文章も、その真意は判然としないこともある。
意味は重層的なのだから、読み手に応じて深くなり浅くなるのは当然だ。
深い浅いで価値判断を混入させているような気もする。
それでも私も深く理解してほしい。どうすればよいか、分からない。ほぼ不可能だとあきらめている。

また、可能性としては、自分に、そうした内実が何もないのに、幻想を抱いているだけ、ということもある。誇大妄想とか、そうでなくても、一般に妄想症ではそのような仕組みになっている。
それはそれで仕方のないことだとあきらめてもいる。
例えば、自分の人バイオリンが自分ではとても好きなのだけれど、周囲の誰にとっても、雑音でしかないことは、ありうることだ。そこでも進化論的な誤差修正知性が働いている。

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そのようにして、先験的理性の信仰から、誤差修正知性の信仰へと変化したのは、よいことなのだろうか。
何かを信じないではいられない脳の癖なのだろうか。あるいは、大胆に、その部分を空白のままで、風通しよくしておいた方がいいのではないかと思うこともある。無宗教者ではあるが比較宗教学的な立場からの経験からは、魂の浄化が私の最終的な目標だと思っている。魂という言葉で私が何を表現しているか、浄化とはこの場合何かとの精密化に向かえば、壁はかなり高い。

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