第一章
「治す」より「壊さない」
——温存的精神療法が生まれるまで
1 あるひとつの失敗から
私が精神科医になったばかりのころ、自分はかなり「理屈っぽい医者」だったと思う。
患者さんが「眠れない」と言えば、睡眠のメカニズムを説明した。「死にたい」と言えば、なぜそう感じるのかを分析しようとした。「薬を飲みたくない」と言えば、薬の必要性を論理的に伝えようとした。どれも間違っていたわけではない。でも、なぜか治療がうまくいかないことがあった。
あるとき、長年の不眠と抑うつで通院していた五十代の女性患者さんのことが、ずっと頭に残っている。
彼女は几帳面で、家族に献身的な人だった。私は「認知行動療法」という心理的アプローチを使って、彼女の「考えのくせ」を丁寧に分析し、「もっと自分を大切にしましょう」と伝え続けた。理論的には正しかった。しかし三か月後、彼女はこう言った。
「先生に言われる通りにやってみるんですけど、かえって疲れてしまって。やっぱり私はだめなんだと思います」
その言葉が刺さった。私は「治そう」として、かえって彼女を追い詰めていた。
彼女に必要だったのは、正しい認知の修正ではなかった。ただ、誰かに「あなたはそのままでいい」と言われること——それだけだったのかもしれない。
この経験が、私の中で何かを変えた。「もっとよくしよう」「もっと変えよう」という治療者側の善意が、患者さんにとって重荷になることがある。そうであれば、治療とはそもそも何なのか。私はそこから考え直すことになった。
2 「変えよう」とすればするほど、硬直する
精神療法(心理療法)の世界では長い間、「治療者が患者を変える」という発想が主流だった。
フロイトが始めた精神分析は、患者の無意識を探り、幼少期の体験や抑圧された感情を「解釈」することで、症状の根っこを取り除こうとした。その後登場した認知行動療法は、患者の「歪んだ考え方」を修正することを目標とした。動機づけ面接や弁証法的行動療法など、現代に登場した療法も多くは「患者が変わること」を前提としている。
どれも効果を持つ立派な療法だ。しかし私が臨床で繰り返し直面したのは、こういう逆説だった。
「理性で変えようとすればするほど、患者は硬直する」
これはなぜだろう。
人間は「変われ」と言われると、防衛的になる。特に、長い年月をかけて自分の生き方を作り上げてきた人ほど、その生き方を否定されることへの抵抗感は強い。たとえ本人が「変わりたい」と言っていたとしても、深いところでは「今の自分を守りたい」という力が働いている。
この「自分を守ろうとする力」を、精神医学では「防衛機制(ぼうえいきせい)」と呼ぶ。
◆ 防衛機制とは何か
防衛機制とは、心が傷つくことや不安から自分を守るために無意識に働く心理的な仕組みのことだ。たとえば、つらい記憶を「なかったこと」にする「抑圧」、怒りを他のことへぶつける「置き換え」、不安を笑い飛ばす「ユーモア」なども防衛機制の一種である。健康な人でも、誰もが日常的に使っている。
問題は、精神療法の歴史の中で長い間、防衛機制は「取り除かれるべきもの」と見なされてきたことだ。「抑圧を解く」「防衛を突き崩す」というアプローチは、患者の内面をより深く変えようとする。しかしそれは、ときに患者が「かろうじて保っているバランス」を崩してしまうことがある。
これが特に問題になるのは、心が非常に傷つきやすい状態にある患者さんだ。たとえば長年の虐待を体験してきた人、統合失調症の方、深刻なトラウマを持つ人——彼らにとって、防衛機制は「弱さ」ではなく、生き延びるための知恵である。それを無理に解除しようとすることは、彼らを守ってきた壁を取り壊すことと同じになりうる。
3 歴史の教訓——「理性による設計」の限界
私がこの問題を考えるとき、いつも思い浮かぶのは歴史の話である。
一八世紀末のフランス革命は、「理性の光で社会を照らす」という壮大な実験だった。王権と宗教の権威を打ち倒し、自由・平等・博愛の理念に基づく新しい社会を「設計」しようとした。しかし結果は、恐怖政治と大量の殺戮だった。
なぜうまくいかなかったのか。その一つの答えを出したのが、イギリスの思想家エドマンド・バーク(一七二九-一七九七)だ。
バークは、社会とは「理性で設計できるもの」ではないと言った。社会は長い時間をかけて積み上げられた慣習・伝統・人々の知恵の堆積であり、それを急激に壊して「合理的な」社会に作り変えようとすることは、必ず失敗する。なぜなら人間は、理性だけでできているわけではないからだ。
「個人的な理性はしばしば限られており、個人が自分だけの理性に頼るとき、彼は偏見や誤りに陥りやすい。しかし、種族の総合的な理性は、時代を超えて蓄積された知恵である」(エドマンド・バーク、一七九〇年)
二十世紀のソ連型社会主義も同じだった。科学的理性によって社会を完全に計画・管理しようとしたが、人間の非合理性、感情、土着の文化、慣習——こういった「夾雑物(きょうざつぶつ)」が計画の外側から流れ込み、最終的に体制は崩壊した。
これを精神療法に置き換えてみる。「理論通りに患者を変えられる」という発想は、フランス革命の設計思想と同じ構造を持っていないか——私にはそう思えてならない。
患者さんの心は、その人が生きてきた時間の積み重ねである。親との関係、傷ついた記憶、長年のくせ、体が覚えた反応——それらは「歪み」ではなく、その人がそれまでの人生を生き延びてきた証拠だ。それを外から「正しく」直そうとすることが、本当に治療になるのだろうか。
4 「温存」という言葉の意味
私がたどり着いた考えを、一言で表すなら「温存」という言葉になる。
温存——。あまり聞き慣れない言葉かもしれない。「温存する」とは、将来のためにそのまま大切に保っておくこと、という意味だ。チェスや将棋で「駒を温存する」という使い方をすることもある。
私が「温存的精神療法」と名づけたのは、この言葉が持つニュアンスが気に入ったからだ。
温存とは、ただ放置することではない。そのままの状態を、積極的に守ることだ。
精神療法における「温存」とは、患者さんが今持っているもの——自分なりの世界の見方、時間の感じ方、対処の方法、人との距離感——を急いで変えようとせず、むしろそれを尊重しながら、その人が自分のペースで変化していける「余白」を作ることである。
◆ 「余白」とはどういうことか
日本語には「間(ま)」という独特の概念がある。音楽における休符、建築における空白、会話の沈黙——これらを「欠如(なさ)」ではなく、積極的な意味の担い手として見る感覚だ。
能楽では、所作と所作の間の「間(ま)」が、演技の深みを決めると言われる。型はある。しかしその型を機械的にこなせばいいわけではなく、その瞬間の空気を感じながら「間」を微調整することで、初めて生きた演技が生まれる。
温存的精神療法における「余白」は、この「間」に似ている。治療者が何もしない時間、解釈をしない沈黙、答えを急がない空気——これらは治療の「欠如」ではなく、患者さんが自分のペースで動き出すための「積極的な空間」なのだ。
5 「治す」から「育む」へ
温存的精神療法の核心にある発想の転換は、「治す(cure)」から「育む(nurture)」へ、あるいは「変える(change)」から「壊さない(do not destroy)」へ、という転換だ。
医療は一般に「治す」ことを目的とする。骨折は接合し、感染症は抗生剤で倒し、がんは切除する。これは当然だ。しかし精神科の領域では、「治る」という言葉が、必ずしも体の医療と同じ意味を持たない。
うつ病が「治った」とはどういうことか。統合失調症が「治った」とはどういうことか。長年のトラウマが「治った」とはどういうことか。
「薬を飲まなくてよくなった」という意味ではない。「もう何も感じない」という意味でもない。「以前と全く同じ自分に戻った」という意味でもない。
私が考える「回復」の最もシンプルな定義は、こうだ。
よくなることではなく、よくならなくても生きてよい時間を取り戻すこと。
この考えを、私に最も深く教えてくれたのは、日本の精神科医・中井久夫(一九三四-二〇二二)の仕事だ。
◆ 中井久夫という精神科医
中井久夫は、二十世紀後半の日本を代表する精神科医のひとりで、特に統合失調症の長期的な治療に関する深い洞察で知られる。彼の臨床は「治す」ことより「患者さんの生活世界を守る」ことに重点を置いた。
彼は「治癒とは生き延びること」という言葉を残した。これは諦めの言葉ではない。「生き延びること」の重みを、正面から受け取った言葉だ。どれだけ病いを抱えていても、その人がその人の時間の中で生き続けることができる——それを支えることこそが、精神科医療の本質だという宣言である。
患者の心理的均衡は、時として信じられないほど脆い。そこに治療者が「変えよう」「治そう」と踏み込みすぎることで、かえってそのバランスが崩れることがある。「壊さないこと」は、消極的な態度ではなく、最も困難な臨床判断のひとつなのだ。
6 「誤差修正知性」——理性から現実へ
私はかつて、「理知的で合理的な医者」を目指していた。
患者さんの問題を正確に分析し、最も有効な理論を適用し、最短ルートで回復に導く——そういうイメージを持っていた。しかしそれは一種の「設計思想」であり、フランス革命やソ連型社会主義と同じ落とし穴を持っていた。
臨床を重ねるうちに、私が重視するようになったのは、違う種類の知性だ。それを私は「誤差修正知性(ごさしゅうせいちせい)」と呼んでいる。
◆ 誤差修正知性とは
「先験的理性(せんけんてきりせい)」とは、理論をあらかじめ正しいものとして持ち込み、現実をその理論に当てはめる知性のことだ。カントが哲学的に描いた、普遍的で絶対的な理性のあり方に近い。
これに対して「誤差修正知性」とは、現実から受け取るフィードバック——「この患者さんは今日は元気そうだ」「昨日の介入は少し強すぎた」「この言葉は響いていない」——を継続的に拾いながら、自分の判断や技法を微修正し続ける知性のことだ。
コンピューターで言えば、あらかじめ書かれたプログラムをそのまま実行するのではなく、実行しながら環境に応じてパラメータを書き換え続けるようなものだ。あるいは、熟練した職人が材料の手触りを感じながら道具の角度を調整するようなものだ。
この「誤差修正知性」は、謙虚さから生まれる。「私の理論が正しい」ではなく、「この患者さんが今何を必要としているか」を常に問い続ける姿勢だ。
この姿勢から自然に生まれてくるのが、「変えよう」より「壊さないようにしよう」という治療的態度である。なぜなら、患者さんが今持っているものを壊してしまったとき、その修復は治療者の力の及ぶ範囲を超えてしまうことが多いから。
7 「温存的精神療法」という名前について
この考え方を一つの名前でまとめたとき、私は「温存的精神療法(Preservational Psychotherapy)」という言葉を選んだ。
最初は「日本的精神療法」と呼んでいた。日本の精神科臨床の現場で自然に育まれてきた実践の積み重ねを指す言葉として。しかし「日本的」という形容詞は、「外国では通用しない」という誤解を招きやすいし、何よりこの考え方の本質は文化的な特殊性ではなく、人間一般への洞察にある。
次に「Conservative Psychotherapy(保守的精神療法)」という英語名を試みた。「変革よりも保持を重んじる」という意味で、バークの保守主義哲学と重なる部分があるからだ。しかしこの言葉には政治的なニュアンスがつきまとい、「何も変えない」という消極的な印象を与えかねない。
最終的に「Preservational Psychotherapy(温存的精神療法)」という名前に落ち着いた。「Preserve」という動詞には、「守る」「保存する」「大切に保ちつづける」という積極的な意味がある。ジャムを作ることを英語で「preserve」とも言う——熟した果実をそのまま腐らせず、その風味を長く保つために手を加えること。それはまさに私がイメージする治療の姿に近い。
名前は変わったが、中核にある考えは一貫している。
症状や物語を操作することよりも、人が自分の時間を取り戻すための「余白」を守ること。
これが温存的精神療法の、最もシンプルな定義だ。
8 この章のまとめ——そして次章へ
第一章では、私がこの考え方にたどり着くまでの道筋を話した。
治療者の「治したい」という善意が、ときに患者さんの重荷になること。「変えようとすれば硬直する」という逆説。歴史の中で繰り返されてきた「合理的設計の失敗」。「間(ま)」という日本的な空間感覚。そして「誤差修正知性」という、現実から学び続ける謙虚な知の姿勢。
これらが重なって、「温存的精神療法」という考え方が生まれた。
しかし「壊さないこと」「待つこと」「余白を守ること」——これらはいったい、どうやって実践するのか。それは「何もしない」ことと、どう違うのか。
第二章では、温存的精神療法が「支持的精神療法」や「何もしない精神療法」とどう違うのかを整理した上で、その思想的な根っこを、西洋の哲学・精神医学の伝統の中に探っていく。
コラム① 精神療法ってそもそも何ですか?
精神療法(心理療法、サイコセラピー)とは、薬を使わずに、主として「言葉」と「関係性」を使って行う心のケアの総称だ。具体的には、カウンセリング、認知行動療法、精神分析的療法、家族療法、集団療法など、さまざまな種類がある。
日本の精神科外来では、薬物療法と精神療法を組み合わせて行うことが多い。「診察室でお医者さんと話す」こと自体が、広い意味での精神療法である。
本書が論じる「温存的精神療法」は、特定の技法の名前ではなく、精神療法全般を貫く「治療者の態度・構え」のことだ。どんな療法を用いるにせよ、治療者がどのような姿勢で患者さんと向き合うかこそが、温存的精神療法の関心事である。
(第一章 了)
