第四章 「早く治れ」という社会の中で ——回復を急かす時代に、治療者ができること 「温存的精神療法」

第四章

「早く治れ」という社会の中で

——回復を急かす時代に、治療者ができること

1 ある患者さんの言葉

何年か前、長期にわたってうつ病で通院していた四十代の男性患者さんが、こんなことを言った。

「先生のところに来ると、ほっとするんです。ここ以外では、なんか常に『早くよくならないといけない』って感じがして」

私は少し驚いた。彼は決して重症ではなかった。就労もしていたし、日常生活もそれなりに送れていた。しかし彼は、診察室の外の世界でずっと、見えないプレッシャーを感じていた。

よく聞いてみると、職場の同僚には「まだ薬飲んでるの?」と言われる。家族には「いつになったら元に戻るの?」と聞かれる。主治医(私のことだが)には「最近どうですか、よくなってきていますか?」と毎回確認される。

彼を取り巻く言葉のすべてが、「早く、もっとよく」を要求していた。

彼が「ほっとする」と言ったのは、私が彼に対してその種の問いをあまりしなかったからだと、後になって気づいた。「よくなっていますか」よりも「最近どんなことがありましたか」。「薬は効いていますか」よりも「今週、何が一番しんどかったですか」。そういう問いを選んでいたのは、私の中の温存的精神療法の感覚だったのかもしれない。

しかしこの体験は、私に一つの問いを突きつけた。

個人の診察室の中でいくら「急がない」「壊さない」を実践しても、患者さんが暮らす社会そのものが「早く治れ」を要求し続けているとしたら——その矛盾を、治療者はどう考えればいいのか。

2 「回復」とは誰のための概念か

「回復(recovery)」という言葉は、精神科医療の中で非常によく使われる。精神科リハビリテーションの分野では「リカバリー」という英語がそのまま使われることも多い。

しかしこの言葉は、実は問い直す必要がある。「回復」とは何から何への回復なのか。誰が「回復した」と判断するのか。

医学的な意味での「回復」は、症状が軽減し、薬が減り、社会生活が再開される状態を指すことが多い。これは確かに大切な目標だ。

しかし、ここに一つの落とし穴がある。

「社会生活が再開される」——この「社会」とは、いったいどんな社会なのか。

患者さんが病気になる前の社会は、しばしば患者さんを追い詰めた社会でもある。長時間労働、人間関係のプレッシャー、競争、孤立——そういう環境に戻ることが「回復」なのだとすれば、「回復」とは、患者さんをもう一度同じ場所に送り返すことになる。

あるいはこういう問いを立ててみよう。

「回復」とは、患者さんが社会に適応することなのか。それとも、患者さんが生きられる社会を作ることなのか。

これは医療の問題ではなく、社会設計の問題だ。しかし精神科医療は、この問いから逃げることができない。なぜなら、「回復」の定義そのものが、医療と社会の共犯関係の中で作られているからだ。

3 「慢性」であることの意味

精神科の病気の多くは、慢性的な経過をたどる。

うつ病は再発しやすい。統合失調症は長期的な管理が必要なことが多い。パーソナリティの問題を持つ人は、数年単位での関わりが必要なことがある。発達障害は「治る」ものではなく、その特性とともに生き方を工夫し続けることが求められる。

つまり、多くの精神科患者にとって、「完全に治って通院が終わる」という結末は、現実的ではない場合が多い。長期にわたって、あるいは生涯にわたって、程度の差はあれ何らかの支援を必要とする可能性がある。

しかし現代の医療制度は、「急性期——治療——回復——終診」というモデルを基本として設計されている。

外来の診察時間は短い。通院の頻度が下がれば「回復した」と見なされる傾向がある。長期にわたる外来通院は、「依存」として問題視されることさえある。入院期間は短縮化の一途をたどっている。

このモデルは、骨折や感染症には合っている。しかし慢性的な精神科的苦悩には、根本的に合っていない。

「慢性化」は悪いことなのか

「慢性化」という言葉には、ネガティブなニュアンスがある。「治らないこと」「長引くこと」が問題だという響きがある。しかしこの見方そのものが問い直されるべきかもしれない。

慢性的に病院に通いながらも、その人なりの生活を送り、人と関わり、時に笑い、時に泣きながら生きている——これは「失敗した治療」なのか。それとも、その人が見つけた「生き方」なのか。

慢性的な通院関係の中にこそ、温存的精神療法の実践の多くが宿っている。急性期の劇的な変化よりも、何年もかけてゆっくりと育まれる信頼関係の中で、人は少しずつ自分の時間を取り戻していく。

4 都市という文脈

私が勤務しているのは東京・品川のクリニックだ。都市の外来クリニックという場所は、精神科医療の中で特殊な位置を占めている。

都市には、人が集まる。そして都市には、孤独が満ちている。

かつての農村共同体では、精神的に不安定な人は、地域の中に「なんとなく」包摂されていた部分があった。「あの人はちょっと変わっている」で済んでいた部分がある。地域の目が監視でもあり、同時に支えでもあった。

都市にはその種の共同体的な包摂がない。隣に誰が住んでいるかもわからない。会社での人間関係は表面的で、少しでも「使えない人」と見なされると居場所がなくなる。精神科を受診する「理由」は都市にあふれている。

しかし同時に、都市は「匿名性」という贈り物を持っている。

地方や小さなコミュニティでは、「精神科に通っている」ということが知れ渡ることを恐れる人は多い。都市では、誰が何科に通っているかを知られる可能性がずっと低い。この匿名性が、精神科受診の敷居を下げる。

都市の外来クリニックは、この匿名性の中に浮かぶ、小さな「存在の島」のような場所だ。患者さんは週に一度、あるいは月に一度、この島に立ち寄り、自分の話をして、また匿名の都市の流れに戻っていく。

この「立ち寄れる場所がある」という事実が、どれほど人を支えるか。私はそれを何度も目撃してきた。

診察室は、患者さんにとって「ただそこにいてよい場所」であること——それだけで、すでに治療は始まっている。

5 制度の時間と、人間の時間

現代の精神科医療には、「制度の時間」がある。

保険診療には点数がある。入院には日数の上限がある。精神障害者保健福祉手帳の更新には期間がある。就労支援には目標と期限がある。診察の予約は数週間先まで埋まっている。

これらはすべて、「効率」と「公平」のために作られた仕組みだ。それ自体を否定するつもりはない。しかし、この制度の時間と、人間が回復するために必要な時間は、しばしば深刻にずれている。

ある患者さんは、入院して三か月で「回復した」と見なされ、退院した。しかし彼の本当の回復には、五年かかった。退院してからの五年間を支えたのは、月に一度の外来通院だった。この五年間は、制度の目には「慢性化・長期化」と映る。しかし彼にとっては、自分の時間を少しずつ取り戻す、必要な五年間だった。

別の患者さんは、就労支援プログラムに参加を求められた。「回復のステップ」として、スケジュールが設計されていた。しかし彼女はそのペースについていけず、「自分はだめだ」とかえって落ち込んだ。支援が、傷つけることになった。

「制度の時間」は、患者さんの時間に合わせてはいない。制度は「平均的な回復曲線」を想定するが、人間の回復は平均値には従わない。

「時間の処方」という考え方

私が臨床の中で大切にしている言葉に「時間の処方」がある。薬を処方するように、時間を処方する——つまり、「今はゆっくりしていい時間です」「急がなくていい時間です」を、治療者が患者さんに明示的に伝えることだ。

患者さんは「早く治らなければいけない」という焦りを内側に抱えていることが多い。治療者が「今は急がなくていい」と言うことは、その焦りに「許可」を与えることでもある。「あなたの時間でいい」という一言が、患者さんを大きく楽にすることがある。

6 「生産性」という呪縛

現代社会は、人間を「生産性」で測る傾向が強い。

働けるか。稼げるか。社会に貢献できるか。役に立てるか——こういう問いが、人間の価値を決める物差しになっている。

この「生産性主義」は、精神科患者さんを直撃する。

うつ病で休職すれば、職場での評価が下がることを恐れる。復職しても「元通りのパフォーマンスが出ない」と感じれば、自分を責める。精神障害を持ちながら働き続けることに誇りを持てず、「なぜ普通にできないのか」と自問し続ける。

この「生産性主義」は、外から押しつけられているだけではない。患者さん自身の内側にも深く根を張っている。「役に立たなければいけない」「迷惑をかけてはいけない」「早く回復して社会に戻らなければいけない」——これらは内側からの声だ。

温存的精神療法は、この「内なる生産性主義」にも向き合う。

「今は何も生産しなくていい」「ただ存在しているだけでいい」——これを治療者が言えるためには、治療者自身が生産性主義から自由でなければならない。「この患者さんはなかなか回復しない」という焦りを持たないこと。「早く就労させなければ」という圧力に乗らないこと。

これは簡単なことではない。治療者もまた、制度と社会のプレッシャーの中にいるからだ。

「ただ存在しているだけでいい」——この言葉を、治療者が本当に信じていなければ、患者さんには届かない。

7 「回復しない権利」について

少し挑発的な言い方をしてみよう。

人には「回復しない権利」があるのではないか。

これは「治療を拒否する権利」とは少し違う。治療を受けながらも、社会が期待するような「回復した状態」に至らない——あるいは、至ることを選ばない——そのこと自体を、一つの権利として認めることができないか、という問いだ。

もちろん、これは「患者さんが苦しんでいていい」という意味ではない。苦しみを和らげることは、医療の本質的な使命だ。

しかし「苦しみが和らいだ状態」と「社会が定義する回復した状態」は、必ずしも同じではない。

ある人は、就労はできないが、穏やかに日常を送ることができる状態になった。これは「回復」か。

ある人は、幻聴は残っているが、それとうまく付き合いながら生活できるようになった。これは「回復」か。

ある人は、抑うつが完全には消えないが、「それでも生きていける」と感じるようになった。これは「回復」か。

私はこれらをすべて「回復」と呼びたい。しかし制度的には、これらは「不完全な回復」あるいは「慢性化」と見なされることがある。

「リカバリー(Recovery)」の新しい意味

精神科リハビリテーションの世界では近年、「リカバリー」の概念が大きく変化してきた。従来の「症状の消失・機能の回復」という医学的なリカバリーに加え、「パーソナル・リカバリー」という考え方が広まっている。

パーソナル・リカバリーとは、症状が残っていても、その人が「意味のある人生を生きている」と感じられる状態を指す。当事者研究や「オープンダイアローグ」など、患者さん自身の声を中心に置く実践も、この流れの中にある。

温存的精神療法は、このパーソナル・リカバリーの考え方と深く共鳴している。

8 「臨床エコシステム」という発想

温存的精神療法を実践するためには、個々の治療者の努力だけでは限界がある。

それを可能にする「環境」が必要だ。私はこれを「臨床エコシステム」と呼んでいる。

エコシステムとは生態系のことだ。森の中で木が育つためには、土・水・光・微生物・他の植物との関係——すべてが必要だ。一本の木だけを取り出して「育てよう」としても、うまくいかない。

精神科患者さんの回復も同じだ。診察室の中だけで完結するものではない。

患者さんが安心して「自分の時間」を取り戻せるためには、何が必要か。

まず、「長期的な外来関係」だ。患者さんが同じ治療者と長期にわたって関係を築けることが、温存的精神療法の土台になる。しかし現代の医療制度は、医師の異動・クリニックの廃業・保険の制限などによって、この長期的関係を脅かす。

次に、「制度の時間的余白」だ。患者さんが「急かされない」ためには、制度そのものが「急かさない」設計になっていることが必要だ。入院日数の上限緩和、外来通院の長期化への柔軟な対応、就労支援の個別化——こういった制度的な余白が、臨床の現場に必要だ。

そして「地域のつながり」だ。クリニックだけでなく、デイケア・訪問支援・ピアサポート(同じ経験を持つ仲間同士の支え合い)・地域の居場所——こういったネットワークが、患者さんの生活全体を「保持する環境」として機能する。

温存的精神療法は、診察室の中だけで完結するものではない。それを支える社会的・制度的な「エコシステム」があって初めて、実践できるものだ。

9 治療者自身を「温存」すること

最後に、少し別の角度から話したい。

温存的精神療法は、患者さんのためだけのものではない。治療者自身のためでもある。

精神科医療の現場は、治療者に大きな負担をかける。患者さんの苦しみを受け取り続けることは、治療者の心にも影響を与える。「バーンアウト(燃え尽き症候群)」は、精神科医療者の間で深刻な問題だ。

なぜバーンアウトが起きるのか。一つの大きな理由は、「もっとよくしなければ」「なぜよくならないのか」というプレッシャーだ。「早く回復させなければ」という焦りが、治療者を追い詰める。

温存的精神療法の発想を、治療者自身に向けるとこうなる。

治療者もまた、「急がなくていい」。「今日すべてを解決しなくていい」。「患者さんが変わらなくても、それは自分の失敗ではない」。「ただそこにいることが、すでに治療の一部だ」。

この発想が、治療者を「バーンアウト」から守る。

さらに言えば、治療者が自分自身を大切にできることが、患者さんへのケアの質を保つ。疲弊した治療者は、患者さんの微妙な変化を感じ取る感度を失う。「余裕のある治療者」こそが、「余白のある診察室」を作ることができる。

治療者が自分自身を温存すること——それは利己的な態度ではなく、患者さんへの責任の一部だ。

10 この章のまとめ——そして次章へ

この章では、診察室の外——社会・制度・文化——という文脈から、温存的精神療法の意味を考えた。

「回復」とは誰のための概念か。慢性であることの意味。都市という文脈が生み出す孤独と匿名性。制度の時間と人間の時間のずれ。「生産性主義」という内側からの呪縛。「回復しない権利」。臨床エコシステムの必要性。そして治療者自身を温存すること。

これらは、精神科医療の内側だけの問題ではない。「どんな社会に生きたいか」という問いと、直接つながっている。

最終章では、この本全体を通じて私が伝えたかったことを振り返り、温存的精神療法が指し示す「もう一つの治療の形」について、改めて考えたい。

コラム④ オープンダイアローグとは何か

「オープンダイアローグ(Open Dialogue)」は、フィンランドで生まれた精神科治療のアプローチだ。一九八〇年代に、ケロプダス病院のヤーコ・セイックラらが開発した。

その中心にあるのは、患者さんの危機が生じたとき、患者さんと家族、そして支援者が一堂に集まり、「対話」を続けるというシンプルな原則だ。診断を急がず、薬を急がず、まず「話を聞く」ことを徹底する。治療者が「答え」を提供するのではなく、対話のプロセスそのものが治療となる。

フィンランドのウェスタン・ラップランド地域では、このアプローチによって統合失調症の長期入院率が劇的に低下したという報告がある。

温存的精神療法と直接同じではないが、「急がない」「解釈を押しつけない」「対話の場を保持すること」という姿勢において、深く共鳴するアプローチだ。

(第四章 了)

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