第五章 それでも、ここにいる ——温存的精神療法が指し示すもの 「温存的精神療法」

第五章

それでも、ここにいる

——温存的精神療法が指し示すもの

1 ここまでの旅を振り返る

五つの章を通じて、私はずいぶん遠回りをしてきた。

第一章では、若い頃の私が「理性で患者さんを変えられる」と信じて失敗した話をした。フランス革命の挫折と、ソ連型社会主義の崩壊を例に引きながら、「設計思想」の限界を考えた。そして「ラディカルから保守へ」という、私自身の認識論的な転回を話した。

第二章では、「温存的精神療法」の定義を丁寧にほどいた。症状を操作しないこと。物語を書き換えないこと。患者さん固有の時間を取り戻す余白を守ること。森田正馬の「あるがままに」、中井久夫の「隣に座ること」、日本語の「間(ま)」——これらが同じ方向を指していることを確認した。

第三章では、西洋の精神医学と哲学に目を向けた。ウィニコットの「保持する環境」、ビオンの「コンテイナー」、統合失調症臨床が教えてくれた「解釈より存在」という逆説。レヴィナスの他者の哲学、ギリガンのケア倫理、実存主義の「変わらない自由」——それらが「権力の自己制限」という一点に収束することを見た。

第四章では、診察室の外に出た。「早く治れ」という社会のプレッシャー。慢性であることの意味。都市の孤独と匿名性。制度の時間と人間の時間のずれ。そして治療者自身を温存することの必要性を語った。

さて、最終章では、これらを通じて私が本当に言いたかったことを、もう一度だけ、丁寧に話したいと思う。

2 「治療」という言葉の重さ

私は精神科医になって三十年以上が過ぎた。

この仕事を続けながら、「治療」という言葉の重さが、年々変わってきた気がする。

若い頃、「治療」という言葉は前向きで力強い響きを持っていた。治す。直す。回復させる。医者として、何かを「する」ことが仕事だと思っていた。

しかし今は違う。

「治療」という言葉の中に、私はある緊張感を感じるようになった。

治療とは、患者さんの人生に介入することだ。言葉を使って、関係を使って、薬を使って、患者さんの内的世界に触れる。これは非常に繊細な行為であり、同時に——繰り返し言ってきたように——権力の行使でもある。

「治す」という動詞の主語は、いつも治療者だ。患者さんは「治される」客体になる。

しかし本当のことを言えば、人が回復するとき、その力の源泉はほとんどの場合、患者さん自身の内側にある。治療者は、その力が発揮されるための「条件」を整えているに過ぎない。

治療者は植物を育てるのではない。植物が育つための土と光と水を整えているだけだ。

この感覚が、温存的精神療法の根底にある。

「治す」のではなく、「育つことができる場を守る」。この転換は、治療者の役割を小さくするのではない。むしろ、より深く、より繊細な役割を治療者に求める。

3 「正しい答え」を持たないことの強さ

精神科医として長く働いていると、「わからないこと」が増えていく。

若い頃は、教科書に書いてあることを信じていた。診断をつければ治療法が決まる。正しい薬を処方すれば症状は改善する。適切な精神療法を行えば患者さんは回復する。

しかし実際の臨床は、そう単純ではない。

同じ診断名がついていても、Aさんに効いた薬がBさんには効かない。Cさんに有効だった関わり方が、Dさんには逆効果になる。「なぜ」と問えば、答えは無数にある。あるいは、答えがない。

「わからない」ことは、医者にとって不安を呼ぶ状態だ。患者さんに「わかりません」と言うことは、専門家として「失格」のように感じられることがある。だから医者はしばしば、わかったふりをしてしまう。

しかし私は今、「正しい答えを持たないこと」は弱さではなく、一種の強さだと思っている。

「負の能力(Negative Capability)」という概念

イギリスのロマン派詩人ジョン・キーツ(一七九五-一八二一)は、一八一七年の手紙の中で「負の能力(Negative Capability)」という言葉を使った。「事実や理由を苛立たしいほど追い求めることなく、不確かさの中・謎の中・疑いの中にいられる能力」——そう定義される。

これをビオンは精神分析家の資質として引用した。治療者が「わかろう」とする焦りを手放し、患者さんの語りをただ受け取ることができること。これが真に患者さんに「届く」治療者の資質だ、と。

「正しい答えを持たないこと」。「わからないまま、そこにいること」。これは精神科医療においても、そして人間関係においても、深い知恵だと私は思う。

「わからない」ということを、患者さんの前で認められる治療者は、患者さんに「わからなくていい」という許可を与える。

「答えを持っている」治療者の前では、患者さんは「正しい答えを出さなければ」というプレッシャーを感じることがある。しかし「一緒にわからない」治療者の前では、患者さんは「わからなくてもここにいていい」と感じることができる。

この「ここにいていい」という感覚こそが、温存的精神療法の目指すものだ。

4 「待つ」ということの深さ

温存的精神療法を一言で言い換えるなら、「待つこと」の技術だと思う。

しかし「待つ」という言葉は、なんと深いのだろうか。

「待つ」には、少なくとも三つの層がある。

第一の層は、時間的な「待つ」だ。今すぐ変わらなくていい。今日答えが出なくていい。来年まで、あるいは五年後まで、待つことができる。この「時間的な忍耐」は、治療者にとっても患者さんにとっても必要なものだ。

第二の層は、解釈を「待つ」だ。意味を急いで与えない。「なぜ」という問いに、すぐ答えを出さない。患者さんの沈黙を、患者さんの言葉になる前の内的運動として、そのまま受け取る。この「解釈の留保」が、患者さん自身の意味発見を可能にする。

第三の層は、もっと根本的な「待つ」だ。

それは、患者さんの存在そのものを待つ、ということだ。

「今の状態の患者さん」ではなく、「変化した先の患者さん」を期待するのではなく——今ここにいる、その人の存在を、ただ受け取ること。

これは、人間関係における最も深い「待つ」の形だと思う。

「待つ」とは、変化を期待しながら現在を我慢することではない。現在の相手の存在を、そのまま引き受けることだ。

子どもを育てた経験のある人は、これを知っているかもしれない。子どもの「今」を、将来のための準備として見るのではなく、「今」そのものとして受け取ること。急かさず、比べず、ただその子の時間を信頼すること。

精神科の治療関係は、良い意味でこれに似ている。

5 ヨブ記のこと

この本を書きながら、ずっと頭の片隅にあった話がある。旧約聖書の「ヨブ記」だ。

ヨブは信仰深い人物だったが、神の試練として次々と不幸に見舞われる。財産を失い、子どもを失い、体を病に侵される。友人たちは見舞いに来て、「お前が苦しんでいるのはお前に罪があるからだ」「神に許しを請え」と言う。

しかしヨブはこれを拒否する。「私は何も悪いことをしていない。この苦しみには理由がない」と言い続ける。

友人たちの「説明」は、一見合理的だ。「苦しみには原因がある。原因を取り除けば苦しみは消える」。これは医療的な発想にも似ている。

しかしヨブは、その「合理的な説明」を受け入れることが、自分の苦しみを否定することだと直感している。自分の苦しみには、友人たちの言葉では届かない何かがある——そう感じている。

神はついにヨブの前に現れる。しかし神はヨブに「答え」を与えない。ただ、嵐の中から語りかける。「お前は地の基を定めたとき、どこにいたか」——宇宙の広大さ、人間の理解を超えた世界の深さを示す言葉を語りかけるだけだ。

そしてヨブは、その「答えのない語りかけ」によって、何かを取り戻す。

この物語が、温存的精神療法に重なって見える。

友人たちは治療者に似ている。善意から「答え」を与えようとする。「あなたの苦しみの原因はこれだ」「こうすれば良くなる」。しかしその「答え」は、苦しんでいる人の核心には届かない。

神の「答えのない語りかけ」は、沈黙に近い応答だ。しかしその沈黙は、ヨブの苦しみを「理解できないもの」として、そのままそこに置いておく。それが「証言不可能なものへの敬意」だ。

苦しみのすべてを説明しようとしないこと。理解できないものをそのまま傍に置いておくこと。それが、時として最も深い応答になる。

6 この仕事を続ける理由

私はなぜ、精神科医を続けているのか。

答えは単純だ。患者さんと一緒にいることが、この仕事の核心だからだ。

何かをしてあげることではなく、変えることでもなく、治すことでもなく——ただ、一緒にいること。

これは「何もしていない」ことではない。診察室という場を保持すること。患者さんが話せる空間を守ること。急かさず、解釈を急がず、ただ受け取ること。これらは、地味だが、非常に能動的な行為だ。

そしてこの「一緒にいること」が、患者さんにとってどれほどの意味を持つか——それを私は何度も目撃してきた。

何年も通院している患者さんが、「先生と話すだけで、なんか落ち着くんです」と言う。特別なことは何もしていない。しかし、何十回、何百回という「ただ話した時間」の積み重ねが、その人の何かを支えている。

これが温存的精神療法だ。劇的ではない。目に見えにくい。しかし確かにそこにある、何かだ。

7 読者へ——この本が届いてほしい人へ

この本を読んでいるあなたが誰であれ、私はあなたに伝えたいことがある。

もしあなたが、患者さんとして精神科に通っているなら。

あなたが「なかなか良くならない」と感じているなら、それはあなたの失敗ではない。回復には時間がかかる。そして回復の形は、あなた自身のものだ。誰かの「回復した状態」と自分を比べる必要はない。「早く治らなければ」というプレッシャーを、少しだけ横に置いてみてほしい。

あなたが「変わらなければいけない」と言われ続けているなら。今のあなたには、今のあなたにしかわからない理由がある。その理由を、誰かにすぐに理解してもらえなくていい。あなたの時間を信じてほしい。

もしあなたが、精神科や心理の現場で働いているなら。

「もっとよくしなければ」という焦りを感じているなら、少し立ち止まってほしい。あなたが「ただそこにいること」が、すでに治療の一部だ。答えを持たなくていい。すべてを理解しなくていい。急がなくていい。

あなた自身が疲弊していないか、問いかけてほしい。治療者が自分を温存することは、患者さんへの責任だ。

もしあなたが、患者さんの家族や友人なら。

「早く良くなってほしい」という気持ちは、愛情から来ている。しかしその気持ちが、知らないうちにプレッシャーになることがある。「今のままでいい」と言える瞬間を、ときどき作ってみてほしい。あなたの傍にいることが、すでに大きな支えになっている。

そして、精神科医療に直接関係のない読者の方へ。

温存的精神療法は、精神科の話だけではない。人と人が関わるすべての場面に、この考え方は通じる。教育の場で、職場で、家族の中で——「変えよう」「早くしよう」という衝動の前に、少し立ち止まる感覚。その人の時間を信頼する感覚。そこにいることが、もう支えになっているという感覚。

これは、精神療法の技術である前に、人間同士の関わり方の根本にある何かだと、私は思っている。

8 未完のプロジェクトとして

この本は、完成品ではない。

「温存的精神療法」という考え方は、私が三十年以上の臨床の中で少しずつ育ててきたものだが、今もなお、発展の途中にある。

この本を書きながら、私は何度も「まだわかっていないことがある」と感じた。統合失調症以外の疾患への応用。薬物療法との関係。温存的精神療法が適さない場面はどこか。どのような訓練が、この構えを身につけるために必要か——これらの問いに、私はまだ十分な答えを持っていない。

しかしそれでいい、と思っている。

「わからないままにいること」は、この考え方の核心にある。私自身が「わからないまま」でいることは、温存的精神療法に誠実であることだ。

私はプレゼン能力に乏しく、同時代の読者に届くかどうか、正直なところ自信がない。しかし遠い未来の誰か——精神科医であれ、患者さんであれ、この問いに関心を持つ誰かであれ——にこの言葉が届けばいい、と思って書いた。

過去の自分はいつも幼く、恥ずかしい。数年後に読み返せば、また「あの頃は幼かった」と思うだろう。しかしその積み重ねの先に、わずかでも「深さ」が生まれると信じている。

それは言葉ではなく、診察室で——患者さんと静かに向き合う時間の中で——垂直に伝わっていくものだと思っている。

9 最後に——「それでも、ここにいる」

この章のタイトルに「それでも、ここにいる」という言葉を選んだ。

これは治療者の言葉だ。

患者さんがなかなか変わらなくても。同じ話を何度繰り返されても。「もう限界だ」と思っても。それでも、ここにいる。

しかしこれは同時に、患者さんの言葉でもある。

どれほど苦しくても。「もう消えてしまいたい」と思う夜があっても。それでも、ここにいる。

「ここにいる」という事実——それが、温存的精神療法のすべてを支えている。

治療者が「ここにいる」ことで、患者さんは「ここにいていい」と感じる。患者さんが「ここにいる」ことで、治療者は「この仕事を続ける」理由を見つける。

この相互性の中に、精神科医療の最も深いところにあるものが宿っていると、私は信じている。

どうか、あなたもここにいてほしい。

急がなくていい。変わらなくていい。答えがなくていい。

ただ、ここにいることが、すでに始まりだ。

(二〇二六年三月 品川心療内科にて 今 忠)

あとがきに代えて——この本ができるまで

この本の元になったのは、私が長年書き続けてきたブログの記事群だ。「品川心療内科自由メモ」と題したそのブログには、日々の臨床で考えたこと、読んだ本のこと、哲学や歴史との接点、患者さんとの会話から生まれた断片——そういうものが無数に蓄積されている。

「日本的精神療法」という言葉を最初に使ったのは、何年も前のことだ。その後「Conservative Psychotherapy」と名前を変え、最終的に「温存的精神療法(Preservational Psychotherapy)」という形に落ち着いた。名前は変わったが、問いは変わっていない。

この本は、そのブログ記事群を一冊の本として再編したものだ。しかし単なる寄せ集めではなく、改めて読み直し、足りないところを補い、一本の流れとして整理し直した。

書いてみて気づいたことがある。私が三十年以上かけて考えてきたことは、結局のところ、ひとつの問いの周りをぐるぐると回り続けることだった。

その問いとは——

人間の心の回復力は、我々の介入の外側にあるのではないか。そしてその「外側」を守り抜くことが、治療者の最も深い責任なのではないか。

この問いへの答えはまだ出ていない。おそらく、生涯出ないだろう。

しかしこの問いを持ち続けることが、私が精神科医を続ける理由だと思っている。

本書をお読みいただいたすべての方に、心から感謝申し上げます。

コラム⑤ 温存的精神療法を実践するために——治療者へのヒント

最後に、精神科・心理の現場で働く方々へ、温存的精神療法の実践につながる具体的な姿勢をいくつか挙げておく。

【診察室で意識できること】

・「最近どうですか、良くなっていますか」より「今週、何が一番気になりましたか」という問いを選ぶ。

・患者さんの沈黙を埋めようとする衝動を、一度手放してみる。

・「なぜ変わらないのか」ではなく「何がここに留まることを支えているのか」と問い直す。

・患者さんの防衛を「抵抗」ではなく「知恵」として見る。

・「今日の診察で何かを解決しなければ」というプレッシャーを、意識的に手放す。

【自分自身に対して】

・「もっとよくできたはずだ」という自己批判の声を、少し小さくする。

・「わからない」を患者さんの前で認めることを、恐れない。

・疲れているとき、無理に「できる治療者」を演じない。

・自分の限界を知ることが、患者さんへの誠実さになる。

これらは「技術」というよりも「姿勢」だ。一日で身につくものではなく、臨床の積み重ねの中で、少しずつ育まれていくものだと思っている。

(第五章・了)

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