『精神医学の歴史:収容所時代からプロザックの時代まで』
エドワード・ショーター著
概要
本書は、過去200年にわたる精神医学の理論と実践を一貫した物語としてまとめたものである。精神疾患への社会の態度の変化や、患者の苦しみを軽減しようとした科学者・医師の努力を、過酷で滑稽、時に感動的なエピソードとともに描く。著者は、精神医学の発展を牽引した人物とその功績を評価し、進歩を妨げた要因も厳しく批判する。また、18~19世紀のドイツにおける精神医学の高度な発展や、20世紀に米国が精神分析の中心地となった背景を、科学的・文化的視点から分析する。
精神医学に関心を持つ幅広い読者にとって、魅力的で示唆に富む内容である。
書評
- レイ・モンク(『The Mail on Sunday magazine』、英国)
「200年にわたる精神医学の理論と実践を、魅力的かつ一貫した物語にまとめるのは見事な成果だ。ショーターのストーリーテリングの技術、彼が精神医学を形成した精神科医の個性や、彼らと患者が生きた環境を生き生きと描き出す能力が特に印象的である。」 - カーカス・レビュー
「意見が強く、逸話に富んだ歴史書だ。精神科医は細部に異議を唱えるかもしれないし、フロイト派や他の精神分析家は強く反発するだろう。しかし、特定の立場を持たない読者は大いに楽しめ、確実に啓発される。」 - ロイ・ポーター(ウェルカム医学史研究所)
「ショーターは、大きな情熱、明快な叙述、そして真に深い学識をもってこの物語を語っている。」
本の内容(高校教科書風)
本書は、精神医学の歴史を以下のように整理して解説する:
- 18~19世紀:精神疾患の治療は収容所(アサイラム)での隔離が中心だった。ドイツでは科学的な精神医学研究が進展し、世界をリードした。
- 20世紀初頭:フロイトの精神分析が登場し、米国がその研究と実践の中心地となった。
- 20世紀後半:プロザックなどの薬物療法が普及し、精神疾患の治療法が大きく変化した。
- 精神医学の発展には、科学的発見や文化的要因が深く関与。著者は、主要な精神科医の貢献と限界を明確に評価する。
表:精神医学の歴史の主要な段階
時代 | 特徴 | 代表例 |
---|---|---|
18~19世紀 | 収容所での隔離、科学的アプローチの開始 | ドイツの精神医学研究 |
20世紀初頭 | 精神分析の普及 | 米国のフロイト派の台頭 |
20世紀後半 | 薬物療法の進展 | プロザックの登場 |
本書の意義
- 精神医学の歴史を、主要人物のエピソードを通じてわかりやすく叙述。
- 精神疾患への社会の態度の変遷や、治療法の進歩を理解できる。
- 著者の強い視点が、読者に批判的思考を促す。
目次(Table of Contents)
他のエドワード・ショーターの著書(Other Books by Edward Shorter)
- 歴史家とコンピュータ:実践ガイド
- 労働と西洋のコミュニティ(編者)
- フランスのストライキ、1830-1968年(共著:チャールズ・ティリー)
- 近代家族の形成
- 女性の身体の歴史
- ベッドサイド・マナー:医師と患者の困難な歴史
- 健康の世紀
- 麻痺から疲労へ:現代における心身症の歴史
- 心から体へ:心身症の文化的起源
タイトルページ(Title Page)
著作権ページ(Copyright Page)
献辞(Dedication)
序文(Preface)
第1章 精神医学の誕生(The Birth of Psychiatry)
- 精神医学のない世界
- 伝統的な収容所
- 治療的収容所の到来
- 治療的収容所の組織化
- 神経疾患と非精神科医
- 生物学的精神医学へ
- ロマン派精神医学
第2章 収容所時代(The Asylum Era)
- 各国の伝統
- 患者数の圧力
- なぜ増加したのか?
- 疾患の再分配
- 精神疾患の増加率
- 行き詰まり
第3章 最初の生物学的精神医学(The First Biological Psychiatry)
- アイデアの登場
- ドイツの世紀
- フランスの失敗
- 英米の遅れ
- 退行理論
- 最初の生物学的精神医学の終焉
- アメリカの後書き
第4章 神経(Nerves)
- 狂気よりマシな神経疾患
- 狂気が温泉療法へ
- 疲れた神経と休息療法
- 神経学が心理療法を発見
第5章 精神分析の中断期(The Psychoanalytic Hiatus)
- フロイトとその仲間
- 戦いの始まり
- アメリカの起源
- ヨーロッパからの到来
- 勝利
- 精神分析とアメリカのユダヤ人
第6章 代替療法(Alternatives)
- 発熱療法と神経梅毒
- 初期の薬物
- 持続睡眠療法
- ショックと昏睡療法
- 電気ショック療法
- ロボトミーの冒険
- 社会・地域精神医学
第7章 第二の生物学的精神医学(The Second Biological Psychiatry)
- 遺伝の糸
- 初めて効果を上げた薬
- 薬の豊富な供給
- 神経科学
- 反精神医学運動
- 「地域」への回帰
- 電気けいれん療法をめぐる論争
第8章 フロイトからプロザックへ(From Freud to Prozac)
- 市場シェアの維持
- 心理療法への国民の渇望
- 診断における科学と流行
- 精神分析の衰退
- 美容的精神薬理学
- なぜ精神医学なのか?
注釈(Notes)
索引(Index)
本の構成:この本は、精神医学の歴史を8つの章で段階的に解説。収容所での治療から、フロイトの精神分析、現代のプロザック(抗うつ薬)まで、精神疾患の治療法や考え方の変化を追う。各章のポイント:
- 第1~3章:精神医学の始まりと、科学的なアプローチ(生物学的精神医学)の登場。
- 第4~5章:神経疾患や精神分析(フロイトの心理学)が注目された時代。
- 第6~7章:電気ショックや薬物療法など、新しい治療法の試み。
- 第8章:現代の精神医学と、心理療法や薬の役割。
序文(Preface): 精神医学の歴史を振り返る
全体の概要
30〜40年前、精神医学の歴史をまとめた研究者たちにとって、話はシンプルでした。以下のような流れでした:
- 19世紀:悪い「生物学的精神医学者」がいて、精神疾患は脳の問題だと考えていました。
- その後:精神分析や心理療法が登場し、生物学的考え方を否定。精神疾患は「子どもの頃の不幸」や「大人のストレス」が原因だとされました。フロイトの考えが精神医学を支配し、それ以上の議論は不要とされました。
しかし、1950年代から1990年代にかけて、精神医学は大きな変化を遂げました:
- 昔の「心の葛藤が原因」という考えは捨てられ、脳そのものに注目が集まりました。
- 精神分析(フロイトの理論)は、まるでマルクス主義のように、時代遅れの「恐竜のイデオロギー」になりました。
- 今では、重い精神疾患には遺伝や脳の生物学が関係していることが明らかです。ストレスや子どもの頃の経験も影響しますが、すべてではありません。
- 軽い不安やうつ症状も、薬で改善でき、長いカウンセリングは必要なくなりました。
結論:20世紀末の精神医学では、生物学的アプローチ(精神疾患を遺伝や脳の化学的問題として扱う)が大成功を収めました。フロイトの考えは「冬の最後の雪」のように消えつつあります。
新しい歴史書の必要性
精神医学の歴史を新しく見直す時が来ました。この本の目的は:
- 1冊で全体の物語を伝える:国ごとの違いや、文化と精神医学の関係を強調。
- 簡潔にまとめる:百科事典のようにならず、ドラマチックな概要を提供。
- 社会史として書く:
- 単なる「理論の歴史」ではなく、主要な人物の人生や時代背景を振り返る。
- 忘れられつつある人物を再び光に当てる。
- 各国の独自の貢献を強調(ただし、すべての国を詳細に書くわけではない)。
- 文化や商業が「科学の勝利」とされる物語にどう影響したかを示す。
精神医学の歴史に対する誤解を正す
精神医学の歴史は、特定のイデオロギーを持つ人々によってゆがめられてきました。この本は、そうした誤解を正します:
- 誤解の例:
- 一部の研究者は、精神医学を「資本主義」「家父長制」「精神医学そのもの」の道具だと批判。
- 彼らは、精神医学が「反抗的な人」を病気とみなし、収容所に閉じ込めたと主張。
- 精神疾患自体が「社会の作り上げたもの」と考え、存在を否定。
- 著者の主張:
- 精神疾患は本物:パーキンソン病や多発性硬化症と同じように、精神疾患(例:統合失調症、うつ病)も生物学的な根拠があります。
- ただし、患者がどう感じるかや社会がどう理解するかは、文化や慣習に影響されます。
- 精神医学は「許容される行動」を決める力を持っていますが、精神疾患を「社会の陰謀」と考えるのは間違いです。
物語の流れ
この本が描く精神医学の歴史は、次のように進みます:
- 18世紀後半:新しい「治療的収容所」が登場。精神疾患は脳の問題だと考えられました。
- 19世紀〜20世紀初頭:フロイトの理論が主流になり、脳と心が切り離されました(約50年間)。
- 現代:脳の重要性が再び強調され、生物学的アプローチが勝利。
著者の立場:半分謝罪的(Semiapologetic)
- 昔の歴史家:
- 収容所の登場は「人間の苦しみを減らす進歩」と考えた(完全な擁護)。
- 1960年代の批判者:
- 収容所は「進歩」ではなく、貧困や反抗的な人を閉じ込める「悪夢」と主張。
- 精神疾患自体を「存在しない」と疑い、「狂気」や「精神異常」という言葉を皮肉に使った。
- 現在、この「修正主義」が学界で主流。
- 著者の立場:
- 修正主義に正面から挑戦。
- 精神疾患は実在し、過去の治療努力は「資本主義の陰謀」ではない。
- ただし、精神科医が自分の権威を高めようとした側面は否定しない。
- 精神医学の歴史を「医者の自己利益」だけで説明するのは単純すぎる。
注意点:歴史研究の難しさ
- 精神医学の歴史は「地雷原」です。新しい証拠で、どんな主張も覆される可能性があります。
- 豊富な資料があるため、都合の良い引用で何でも証明できてしまう危険性も。
- 著者は、長年の研究に基づき、修正主義より真実に近い歴史を提示。ただし、研究はまだ若く、驚くべき発見があるかもしれません。
謝辞
この本の完成には多くの人の協力がありました:
- デイビッド・ヒーリー:現代精神医学の重要人物へのインタビューや、近日出版の「抗うつ薬の歴史」の原稿を共有。
- トーマス・バン:原稿の一部を読んで助言。
- スーザン・ベランジェ:図書館での資料収集をサポート。
- ロイ・D・ピアソン:トロント大学の科学・医学図書館で、図書館間貸出サービスを担当。
- アンドレア・クラーク:トロント大学医学史プログラムの管理者としてサポート。
- ジョアン・ミラー:出版社ジョン・ウィリー&サンズの編集者として協力。
補足:ポイント整理
時代 | 主な考え方 | 何が起こった? |
---|---|---|
18世紀後半〜19世紀 | 精神疾患は脳の問題 | 治療のための収容所が作られた。 |
19世紀末〜20世紀初頭 | フロイトの精神分析 | 心の葛藤や子どもの頃の経験が原因とされ、脳は無視された。 |
1950年代〜1990年代 | 生物学的アプローチの復活 | 遺伝や脳の化学が重要視され、薬で治療する時代に。 |
- 精神疾患は本物:病気には生物学的な原因があり、ただの「気のせい」ではない。
- 文化の影響:社会や文化が、精神疾患をどう見るか、患者がどう感じるかに影響する。
- 歴史のゆがみ:一部の人は精神医学を「悪いもの」と決めつけるが、それは真実の一部しか見ていない。
第1章:精神医学の誕生
精神医学がなかった時代
18世紀末まで、精神医学というものは存在しませんでした。
- 古代ギリシャの時代から、医者が「狂気」の治療に携わり、関連する本を書いていましたが、精神医学という専門分野はありませんでした。
- 医者たちが「私たちは精神医学の専門家だ」と共通の意識を持つこともなかったのです。
- 実は、外科以外で医療の専門分野ができたのも、19世紀になってからのことでした。
しかし、精神疾患そのものは人類の歴史と同じくらい古いものです。
- 精神疾患は生物学的・遺伝的な原因があり、脳の化学的な問題から生じることがあります。
- すべての精神疾患が脳の問題ではありませんが、一部は確実にそうです。
- だから、人類はいつも精神疾患と向き合い、なんとか対処してきました。
精神医学がない世界とは?
精神医学がない時代、精神疾患を持つ人々はどのように扱われていたのでしょうか? いくつかの例を見てみましょう。
アイルランド(1817年)の例
アイルランドの農村では、精神疾患を持つ人はひどい扱いを受けていました。
- ある議員がこう語っています:
「アイルランドの農民の小屋で狂気を見るほどショッキングなことはない。強い男女がその病気にかかると、家族は小屋の床に穴を掘ります。穴は人が立つのに十分な高さではなく、頭上に格子をつけて閉じ込めます。深さは約1.5メートル。そこに食べ物を与え、その人はそこで死にます。」 - ポイント:精神疾患の人は、まるで動物のよう閉じ込められ、ひどい環境で亡くなっていました。
ヨーロッパの村の状況
中世から19世紀初頭のヨーロッパの村では、精神疾患の人は厳しく扱われました。
- 村人たちは、「普通でない」人を恐れ、厳しいルールに従わない人を許しませんでした。
- 村は小さなコミュニティで、伝統や季節の流れに従って生活。精神疾患で「普通と違う」人は、残酷に扱われました。
- 例:シェイクスピアの『リア王』に登場するような、精神疾患の人は「家を追い出され、嵐の中で裸でさまよう」ような存在でした。
- 家を追い出された人は、乞食としてヨーロッパの道をさまよいました。多くの「村のばか」は、出産時のトラブル(例:くる病で骨盤が狭いために長い出産で脳にダメージ)で精神遅滞や統合失調症になった人でした。
家族による「自宅ケア」の現実
精神疾患の人の世話は、家族がしていました。しかし、その現実は恐ろしいものでした。
- ドイツの例(1798年、ヴュルツブルクの病院):
- アントン・ミュラー(精神医学の責任者)が報告:
- 16歳の少年が、父親の羊飼いの小屋で何年も豚小屋に閉じ込められ、足や心を失い、動物のようになめながら食べ物を食べていた。
- 自宅で世話されていた患者は、背中に青あざや血の出る傷があり、ひどい状態だった。
- ある男性は、妻によって5年間家の壁に鎖でつながれ、足が使えなくなった。
- 退院した患者が村で見つかると、若者が「変人だ!」と追いかけてからかった。
- スイスの例(1870年代、フリブール):
- 精神疾患の人の調査で、164人のうち5分の1が自宅で拘束されていた。
- 拘束場所は、暖房のない部屋や納屋、狭くて暗い「臭くて湿った監禁場所」。
- 2人は納屋で「自分の排泄物の中でわらに寝て、顔にハエがたかっていた」。
- フランスの例(1860年、ブルターニュ):
- ルイ・カラデック(医者)が語る:
- 農村では、家族に狂気があるのは「恥」とされ、収容所に送らず自宅に隠した。
- おとなしい患者は自由にさせられたが、暴れる場合は「納屋の隅や孤立した部屋に鎖でつながれた」。
- こうしたことはよくあり、当局が知るまで何年も気づかれなかった。
イングランドの例(1776年)
- ウィリアム・パーフェクト(小さな療養所の経営者)が報告:
- ある男性が貧民救済所で「床に鉄の輪と足かせでつながれ、手錠をされていた」。
- 窓の外から見物人が「患者を指さし、笑い、苛立たせ、公開のショー」にした。
- 患者は「足で針に糸を通す」などの芸を見せていた。
- ポイント:地域社会は「優しいケア」をせず、患者をさらしものにしていました。
アメリカの例(1840年代、マサチューセッツ)
- ドロシア・ディックス(社会改革者)が農村の精神疾患の人の状況を調査:
- リンカーン:女性が「檻」に閉じ込められていた。
- メドフォード:1人が鎖でつながれ、1人が17年間狭い部屋に閉じ込められていた。
- バーンスタブル:4人の女性が「囲い」や「納屋」に。少なくとも2人が鎖でつながれていた。
- 救貧院では、患者が「わらでできた木のベッド」に閉じ込められていた。
- ダンバース:若い女性が「病院から『不治』とされ戻され、汚い檻で叫び、わいせつな言葉を発していた」。
- 彼女は「汚れた服の破片をまとい、悪臭の中で」檻に閉じ込められ、短時間しか耐えられないほどだった。
結論:精神医学がない世界の真実
- これらの話は「極端な例」ではなく、精神医学がない時代の典型的な状況です。
- 精神疾患の人は、受け入れられたり、甘やかされたりしませんでした。むしろ、残酷で冷たい扱いを受けました。
- 収容所ができる前は、精神疾患の人が「資本主義の価値観から外れた人」として優しく扱われた「黄金時代」などありませんでした。
- そんな考えは幻想です。
補足:ポイント整理
時代・場所 | 精神疾患の人の扱い | 具体例 |
---|---|---|
アイルランド(1817年) | 小屋の床の穴に閉じ込め | 1.5mの穴に格子をかぶせ、そこで死ぬまで生活。 |
ヨーロッパの村(中世〜19世紀) | 家族が自宅で拘束、または乞食として放浪 | 豚小屋や壁に鎖でつながれ、村人にからかわれる。 |
スイス(1870年代) | 自宅の納屋や暗い部屋に監禁 | 排泄物の中でわらに寝て、ハエがたかる。 |
フランス(1860年) | 恥として自宅に隠し、暴れる場合は鎖でつなぐ | 納屋や孤立した部屋に閉じ込められる。 |
イングランド(1776年) | 救貧院で鎖につながれ、さらしものに | 足かせや手錠で床に固定、窓から見物人に笑われる。 |
アメリカ(1840年代) | 檻や救貧院の汚い環境に閉じ込め | 汚れた檻で叫び、悪臭の中で生活。 |
まとめ
- 精神医学がない時代:精神疾患の人は、家族や村人にひどく扱われ、鎖でつながれたり、檻に閉じ込められたりした。
- 誤解を正す:昔は「優しい社会」が精神疾患の人を自由にさせた、というのはウソ。実際は残酷だった。
- なぜこうなった?:
- 村は「普通」を強く求め、違う人を恐れた。
- 家族は恥ずかしさや知識のなさから、患者を隠したり、ひどい扱いをした。
- 精神医学がなかったので、適切な治療や理解がなかった。
伝統的な収容所(Traditional Asylums)
収容所の始まり
中世から、収容所(精神疾患の人を閉じ込める施設)は存在しました。収容所は18世紀末の発明ではありません。
- 都市では、ホームレスの精神病患者や認知症の人が問題でした。そのため、以下のような施設が作られました:
- 病人、犯罪者、浮浪者を収容するホスピス(救護施設)。
- 刑務所や救貧院(貧しい人を収容する施設)。
- 本格的な収容所(精神疾患の人専用の施設)。
- これらの施設は、治療を目指さず、ただ管理・監禁するだけでした。昔の社会には、患者を治すという考えがありませんでした。
ヨーロッパの収容所:ベスレム(Bedlam)の例
ヨーロッパで最も古い精神病院の一つがベスレム(Bethlem)です。
- 歴史:
- 13世紀に「ベツレヘムの聖マリア修道院」として設立。
- 1403年までに、6人の「狂人」を含む人々を収容。
- 後にはほとんどが精神疾患の人専用になり、「ベスレム」は「ベドラム(Bedlam)」と呼ばれるようになり、「混乱した狂気」の代名詞に。
- 1547年にロンドン市が管理を引き継ぎ、1948年まで市が運営。
- 状況:
- 1733年の絵画(ウィリアム・ホガースの『放蕩者の成れの果て』)では、ベスレムの患者が「裸で鎖につながれ、頭をシラミのために剃られ、床に横たわる」姿が描かれています。
- 私費患者(家族がお金を払う人)は少しマシな扱いを受けたかもしれませんが、全体的にひどい環境でした。
- 1815年時点で、患者はわずか122人。精神医療全体では小さな存在でした。
イングランドの私営「狂人収容所」
18世紀のイングランドには、ベスレム以外に7つの公共収容所(例:1713年設立のノリッジのベセル)がありました。しかし、私営の「狂人収容所」(madhouses)も多く、患者数は同等かそれ以上でした。
- 私営収容所の特徴:
- 医者の家に数人収容する小さなものから、400〜500人の大きな施設まで。
- 家族が自宅で管理できない人を預かるための施設。
- 治療はなく、ただ監禁するだけ。
- 公共収容所と比べても、環境はほとんど変わらないほど悪かった。
- 例(1809年、ジョン・ハスラムの報告):
- ベスレムの医者ハスラムが私営収容所を批判:
- 「多くの女性患者が、一時的な精神の乱れで入所した後、ひどい扱い(例:口に無理やり器具を入れる『スパウティング』)を受け、歯を全部失って家族に戻された。」
- 1826年の統計:
- イングランド全体で収容されていた精神疾患の人は約5000人。
- 64%:私営収容所。
- 36%:公共収容所(ベスレムとセント・ルークスで計500人)。
- 刑務所に53人。
- 人口1000万人の国で、収容された人はごくわずか。フランスの哲学者ミシェル・フーコーが言う「大規模な監禁(grand confinement)」はイングランドには当てはまりません。
フランス:公共のホスピス
イングランドが私営中心だったのに対し、ヨーロッパ大陸(特にフランス)では公共の施設が精神疾患の人を収容しました。
- 1656年の改革:
- ルイ14世がパリに2つの大きなホスピスを設立:
- ビセートル(Bicêtre):男性用。
- サルペトリエール(Salpêtrière):女性用。
- これらは「総合病院(hôpitaux généraux)」と呼ばれ、病人、犯罪者、ホームレス、精神疾患の人を収容。
- 治療はなく、監禁が目的。19世紀末まで精神病院というよりホスピスの性格が強かった。
- 状況:
- 患者は定期的に鞭で打たれ、鎖でつながれ、ひどい衛生環境に置かれた。
- 1788年のビセートルでは、「狂人」(てんかんや知的障害含む)が245人だけ。
- 1798年時点で、フランスに177の総合病院があり、ほとんどのベッドは精神疾患以外の患者(乞食、老人、身体疾患の人)で占められていた。
- 地方の施設:
- 地方都市にもホスピスや救貧院(「デポ・ド・メンディシテ」など)が精神疾患の人を収容。
- 精神疾患の人の数は少なく、施設は精神病院というより一般の収容施設だった。
- 結論:
- 人口約3000万人のフランスで、精神疾患のベッド数はごくわずか。フーコーの「大規模な監禁」はフランスにも当てはまりません。
中央ヨーロッパ:バラバラな管理
中央ヨーロッパ(ドイツなど)は小さな国家の集まりで、フランスのような中央集権がありませんでした。
- 管理の分担:
- 国家、教会、地方コミュニティが精神疾患の人の世話を分け合った。
- 収容所、救貧院、刑務所で対応。
- 状況(1800年頃、ヨハン・ライルの報告):
- ハレ大学の医学教授ライルがドイツの収容所を描写:
- 「大都市の喧騒から狂人収容所に入ると、驚くべき光景が広がる。」
- 患者は妄想や幻覚の中で「暴君や奴隷」を演じ、理由なく笑ったり苦しんだり。
- 「不幸な人々を、狂人の檻や古い牢獄、町の門の屋根裏や湿った地下牢に閉じ込める。そこは人間の友の優しい視線が届かない場所。鎖でつながれ、汚物の中で腐っていく。」
- 歴史:
- 中世から「愚者の家(Tollhäuser)」が存在し、18世紀末に増えた。
- しかし、17世紀の絶対君主制による「大規模な監禁」の証拠は中央ヨーロッパにもない。
精神医学の不在
フーコーは「精神医学は中央政府が作った」と考えましたが、ドイツでは19世紀まで精神医学はほとんど存在しませんでした。
- アントン・ミュラーの回想(ヴュルツブルク、18世紀末):
- 「当時の医学生は精神疾患についてほとんど学ばず、実際の診療でも知識を得られなかった。この分野は完全に無視されていた。」
- 昔の医者は「黒い胆汁」の過剰を治す薬を与えたが、効果的な治療法(例:ヘレボレという薬)は失われていた。
アメリカ:植民地時代の対応
アメリカの植民地では、ヨーロッパのような「前近代の狂人収容所」はほとんどありませんでした。
- 家族の責任:
- 精神疾患(「気が狂った人」)の世話は家族が担当。
- 地域の対応:
- 町の指導者が、個別の患者のために小さな「頑丈な家」を建てることがあった。
- 例(1688年、マサチューセッツのブレインツリー):
- サミュエル・スピアが、狂った姉(グッドワイフ・ウィッティ)を閉じ込めるため、5×7フィート(約1.5×2m)の家を町の援助で建てた。
- 例(1701年、ウォータータウン):
- 「気が狂った子」を預かり、世話の費用を町が支払った。翌年、預かり先が崩壊すると、別の住民が「小さな家」で子を管理。
- 植民地の施設:
- 1729年:ボストンの救貧院が、精神疾患の人を他の住民から分離し、初めて精神科病棟を作った。
- 1752年:ペンシルベニア病院(クエーカー教徒の提案で設立)が精神疾患の患者を受け入れ。
- 1791年:ニューヨーク病院が開業、1808年に「ルナティック・アサイラム」(精神病院棟)を設置。
- 1773年:バージニア州ウィリアムズバーグに、アメリカ初の精神病院が設立。「愚者、狂人、精神異常者の支援と維持」を目的とした。
結論:精神医学の始まり
- 大西洋の両側(ヨーロッパとアメリカ)で、精神医学の歴史は監禁のための収容所から始まりました。
- これらの施設は、危険で迷惑な人を閉じ込めるためのもの。
- 治療的役割の発見:
- 収容所が単なる監禁ではなく、治療の場になり得るとわかったことで、精神医学という学問が生まれた。
補足:高校生向けのポイント整理
地域 | 施設の種類 | 特徴 | 例 |
---|---|---|---|
イングランド | 公共収容所(ベスレムなど)、私営狂人収容所 | 治療なし、監禁のみ。環境はひどい。 | ベスレム(122人、1815年)、私営で歯を失う患者。 |
フランス | 総合病院(ビセートル、サルペトリエール) | 公共施設で監禁。鞭や鎖、悪い衛生環境。 | ビセートル(245人、1788年)。 |
中央ヨーロッパ | 収容所、救貧院、刑務所 | 国家・教会・地域が管理。ひどい環境。 | ドイツの「愚者の家」、鎖と汚物の中。 |
アメリカ | 家族管理、小さな家、救貧院、初期病院 | 家族中心、町が支援。治療なし。 | ボストン救貧院(1729年)、ウィリアムズバーグ精神病院(1773年)。 |
高校生向けのまとめ
- 収容所の役割:
- 中世からあった収容所は、精神疾患の人を閉じ込めるだけ。治療は考えられていなかった。
- ひどい環境:
- ベスレム(ベドラム)やフランスのホスピスでは、患者は鎖でつながれ、ひどい扱いを受けた。
- 私営の「狂人収容所」も同じくらい悪かった。
- 「大規模な監禁」はウソ:
- フーコーの言う「政府が精神疾患の人を大量に閉じ込めた」という話は、どの地域でも事実と合わない。収容された人はごくわずかだった。
- アメリカの状況:
- 植民地では家族が主に世話をしたが、町が小さな施設を作ったり、後に精神病院ができた。
- 精神医学の誕生:
- 収容所が「治療の場」として使われるようになり、精神医学が生まれた。
治療的収容所の到来(Heralding the Therapeutic Asylum)
収容所が「治療の場」に変わる
18世紀末、精神疾患(狂気)が「治せる」という考えは新しいものではありませんでした。昔の医学では、瀉血(血を抜く)、下剤、嘔吐剤などを使って治療しており、医者は「治せる」と自信を持っていました。
- 新しい考え:
- 収容所が、ただ「迷惑な人を家族や村から隔離する」場所ではなく、患者を良くする(治療する)場所になれるというアイデア。
- この考えは、まるで革命のように精神医学の世界に広がりました。
啓蒙思想と治療への楽観主義
18世紀の啓蒙思想(理性を使って世界を良くするという考え)は、医学にも大きな影響を与えました。
- 啓蒙思想の特徴:
- 社会、政治、医療を「改良」できるという信念。
- 例:フランス革命で憲法が作られ、市場経済のルールが明らかになったように、病気も正しい治療哲学で治せると考えられた。
- 医学の変化:
- 18世紀後半、エディンバラ(スコットランド)を中心に、医学全体に「治療できる」という楽観主義が広がった。
- 精神医学もこの流れに乗り、収容所の医者たちは「精神疾患を治せる」と自信を持つようになった。
誰がこの変化を始めたのか?
この変化はあまりにも広範囲で、1人の人物が始めたとは言えません。ドイツのヨハン・ライルは、1803年にこう語っています:
- 「イギリス、フランス、ドイツの医者たちが一斉に動き出し、精神疾患の人の状況を改善しようとしている。監獄や牢獄の恐怖は終わり、勇敢な人々が『狂気を地球上からなくす』という壮大な目標に挑んでいる。」
- ポイント:ライルは、精神疾患を「最も壊滅的な疫病」と呼び、国際的な運動として収容所の改革を捉えました。これは啓蒙思想らしい、壮大で希望に満ちた言葉です。
国際的な改革運動
一部の学者は、精神医学の誕生を「資本主義」や「中央政府」の影響と結びつけますが、この改革はさまざまな社会や経済の環境で起きました。
- なぜ単一の原因ではないのか?:
- 資本主義や政府だけが原因なら、特定の国だけで起こるはず。でも、この変化は国境を越えて広がった。
- 本当の原因:
- 啓蒙思想の科学的思考:学術誌が広く読まれ、重要な本が翻訳され、医者が海外を訪れて最新の情報を学んだ。
- 社会環境に関係なく、科学的な考えが精神医学をスタートさせた。
治療的収容所の先駆者たち
特定の医者たちが、収容所が治療の場になるという考えを広めました。以下はその主要な人物です。
1. ウィリアム・バティ(イギリス)
- 人物:
- ロンドンのセント・ルークス病院(1751年開業)の初代医長。
- 2つの私営「狂人収容所」のオーナーで、医師会の会長も務めた有名な「狂気専門医」。
- 貢献:
- 1758年、54歳の時に『狂気論(Treatise on Madness)』を出版。
- 収容所自体に治療効果があると主張:
- 「薬よりも『管理』が重要。経験から、収容だけで十分な場合もあるが、収容がなければどんな治療法も効果がない。」
- 隔離治療を提案:
- 患者は友人や見物人から隔離し、家族の使用人ではなく収容所のスタッフが世話する。
- 意義:
- 収容所を治療の場とみなす最初の有力な発言。これが精神医学の誕生の始まり。
2. ヴィンチェンツォ・キアルージ(イタリア)
- 人物:
- フィレンツェの若い医者(26歳、1785年当時)。
- 過密なサンタ・ドロテア救護所で働いていた。
- 貢献:
- 1785年、トスカーナ地方の改革派オーストリア大公レオポルドに提案:
- 古いボニファツィオ病院を改修し、サンタ・ドロテアの精神疾患患者を移す。
- 1788年、ボニファツィオ精神病院が開業。
- 1789年、病院の運営規則(キアルージが書いたとされる)を発行。
- 1793〜1794年、『狂気について(On Insanity)』3巻を出版:
- 収容所は患者を隔離するだけでなく、治すための場所だと主張。
- 治療的収容所の運営方法を具体的に説明(詳細は次章)。
- 意義:
- 治療的収容所の基本を初めて明確に示した。
3. フィリップ・ピネル(フランス)
- 人物:
- 1745年、フランス南西部の貧しい医者家庭に生まれる(7人兄弟の長男)。
- トゥールーズで数学、モンペリエで医学を学び、パリで医学ライターや翻訳者として活動。
- 1780年代のサロンで啓蒙思想や進歩的な社会哲学を吸収。
- フランス革命(1789年〜)で注目され、1793年(38歳)にビセートル救護所の運営を任される。
- 1795年、サルペトリエールの責任者に。
- 貢献:
- 鎖の解放:
- 1793年、ビセートルの患者の鎖を外した(実際は病院管理者プッサンが命令)。
- 1795年、サルペトリエールでも鎖を廃止(ただし、鎖の代わりに拘束衣を使用。他の医者、例:キアルージも鎖を外していた)。
- 1801年の教科書:
- ビセートル、サルペトリエール、ベルオム医院での経験をもとに、収容所が心理的治療の場になると主張。
- 「回復中の患者や発作の間の安定した患者を、特別な病棟で『心理的治療(institution morale)』にかけ、理性の能力を育て、強化する。これで社会復帰が期待できる。」
- ピネルの方法:
- 患者に優しく接し、温かいお風呂で落ち着かせ、仕事や規則正しい活動で時間を埋めた。
- 意義:
- 鎖の解放より、収容所の治療的可能性を示した教科書が重要。多くの歴史では、ピネルが現代精神医学の創始者とされる。
4. ジャン=エティエンヌ・エスキロール(フランス)
- 人物:
- 1772年、トゥールーズの裕福な家に生まれるが、革命で貧困に。
- 医学を志し、パリへ。ピネルのサルペトリエールでの講義を聞いて感銘を受ける。
- ピネルと強い師弟関係を築き、「改革精神医学の後継者」と呼ばれる(フロイトとユングのような関係)。
- 貢献:
- 1802年、博士論文で「情動(passions)」と精神疾患の関係を論じる。
- 1811年、サルペトリエールの精神科部門の管理者(非医者のプッサンの後任)に。
- ピネルの治療的収容所のアイデアを具体化し、運営の詳細を明確にした(次章で詳述)。
- 意義:
- ピネルの理論を実践に移し、治療的収容所の細かいルールを定めた。
補足:ポイント整理
人物 | 国 | 主な貢献 | 時期 |
---|---|---|---|
ウィリアム・バティ | イギリス | 収容所に治療効果があると主張(『狂気論』)。隔離治療を提案。 | 1758年 |
ヴィンチェンツォ・キアルージ | イタリア | ボニファツィオ精神病院を開業。治療的収容所の運営規則を明示。 | 1788〜1794年 |
フィリップ・ピネル | フランス | 収容所で心理的治療が可能と主張。鎖を外し、教科書で理論化。 | 1793〜1801年 |
ジャン=エティエンヌ・エスキロール | フランス | ピネルの理論を具体化し、治療的収容所の詳細な運営方法を確立。 | 1802〜1811年 |
まとめ
- 治療的収容所の誕生:
- 18世紀末、収容所が「監禁」から「治療」の場に変わった。これは精神医学の始まり。
- 啓蒙思想の影響:
- 「理性で世界を良くする」という考えが、精神疾患も治せると医者に思わせた。
- 国際的な運動:
- イギリス、フランス、イタリアなどで同時に改革が起きた。資本主義や政府だけが原因ではない。
- 鍵となる人物:
- バティ:収容所が治療に役立つと初めて主張。
- キアルージ:治療的収容所の運営方法を具体的に示した。
- ピネル:収容所での心理的治療を理論化し、現代精神医学の父とされる。
- エスキロール:ピネルのアイデアを具体的なルールに発展させた。
- 誤解を正す:
- ピネルの「鎖の解放」は有名だが、他の医者も同じことをしていた。彼の真の功績は、収容所を治療の場とした理論。
治療的収容所の推進と発展
ジャン=エティエンヌ・エスキロール:ピネルの改革を具体化
- 人物:
- ジャン=エティエンヌ・ドミニク・エスキロール(1772年〜、フランス、パリ)は、19世紀初頭の精神科医。
- 後に「社会的・地域精神医学」の基礎を築いたとされる。
- フィリップ・ピネルの弟子で、ピネルの改革を実際の形にした人物。
- 活動:
- 1817年:医学生向けに精神医学の講義を始める。ピネルのアイデアを広める。
- 1825年:パリ郊外のシャラントン収容所の主任医に就任。この時点で、フランスの地方収容所の改善を10年間訴えていた。
- 治療的コミュニティの導入:
- エスキロールがピネルのアイデアを実践した最大の特徴は、治療的コミュニティ:
- 患者と医者が、収容所内で「コミュニティのメンバー」として一緒に生活する。
- 例:エスキロールの私営クリニック(サルペトリエール向かい、後にイヴリーに移転)では、患者がエスキロール家族と同じテーブルで食事。
- 隔離の効果:
- 患者を外界(家族や友人)から隔離することで、過去の不健全な「情動(感情)」から解放し、治療を促進すると考えた。
治療的収容所の広がりと国際的な違い
- 19世紀の大西洋地域:
- ピネルとエスキロールの「治療的収容所」の考えは、イギリス、フランス、アメリカなど大西洋地域全体に広がった。
- しかし、患者数が急増し、収容所が過密になると、治療効果を維持するのが難しくなった。
- 国際的な違い:
- 国によって、治療的収容所の形や考え方が異なった。以下で詳しく見ていく。
中央ヨーロッパ:ヨハン・ライルの影響
- ピネルの影響が弱い理由:
- 中央ヨーロッパ(特にドイツ)では、ピネルの声はあまり響かなかった。改革の権威であるヨハン・ライルがピネルを好まず、キアルージを支持したため。
- ライルの人物像:
- 18世紀末の啓蒙思想家で、多才な学者(神経解剖学、内科学、後に精神医学)。
- ハレ大学の教授で、刑務所の医者として精神疾患の患者と少し関わったが、実際の患者との接触は少なかった。
- 1803年の著書:
- 『精神異常への心理的治療法の適用に関するラプソディ』(1803年、44歳):
- タイトルはわかりにくいが、力強い文章で書かれた。
- 収容所のひどい状況に驚き、啓蒙思想の精神でこう問う:
- 「他人を救うとき、有名な文化、博愛、コミュニティの精神、市民意識、自己犠牲の精神はどこにあるのか?」
- 医者たちが「自然の学校の生徒」として、患者を助ける勇気とエネルギーを持っていると主張。
- ライルの提案:
- 収容所が治療に最適:
- 精神疾患の人は自宅より収容所で治療する方が効果的。
- 自宅には「浴槽、シャワー、広い空間、治療の補助手段」がなく、収容所にはそれがある。
- 精神疾患に興味を持つ医者が少ないので、医者を収容所に集中させるべき。
- 2種類の収容所:
- 「不治の患者」用と「治せる患者」用。
- 治療プラン:
- 物理療法:身体的な治療。
- 心理療法:視覚を刺激する劇場を収容所に作り、男性患者には売春婦を提供(実際には空想で、実現しなかった)。
- 意義:
- ピネルやキアルージとは異なる、中央ヨーロッパ独自の治療的収容所のモデルを提案。
- ライルは「自由主義的」な精神医学の流れを代表。
中央ヨーロッパ:エルンスト・ホルンの厳格なアプローチ
- 人物:
- エルンスト・ホルン(1806年当時32歳)は、軍医出身でベルリンのシャリテ病院の副院長。
- 1798年、刑務所(精神疾患の人が収容されていた)が火事で焼失し、シャリテに精神科が設立。ホルンがその運営を担当。
- 状況:
- シャリテは軍の教育病院で、プロイセンの軍隊のような厳しい規律が特徴。
- ホルンが着任した時、収容所は「ゴヤの絵のような混乱状態」だった。
- ホルンの改革:
- 厳格な秩序の導入:
- 例:患者が部屋に持ち込む物を制限。
- 着任前:患者は好きな物を部屋に持ち込み、「巣」を作っていた。部屋が散らかり、不衛生に。
- ホルンのルール:「個人の希望を犠牲にして、全体のニーズを優先。部屋を整理し、コミュニティ全体が良くなるようにした。」
- 治療的効果:
- 軍隊式の訓練、厳しいスケジュール、ルールを導入。
- 患者に「生活をコントロールできる感覚」を与え、治療効果を上げた。
- ホルンの伝記によると、「多くの患者が回復して感謝した」。
- 意義:
- ホルンは「権威主義的」な精神医学の流れを代表。厳格な規律が治療に役立つことを示した。
アメリカ:ベンジャミン・ラッシュ
- 人物:
- ベンジャミン・ラッシュ(フィラデルフィアの医者)は、1965年にアメリカ精神医学会から「アメリカ精神医学の父」と認定。
- ペンシルベニア病院の医者。
- 主張:
- 精神疾患の原因は脳にある:
- 1786年:「心の機能の乱れや欠如は、医学の対象。多くの症例が治療で治った。」
- 1812年の教科書:「狂気の原因は脳の血管にあり、他の動脈疾患と同じ異常な動きによる。」
- この考えはヨーロッパの医者と同じで、アメリカ独自ではない。
- 限界:
- ラッシュの治療は、ピネルやエスキロールのような「道徳療法(心理的アプローチ)」とは異なる。
- 1787年の病院訪問者の記録:
- 患者は地下の10フィート四方の牢獄のような部屋に、わらの上に寝て、ほとんど裸で「猛烈に騒ぐ」状態。
- ラッシュの教科書では「患者が空気、光、運動を楽しみ、夏には木陰の散歩道を歩く」と理想的に書いたが、現実は違った。
- 結論:
- ラッシュは「アメリカ精神医学の父」だが、治療的収容所の改革者としては物足りない。
精神医学の誕生とフーコーの誤解
- 共通点:
- バティ、キアルージ、ピネル、エスキロール、ライル、ホルン、ラッシュは、収容所を治療の場とする新しい精神医学を築いた。
- フーコーの主張への反論:
- フーコーは、精神医学が「資本主義と中央政府の悪魔的な同盟」で生まれ、逸脱者を閉じ込めて労働規律を植え付けたと主張。
- 反論:
- バティ(ロンドン)やラッシュ(フィラデルフィア)は資本主義の中心地にいたが、キアルージのフィレンツェ(資本主義が弱い)やライルのハレ(経済的に遅れた地域)でも改革が起きた。
- レオポルド大公(トスカーナ)は「国家拡大」の意図を持たず、伝統的な啓蒙専制君主だった。
- ピネルとエスキロールは私営クリニックの経験が大きく、民間セクターで精神医学が生まれた。これはフーコーの「政府主導の監禁」と矛盾。
- 私営クリニックは、中産階級や貴族が自らお金を払って家族を預けた。フーコーの「大規模な監禁」は当てはまらない。
他の学説への反論
- 「専門化」説:
- 一部の学者は、精神科医が富と権力を得るために精神医学を「専門職」にしたと主張。
- 確かに、バティのような医者は私営クリニックで大金を稼いだ。
- しかし、精神医学が独自の学問として確立したのは、治療への自信の表れであり、単なる権力欲ではない。
- 精神医学の特徴:
- 精神科医は「精神の疎外(alienation)」を扱う「エイリアニスト(alienist)」と呼ばれた(20世紀まで)。
- ライルが求める精神科医の資質:
- 「洞察力、観察の才能、知性、善意、持続性、忍耐、経験、威厳ある外見、尊敬を呼び起こす表情。」
- これらは「まれで、収容所のスタッフを揃えるのが難しい」。
- 「精神医学(Psychiatrie)」の誕生:
- 1808年、ライルが「Psychiaterie」を作り、1816年に「Psychiatrie」と短縮。精神医学という言葉が生まれた。
精神医学の科学的地位
- ジョン・フェリア(マンチェスター収容所の主任医、1810年):
- 狂気の症状を理解するには、ギリシャの医学書(アレタイオス)よりシェイクスピアのような文化や人間性の理解が必要。
- 精神疾患を狭く定義する医者も、逆に「一時的な感情の過剰」をすべて狂気とする医者も誤り。
- 精神医学は、文化と性格を理解する特別な学問。
- 結論:
- 18世紀末、精神医学は「心の医学としての科学」として生まれ、化学や解剖学と同じくらい複雑な芸術と科学とされた。
- 収容所を治療的に運営することは、精神科医の正当な専門性だった。
補足:ポイント整理
人物 | 国 | 主な貢献 | 特徴 |
---|---|---|---|
エスキロール | フランス | ピネルの治療的コミュニティを実践。隔離と共同生活を重視。 | 患者と家族が一緒に食事するクリニックを運営。 |
ライル | ドイツ | 収容所が自宅より治療に適すると主張。劇場や物理療法を提案。 | 啓蒙思想の自由主義的なアプローチ。 |
ホルン | ドイツ | 軍隊式の規律で収容所を改革。秩序が治療効果を上げる。 | 権威主義的なアプローチ。 |
ラッシュ | アメリカ | 脳が精神疾患の原因と主張。アメリカ精神医学の父。 | 実際の治療はヨーロッパの改革に及ばず。 |
まとめ
- 治療的収容所の広がり:
- ピネルとエスキロールのアイデアが大西洋地域に広まり、収容所が治療の場に変わった。
- エスキロールの改革:
- 患者と医者が「家族のよう」に生活する治療的コミュニティを導入。隔離が治療に役立つと考えた。
- 国際的な違い:
- ドイツではライル(自由主義的、劇場などの空想的な提案)やホルン(軍隊式の厳格な規律)が独自の改革を進めた。
- アメリカのラッシュは脳を重視したが、治療的収容所の改革はヨーロッパほど進まなかった。
- フーコーの誤解:
- 精神医学が「資本主義や政府の陰謀」で生まれたというフーコーの説は、事実と合わない。民間クリニックやさまざまな地域での改革が鍵だった。
- 精神医学の誕生:
- 精神医学は「心の科学」として生まれ、特別な資質や文化の理解が必要な学問に。ライルが「Psychiatrie」という言葉を作った。
治療的収容所の運営
治療的収容所の2つの柱
治療的収容所の創始者たちは、収容所での生活が治療に役立つと考え、2つの要素を重視しました:
- 環境そのもの:
- 整然とした日課やコミュニティの精神が、患者の心を安定させる。
- 医者と患者の関係:
- 特に「道徳療法(moral therapy)」と呼ばれる特別な関わり。
- これにより、伝統的な「狂人収容所」とは全く異なる新しい収容所が生まれた。
18世紀の考え:落ち着いた環境の重要性
18世紀の医学書では、狂気は「神経の過剰な刺激」から来るとされていました。そのため、穏やかな環境が必要とされました。
- ウィリアム・バティのアイデア:
- 収容所では「中庸(バランス)」を目指す:
- 「乱暴な欲求は抑え、固執した考えは可能な限り変える。」
- 患者の体や部屋は清潔に保ち、食事は軽く、「アルコールや濃い味付けは避ける」。
- 「適切なタイミングの多様な娯楽」は、長すぎず、刺激が強すぎないように。
- 収容所は「休息の家」のような場所であるべき。
- 自己コントロールの強化:
- 患者が自己管理できるようになることが治療に役立つ。
- ジョン・フェリア(マンチェスターの収容所医):
- 収容所のルールは、患者が「自分で自分を管理」できるようにする。
- 「穏やかだが厳格な規律」で、痛みや恐怖を与えず、患者に「制約」を感じさせる。
- 効果:「家から離れると、制約を感じることで患者は早く回復する。家では過剰な注意が病気を悪化させるが、知らない人の中で自分の力を発揮する必要があり、それが回復の第一歩になる。」
- 希望と不安の管理:
- 患者の「希望」を引き出し、「不安」を抑えることが重要。
- 小さな親切、信頼の態度、特別扱い(例:褒める)が回復を早める。
収容所を「癒しの施設」に変える
ヨハン・ライルは、収容所を「癒しの施設」にする方法を提案:
- 名前:
- 「神経患者のためのペンション」や「心理的癒しの病院」など、優しい名前を使う。
- 立地:
- 小川や湖、丘や畑に囲まれた心地よい場所。
- 管理棟を中心に小さなヴィラを配置。
- 環境:
- 窓に鉄格子はなし。
- 精神疾患の患者は独特な「匂い」を持つ(とライルは考えた)ので、表面は清潔に保てる素材に。
- 浴槽や「魔法の寺院」(癒しの空間)、注意力を使う運動の場を設ける。
- 意義:
- ライルのビジョンは空想的だったが、後に裕福な都市の家族向けにこうした施設が実際に作られた。
中央ヨーロッパ:秩序ある収容所
中央ヨーロッパ(ドイツ)の収容所は、秩序が治療の鍵でした。
- エルンスト・ホルン(シャリテ病院、ベルリン):
- 患者のために時間ごとのスケジュールを作成(当時は珍しい):
- 5〜6時:起床、洗顔、朝食。
- 6〜7時:患者の理解に合った宗教的な文章を読み聞かせる。
- その後:木を切る作業、軍隊式訓練、絵画や地理の授業、夕方(天気が良ければ)はボウリングで小さな賞品。
- 哲学:整然とした生活が患者の心を回復させる。
フランス:ピネルとエスキロールの日課
- フィリップ・ピネル:
- 患者の1日を「仕事」で構造化することが治療に役立つと主張。
- エスキロール(ピネルの弟子):
- 私営クリニックの経験を基に、日課そのものが治療になると発展させた。
- 1816年の言葉:
- 「躁病の患者は、収容所の調和、秩序、ルールに抑えられ、衝動を抑え、奇抜な行動を減らす。」
- 「騒音や混乱から離れた穏やかな環境、仕事や家庭の問題からの精神的な休息(repos moral)は回復に非常に良い。秩序ある生活、規律、適切な日課に服することで、患者は生活の変化を考えるようになり、他人と上手く振る舞う必要性や仲間と暮らす経験が、失われた理性を回復する強力な助けになる。」
- ポイント:エスキロールは、バティの「中庸」の考えに似たアイデアを実践(ただし、バティの影響は受けていない)。
道徳療法(Moral Therapy)の登場
収容所の2つ目の大きな変化は、薬や物理的な処置に頼らない治療の導入、つまり心理療法の始まりです。
- 道徳療法とは:
- ピネルの1801年の言葉「le traitement moral」(フランス語で「精神的な治療」の意味)に由来。
- 医者と患者の特別な心理的関係を使って、患者を回復させる。
- 歴史的背景:
- 心理的な介入は新しいものではない。昔から医者は患者の心に働きかけた。
- 例:17世紀の劇作家モリエールの『恋の医者』で、医者が「言葉、音、文字、護符」で治療すると語る。
- 18世紀のイギリスでは、「道徳的管理(moral management)」が心理的医学に広がっていた(歴史家ロイ・ポーター)。
- フランスでは1750年以降、「心の医学(la médecine de l’esprit)」に関する著作が急増。
- ライルも、古代から続く「心理的治療法」の歴史を認識していた。
道徳療法の先駆者
18世紀末の精神科医たちは、これらの心理的技法を収容所で体系化し、正式な心理療法を始めた。
- ヴィンチェンツォ・キアルージ(フィレンツェ、ボニファツィオ収容所):
- 1793年、うつ病(メランコリー)の治療について:
- 「本当のメランコリーでは、悲しみや恐怖と正反対の『希望』を促し、励ます必要がある。これが患者の身体的・精神的な状態を変える助けになる。」
- 「新しい感情は自然に引き出すべきで、患者の抵抗や反発を起こさないように。」
- 意義:キアルージは、医者が患者に直接心理的に働きかける道徳療法を初めて実践。
- ウィリアム・トゥケとヨーク・リトリート(イギリス):
- 1796年、クエーカー教徒の茶商人ウィリアム・トゥケが、ヨークにリトリートを設立。地元のクエーカー患者のための優しいケアを目指した。
- 医監がいたが、ケアの方針は主に非医者のクエーカーたちが作った。
- サミュエル・トゥケ(ウィリアムの孫、商人)の1813年の報告:
- 「賢明な親切は、患者の感謝と愛情を引き出す。」
- 親切が患者に「治療の足がかり」を与え、回復への道を開く。
- 影響:
- 当時の精神疾患は「躁病」と「メランコリー」の2つに分けられ、単純な信念(意志の力で治る)は素朴だったが、大きな影響を与えた。
- 非医者が書いたこの報告は、精神医学史で最も有名な文書の一つ。
- ピネルとプッサン夫人(フランス):
- ピネルはヨーク・リトリートやトゥケを知らなかったが、1793〜1795年にビセートルでプッサン夫人(管理者の妻)の行動を見た:
- 「彼女は最も激しい躁病患者に近づき、慰めの言葉で落ち着かせ、拒否していた食事を食べさせた。ある日、食事を拒む患者が彼女を罵倒したが、彼女は患者の妄想に合わせて踊り、話しかけ、笑顔を引き出し、食事させることで命を救った。」
- ピネルの気づき:
- 啓蒙思想の哲学や心理学の議論に影響され、「患者に希望を与える」鍵は「信頼を得ること」と結論。
- 「患者は普段、考えを隠す。医者が友好的な態度と率直な口調で接することで、秘めた思いを探り、不安を解消し、他人との比較で矛盾を解決できる。」
- 意義:
- ピネルの1801年の著書は、道徳療法を広め、収容所の治療的運営の標準に。
道徳療法の普及と評価
- ライルの心理療法:
- ライルも独自の心理療法を提案したが、実際の患者経験がなく、理論的で影響は限られた。
- ジョン・ハスラム(ベドラムの医者):
- ピネルの「威厳ある態度や雷のような声」を皮肉ったが、道徳療法の重要性を認めた:
- 「患者の性格や狂気のポイントを理解する時間と注意が必要。信頼を得るには、穏やかな態度、患者の話への注意、話の真実を認める姿勢で十分。」
- 道徳療法の意義:
- 医者と患者の信頼関係が、治療の鍵。これが道徳療法の核心。
- 18世紀末、収容所の医者たちは、薬や瀉血だけでなく、心理的アプローチが必要と気づいた。
- なぜ必要だったか?:
- 患者がわらや排泄物の中で暮らす環境より、活動的で励まされる環境が回復に役立つのは明らか。
- 医者の優しい言葉や関心が、患者の心に響くのは昔から変わらない。
- 驚くべきこと:
- 道徳療法の発見自体ではなく、後に収容所から完全に失われたこと。
補足:ポイント整理
人物 | 国 | 貢献 | 特徴 |
---|---|---|---|
バティ | イギリス | 穏やかな環境と自己コントロールを重視。 | 収容所を「休息の家」に。 |
フェリア | イギリス | 規律と希望の管理が回復を早めると主張。 | 家から離れることで患者が自制心を得る。 |
ライル | ドイツ | 癒しの施設を提案(優しい名前、心地よい立地)。 | 空想的だが先見性あり。 |
ホルン | ドイツ | 時間ごとのスケジュールで秩序を導入。 | 整然とした生活が治療に。 |
エスキロール | フランス | 日課そのものが治療と主張。 | 秩序と隔離が理性を回復。 |
キアルージ | イタリア | 道徳療法を初めて実践(希望の促進)。 | 心理的介入を体系化。 |
トゥケ | イギリス | ヨーク・リトリートで親切なケアを導入。 | 非医者の視点で大きな影響。 |
ピネル | フランス | 道徳療法を理論化。信頼が鍵。 | プッサン夫人の行動から学ぶ。 |
まとめ
- 治療的収容所の2つの鍵:
- 環境:整然とした日課や穏やかな空間が、患者の心を安定させる。
- 道徳療法:医者と患者の信頼関係で、言葉や親切が心に働きかける。
- 新しい考え:
- 昔の「狂人収容所」は監禁だけだったが、新しい収容所は「癒しの場」に。
- 患者が自己コントロールを学び、希望を持つことが回復につながる。
- 具体例:
- バティやエスキロールは、秩序ある生活や隔離が治療に役立つと。
- ライルは心地よい施設を提案、ホルンは軍隊式のスケジュールを。
- キアルージやピネルは、患者の心に直接働きかける道徳療法を始めた。
- トゥケのヨーク・リトリートは、親切が治療の鍵と示した。
- なぜ重要?:
- 患者が汚い環境で暮らすより、活動的で励まされる環境が明らかに良い。
- 医者の優しい言葉や信頼が、患者の心を癒す。
- 驚くべき事実:
- 道徳療法が後に収容所から消えたこと。こんな良いアイデアがなぜ失われたのか?
神経疾患と非精神科医
軽度の精神疾患:神経疾患とは?
重い精神疾患(例:統合失調症)が人類と共にあるように、軽度の精神疾患(例:不安、ノイローゼ、強迫行動)もずっと存在してきました。これらは患者本人には「軽度」とは思えないほどつらいものです。
- 呼び名:
- 18世紀以降、これらは「神経疾患(nervous illnesses)」と呼ばれた。
- 最近では「ノイローゼ」や「心理神経症(psychoneurotic disorders)」と呼ばれる。
- 歴史的な名前:
- 古代ユダヤ人は「恋の病」で人がやせ細ると考えた。
- 16世紀:ヒステリー。
- 18世紀:神経(nerves)。
- これらの言葉は曖昧で、どんな症状も含むことができた。
- 例:
- 1774年、エルランゲン大学の医学教授ヤコブ・イゼンフラムは、ヒステリーやヒポコンドリー(過度な健康不安)が致命的になると論じた。
神経疾患は精神医学の領域ではなかった
当時、神経疾患は精神医学の扱う病気ではなく、以下のような分野に任されていました:
- 家庭医学(一般の医者)。
- 有機的専門分野(例:神経学)。
- 現代:
- 神経疾患やノイローゼは心理学的医学(精神医学)の中心になり、精神科医の主な仕事に。
- 18世紀末の状況:
- 軽度の精神疾患はどのように扱われていたのか?
スパ(温泉)での治療
神経疾患の治療は、主にスパ(温泉地)の医者が担当しました。ヨーロッパでは、以下のような場所が有名でした:
- イングランド:バース(Bath)。
- スイス:リギ・カルトバート。
- ドイツ:ヴィースバーデン。
- フランス:プロンビエール。
- スパの効果:
- 理論上:温泉の水が心を落ち着かせる。
- 実際:便秘を解消し、患者や医者が「腸が健康なら体も健康」と信じたため。
- スパの歴史:
- 中世盛期(12〜13世紀)に繁栄。
- 近世(17〜18世紀):三十年戦争、木材価格の上昇、梅毒の流行で衰退。
- 1800年頃:歴史的な低迷期。バースは貧しい人の集まる場所になり、かつての栄光を失った。
- それでも:
- 中産階級や上流階級は、原因不明の病気(当時の医学では多くの病気がそうだった)でスパを訪れた。
- ドイツのドベラン(メクレンブルク)、ネンドルフ(ハノーファー近郊)、テプリッツ(ボヘミア)は神経疾患に特に良いとされた。
スパでの神経疾患の例
- アウグストゥス・ボッツィ=グランヴィル(ミラノ出身、1813年にロンドンに移住した医者):
- 1830年代、ドイツのスパを巡り、多くの神経疾患を目撃。
- ヴィースバーデン:
- ヒポコンドリー(過度な健康不安)の患者に最適。
- 「彼は暗く、物思いにふけり、周囲の笑い声の中でも不在。自分の運命や病気にこだわり、軽い会話も避け、スパで簡単にできる知り合いを嫌う。そんな人物をヴィースバーデンやガシュタイン、カルルスバート、テプリッツで見た。」
- バート・タイナハ(Bad Teinach、ヴュルテンベルク):
- 酸性の水が痛風やリウマチ、さらには「狂気の患者」の治療に良いとされた。
- グランヴィルが訪れた時、ヒポコンドリーやメランコリー(うつ)の患者が治療中だった。
- ポイント:
- スパの医者は精神医学の知識が必要だったが、精神科医とは名乗らなかった。
- 「明白な狂気」の患者はスパには勧められなかったが、実際には多くの人が訪れ、スパの管理に問題を引き起こした。
スパ以外の治療:社交界の神経医
スパ以外では、社交界の医者が裕福な神経疾患の患者を診ました。
- ロンドンの例:
- 18世紀、王立医師会のメンバーやフェローが神経疾患を担当。
- 1860年代以降、ハーレイ街やウェストエンドに集まるが、18世紀にはすでに「社交界の神経医」が存在。
- 代表例:ジョージ・チェイン(1671年〜、スコットランド出身):
- エディンバラで学び、1701年頃ロンドンで社交界の診療を始める。
- 若い貴族や「自由な生活者」と交流し、人気者に。
- 長年の居酒屋での豪華な夕食で太り、息切れや痛風に悩む。
- バースで治療を受け、気に入り、冬はバース、夏はロンドンで過ごす。
- 1733年の著書『イングリッシュ・マラディ(English Malady)』:
- 「神経疾患」を、神経自体の物理的な病気(「天然痘や発熱と同じ」)と定義。
- 「神経疾患は、人生のあらゆる苦しみの中で最も悲惨で、比べ物にならないほどひどい。」
- 影響:
- 患者はこの「心ではなく体の病気」という説明を愛した。
- チェインは「非常に評判が高く、著名な医者や人物と親しかった」。
- 現代との比較:
- 200年後のメニンジャー兄弟(アメリカの精神科医)と同じ患者を診たが、チェインは「狂気」とは無関係とされ、メニンジャーは精神科医として有名。
他の社交界の神経医
チェインの後に多くの医者が続いた:
- チャールズ・ペリー(オックスフォード卒、1755年):
- 「ヒステリー」を「神経の病気」とし、「分泌や排泄のエラー」が原因と主張。
- 「何百万もの女性がヒステリーに悩んでいる。長年の診療で多くのヒステリー患者を診て、近年は特に顕著な症例を治療し、驚くべき成功を収めた。」
- ポイント:ペリーは自慢しているかもしれないが、スパ療法やプラセボ治療で神経疾患を軽減できた証拠は多い。
- ピエール・ポム(フランス、1763年):
- アルル出身、パリで成功し、国王の医療顧問に。
- 「ヴェイパー(vapours)」を広める(イギリスですでに知られていた)。
- 患者は「うつ、疲労、痛み、鈍さ、悲しみ、メランコリー、落胆」に悩む社交界の人々。
- 治療:チキンスープや冷水浴。
- ジョセフ・ダカン(シャンベリ、1787年):
- シャンベリ(当時はサヴォイ公国)の医者。
- 裕福な女性患者の悩みを「ヴェイパー」に帰し、「子宮から来る神経の病気で、脳の機能を乱す」と説明。
- 「柔らかく座りっぱなしの生活」をする女性に多いとされ、かなり重い病気のように聞こえるが、「狂気」とは見なさず、家族は自宅で管理。
- 別の役割:
- ダカンはシャンベリのホスピス(オテル・デュー)の医長で、貧しい「狂気」の患者を診ていた。
- しかし、裕福な患者の「神経」と貧しい患者の「狂気」を厳密に分け、ホスピスの精神科業務を公には宣伝しなかった。
精神医学の範囲と非精神科医の役割
- 18世紀の精神科医(エイリアニスト):
- 精神医学が扱うのは、重い精神疾患(例:収容所に入るような狂気)だけ。
- 現代の精神医学がカバーする幅広い疾患(不安、うつ、強迫など)の多くは、精神科医の領域外だった。
- 非精神科医の役割:
- スパの医者や社交界の神経医が、軽度の精神疾患を扱った。
- 彼らは「狂気」と関わることを避け、「スパ医」や「神経医」として活動。
- しかし、実際には重い精神疾患の患者も診ることがあり、家族が「体の病気」と見せたがるため。
- 結論:
- 精神医学の誕生には、スパ医や社交界の神経医も関わっていた。彼らは「狂気」とは名乗らなかったが、精神医学の一部を担った。
補足:ポイント整理
人物 | 地域 | 役割 | 主な主張・治療 |
---|---|---|---|
ボッツィ=グランヴィル | ドイツ(ロンドン在住) | スパでの観察 | ヴィースバーデンやタイナハでヒポコンドリーやメランコリーを治療。 |
チェイン | イギリス | 社交界の神経医 | 「神経疾患」は体の病気。バースで治療、著書で人気。 |
ペリー | イギリス | 社交界の神経医 | ヒステリーは神経の病気。多くの女性を成功裏に治療。 |
ポム | フランス | 社交界の神経医 | ヴェイパーを治療。チキンスープや冷水浴を推奨。 |
ダカン | シャンベリ | 神経医+ホスピス医長 | 裕福な女性のヴェイパーと貧しい患者の狂気を分け、精神科業務を公にしない。 |
まとめ
- 神経疾患とは:
- 不安やうつ、強迫などの「軽度の精神疾患」。昔は「ヒステリー」「ヴェイパー」などと呼ばれた。
- 患者にはつらいが、「狂気」とは違い、収容所行きではない。
- 誰が治療した?:
- 18世紀末、精神科医ではなく、スパの医者や社交界の神経医が担当。
- スパ(例:バース、ヴィースバーデン)は便秘解消やリラックス効果で人気。
- 神経医(例:チェイン)は、裕福な患者の「神経」を体の病気として治療。
- 精神医学との関係:
- 精神科医(エイリアニスト)は重い狂気だけを扱い、軽度の疾患はスパ医や神経医が担当。
- しかし、実際には神経医も重い患者を診ることがあり、精神医学の誕生に間接的に貢献。
- なぜこうなった?:
- 家族は「狂気」の汚名を避けたかったので、「神経の病気」として扱う医者を求めた。
- 神経医は「狂気」と関わらないと公言したが、精神医学の一部を担った。
生物学的精神医学へ
精神医学の二つの視点
精神医学は、精神疾患について二つの異なる視点に引き裂かれてきました:
- 神経科学(生物学的視点):
- 脳の化学、構造、薬に焦点を当てる。
- 精神的な苦しみの原因を脳の生物学(大脳皮質)に求める。
- 心理社会的視点:
- 患者の社会的問題や過去のストレスが症状の原因と考える。
- 人々がストレスにうまく適応できない場合に精神疾患が起きるとする。
- 共通点:
- どちらも心理療法を重視する。ただし、心理療法はどちらか一方の独占ではない。
- 対立点:
- 両方の視点は同時に正しいとは言えない。
- 例:うつ病は神経伝達物質の生物学的な不均衡(ストレスで引き起こされる場合も)か、無意識の心的プロセス(心理的な原因)のどちらか。
- どの視点が精神医学で優勢かは、治療の方向性に大きく影響する。
精神医学の始まり:生物学的視点が優勢
精神医学の歴史の最初からこの二つの視点は存在しましたが、生物学的視点が主流でした。
- 創始者の考え:
- エスキロール(彼の「情動」に関するロマンチックな理論を除く)を除き、創始世代の精神科医は、精神疾患の原因を脳に求め、精神医学は神経学とほぼ同じと考えた。
- ウィリアム・バティ(1758年):
- 精神疾患を、ライデンの臨床医ヘルマン・ブールハーフェの理論(「体液」ではなく「固体」の病理を重視)に基づいて説明。
- 筋肉の「痙攣」が脳の血管の「緩み」を引き起こし、血管の「閉塞」や神経の「圧迫」を招き、錯覚や不安を生む。
- 「神経の弱さ」が文字通り存在すると考えた。
- 証拠はなかったが、「狂気は人類を悩ませる最も理解されていない病気」と認め、研究を求めた。
- 治療:悪臭の植物製剤(アサフェティダ)やムスクなどの「抗痙攣薬」。
- ヴィンチェンツォ・キアルージ:
- 精神疾患は「脳(神経系の主要部分)の慢性的で原因不明の病気」と定義。
- 患者の解剖を行い、感染症(収容所で感染したものが多い)による脳の病変を頻繁に発見。
- ベンジャミン・ラッシュ:
- 「狂気の原因は脳の血管にある。狂気は他の病気(特に発熱)と同じで、脳の『心の座』を侵す慢性の形。」
- 精神疾患に特別な点はないと考える。
- フィリップ・ピネル:
- ドイツの医者ヨハン・グレーディングの解剖(精神疾患患者の脳病変探し)を評価したが、対照群がない点を批判。「正常な人にも同じ脳の変化があるかもしれない。」
- ピネルとラッシュは脳について簡潔にしか書かず、生物学的精神医学の先駆者とは言えない。
- ヨハン・ライル:
- 脳の生物学が狂気の原因と強く主張し、生物学的精神医学の最初の先駆者。
- 「刺激性(irritability)」の理論(18世紀の生理学者アルブレヒト・フォン・ハラーやジョン・ブラウンに基づく):
- 脳の物質の過剰な刺激性を抑え、停滞した神経を活性化することで、脳の「心の器官」のバランスを回復し、妄想を消す。
- 治療:
- 道徳療法に加え、物理療法(温熱、体のなでる動作、赤熱した鉄やマスタード湿布による「対刺激」)。
- ポイント:
- 創始者たちは、患者の苦しみの激しさ、幻覚の奇妙さ、身体全体の変化から、脳が関与していると直感。
- 後の世代はライルの仕組み(刺激性)を捨て、頭蓋骨学(phrenology)や他の理論を採用したが、19世紀末にはそれも捨てられた。
- 重要なのは、創始者たちが精神疾患に有機的(生物学的)な原因があると信じたこと。
遺伝の重視
創始者たちは、遺伝も精神疾患の原因として重視し、後の生物学的精神医学を予見しました。
- 遺伝の認識:
- 重い精神疾患は特定の家系に集まる傾向があり、患者の親族を知る医者はすぐ気づいた。
- 例:16〜18世紀のチューリッヒでは、シュミット家のメランコリーや自殺の傾向が「血筋」とされ、「遺伝性の病気(malum hereditarium)」という言葉が使われた。
- 家族は遺伝子だけでなく、社交パターンも伝えるため、集まりが遺伝の証拠とは限らないが、医者たちの思考の材料に。
- バティ(1758年):
- 遺伝を狂気の「主要な」原因とし、「狂気の祖先から来た家系は、遺伝性の狂気に注意が必要」と警告。
- ジョン・ハスラム(ベドラム、1809年):
- 「親の一方が狂気なら、子も同様になる可能性が高い。」
- 例:R.G.の家系:
- 祖父は狂気、祖母の家系は正常。父は時折メランコリーで一度発狂。母の家系は正常。父の兄弟は狂気で死亡。
- R.G.の兄は収容所に、姉妹全員が狂気(3人の末妹は出産後に発症)。
- ピネルとエスキロール:
- 脳病変には少ししか触れず、遺伝について長く書いた。
- ピネル:「何世代にもわたり特定の家系のメンバーが躁病になる例を見れば、遺伝を認めざるを得ない。」
- エスキロール:
- サルペトリエールの482人のメランコリー患者のうち110人、私営収容所の264人の裕福な患者のうち150人が遺伝が原因。
- 「遺伝は狂気の最も一般的な素因。」
- ライルとキアルージ:
- ライル:精神疾患への「素因(Anlage)」。
- キアルージ:両親が躁病の26歳男性の「精神躁病」を「遺伝的素因」に帰した。
- 結論:
- 創始者たちは、家族に精神疾患の歴史がある人は、そうでない人より発病リスクが高いと確信。
- 遺伝の視点は精神医学の誕生時にすでに存在した。
ロマンチック精神医学
心理社会的視点の登場
生物学的視点(脳や遺伝)に対抗する心理社会的視点は、個人の過去や社会的環境が精神疾患の原因と強調します。
- 登場のタイミング:
- 精神医学の誕生時にはこの視点はなかったが、すぐに現れた。
- 患者の苦しみが生物学だけでなく人間の悩みにも関係すると、医者たちが気づいたため。
- ロマンチック精神医学:
- この視点を持つ医者たちは、後から「ロマンチック精神医学」と呼ばれた(当時は「心理指向(Psychiker)」)。
- 道徳や情動(感情)を重視し、社会環境が情動を制御すると考えた。
啓蒙思想とロマンチック運動の対立
- 背景:
- 18世紀の啓蒙思想:理性や科学を重視。
- 18世紀末〜19世紀初頭のロマンチック運動:感情や感性を重視。
- 精神医学でも、理性(生物学的視点)と情動(心理社会的視点)の緊張が存在。
- 創始世代(例:バティ):
- ジョン・ロックの伝統に従い、狂気を「誤った知覚」や「混乱した観念」と定義。
- ロマンチック世代:
- 人間の魂から湧き出る制御できない情動を狂気の原因と見なした。
ロマンチック精神医学の特徴
- 関心:
- 遺伝や脳の病理には興味がなく、患者の主観的な経験(気持ちや人生の話)に長時間耳を傾けた。
- 例:ベルリンのシャリテ病院(1850年代後半):
- 若い研修医オットー・ブラウの回想:
- 老教授カール・ヴィルヘルム・イデラー(ロマンチック派、精神科主任):
- 「古い時代にとどまり、精神療法の薬局方を使い、精神疾患を体の病気と関係ない独立したものと見なす。患者に妄想の被害者であることやその原因を説明する。退屈な議論を我慢して聞く必要がある。」
- 若い副主任カール・ヴェストファル(生物学派):
- 「この分野に興味があれば、私の本を貸す。解剖(肉眼的・顕微鏡的)に協力してほしい。精神疾患の未来は、診察室だけでなく解剖台や顕微鏡にある。」
- ポイント:
- ロマンチック精神医学が衰退し、ヴェストファルの生物学的視点が優勢になる時期のエピソード。
ロマンチック精神医学の主要人物
- ジャン=エティエンヌ・エスキロール:
- ロマンチック精神医学の最初の主要な支持者(本人はこの呼称を嫌ったはず)。
- 特徴:
- ピネルに忠実で生物学的視点も持つが、心理社会的要因(年齢、性別、職業が精神疾患にどう影響するか)を統計的に分析。
- ドイツのロマンチック派のような重い道徳主義は避けた。
- 意義:
- 精神疾患の原因として生活環境や社会的要因を重視した最初の専門家。
- ヨハン・クリスティアン・ハインロート:
- ドイツ(ライプツィヒ)のロマンチック精神医学の主要人物。エスキロールと親交。
- 人物:
- 1773年生まれ。19世紀初頭の敬虔主義(ピエティズム、プロテスタントの厳格な宗教運動)に影響される。
- ライプツィヒとウィーンで医学を学び、家族の死で神学に転じるが、1805年に医学博士号取得。
- ナポレオン戦争に従軍後、1811年からライプツィヒで精神医学を教え、1827年にドイツ初の「心理療法」教授に。
- 主張:
- 精神疾患は道徳と罪に関連。
- 人の情動が悪を選び、内面的な腐敗を引き起こす。恐怖、苛立ち、失望などの外部イベントが精神疾患を誘発。
- 1823年の『精神衛生教科書』:
- 食、飲酒、睡眠、運動、空気汚染、皮膚の清潔さが精神の健康に影響。
- 「情動は、人生の住処に投げ込まれた燃える石炭、血管に毒を吐く蛇、内臓を食らうハゲタカ。情動に支配されると、人生の秩序が崩れる。」
- 情動への対抗策は「自由」。だが「世界は自由を与えない。神だけが自由にする。」
- 評価:
- 敬虔で説教臭い語り口は同時代人に嫌われた。
- ドレスデンの宮廷医カール・カルス(1817年にハインロートと会う)は、ハインロートのアイデアの貧弱さを彼の結婚の不毛さに帰した。
- ハインロートは忘れ去られそうだったが、後の精神分析批判者がフロイトとロマンチック派を関連づけ、注目された。
- 意義:
- エスキロールの流れを継ぎ、人生の状況と精神疾患を結びつけた最初のドイツ人。
結論
- 精神医学の二極化:
- 精神医学は誕生時から、神経科学(生物学的)と心理社会的の二つの視点に分かれた。
- ロマンチック精神医学は心理社会的視点の初期の形だが、影響力は弱く、19世紀は生物学的精神医学が優勢だった(エミール・クレペリンまで)。
- ロマンチック派の意義:
- ハインロートの道徳主義は時代遅れだが、後の社会問題を重視する精神医学の先駆けとなった。
補足:ポイント整理
視点 | 特徴 | 代表者 | 主張 |
---|---|---|---|
生物学的(神経科学) | 脳の化学や構造、遺伝に焦点。 | バティ、キアルージ、ラッシュ、ライル | 精神疾患は脳の病気。遺伝がリスクを高める。 |
心理社会的(ロマンチック) | 社会環境や過去のストレスに焦点。 | エスキロール、ハインロート | 情動や生活状況が精神疾患を引き起こす。 |
人物 | 国 | 視点 | 主な貢献 |
---|---|---|---|
バティ | イギリス | 生物学的 | 脳の血管の「緩み」が狂気を引き起こす。遺伝を重視。 |
キアルージ | イタリア | 生物学的 | 精神疾患は脳の病気。解剖で病変を発見。遺伝を認める。 |
ラッシュ | アメリカ | 生物学的 | 狂気は脳の血管の病気。遺伝に言及。 |
ライル | ドイツ | 生物学的 | 脳の「刺激性」が狂気の原因。物理療法を提案。 |
ピネル | フランス | 中間 | 脳病変に懐疑的だが遺伝を重視。道徳療法を推進。 |
エスキロール | フランス | 生物学的+心理社会的 | 遺伝を重視しつつ、年齢・性別・職業の影響を分析。 |
ハインロート | ドイツ | 心理社会的 | 情動と罪が精神疾患を引き起こす。道徳と自由を強調。 |
まとめ
- 精神医学の二つの考え方:
- 生物学的:精神疾患は脳や遺伝が原因(例:バティ、ライル)。
- 心理社会的:社会や過去のストレスが原因(例:エスキロール、ハインロート)。
- この二つは同時に正しいとは言えず、どちらが主流かが治療に影響。
- 最初は生物学的が主流:
- 創始者たちは、脳の異常(血管や刺激性)が狂気を引き起こすと考え、遺伝も重視。
- ライルは特に脳の生物学にこだわり、生物学的精神医学の先駆者に。
- ロマンチック精神医学:
- エスキロールが生活環境を重視し、ハインロートが情動や道徳(罪)に注目。
- ハインロートの宗教的な語りは嫌われたが、社会的要因を考える流れの始まりに。
- なぜ重要?:
- 精神医学は最初から二つの視点で議論され、患者の苦しみを脳と心の両方で理解しようとした。
- 19世紀は生物学的視点が強く、心理社会的視点は弱かったが、後の精神医学に影響を与えた。
第2章:収容所の時代
収容所の台頭:善意が裏目に出た物語
収容所の歴史は、良い意図が悪い結果に終わった物語です。
- 失敗の事実:
- 第一次世界大戦(1914年〜1918年)までに、収容所は慢性の精神疾患患者や認知症患者を詰め込む巨大な倉庫になっていた。
- 失敗の原因についての議論:
- 患者数の増加:
- 19世紀に精神疾患患者が急増し、収容所が対応しきれなくなったとする意見。
- 社会的逸脱者の収容:
- 収容された人の多くは精神疾患ではなく、社会に適応できない人や迷惑者(病気ではなく不便な存在)だったとする意見。
- 議論の背景:
- 精神医学の二つの視点が関係:
- 神経科学(生物学的視点):患者数の増加を病気の増加(脳の問題)と見る。
- 心理社会的視点:社会が「異常」にますます不寛容になった結果と見る。
- 著者の立場:
- 患者数の増加が主な原因だが、心理社会的要素もある:
- すでに精神疾患だった人が、家族や救貧院から収容所に移された(「すでに病気だった」ことが重要)。
- 一部の学者は、移された人が「病気ではなく逸脱者」と主張するが、著者はこれに反対。
- 収容所の失敗は、生物学的モデルの失敗ではなく、善意の治療者が患者数の圧力に負けた悲劇。
- 社会構築論者(精神医学の善意が権力獲得の偽装と主張する人々)には完全不同意:
- 収容所の歴史は、進歩的で人道的な志が何度も失望に終わる物語。
収容所の規模の爆発的増加
- 1800年頃:
- 収容所に収容される人はごくわずか。
- 有名な収容所(例:ロンドンのベドラム、パリのビセートル、ウィーンの愚者の塔(Narrenturm))でも、ベッド数は数十〜数百程度。
- 19世紀の変化:
- 患者数が急増:
- 1904年:アメリカの精神病院に15万人(人口1000人あたり約2人)。
- 1891年:フランスに108の収容所。
- 1890年代:ロンドン地域だけで16の収容所(例:コルニー・ハッチ収容所2200床、ハンウェル収容所2600床)。
- 1891年:ドイツ語圏の収容所ディレクトリに、公共収容所202、私営収容所200(アルコール依存、モルヒネ中毒、てんかん、知的障害の施設は別)。
- 結論:
- 100年で、精神疾患患者の収容は「都市でのまれな措置」から「精神病への社会の最初の対応」に変わった。
収容所の意義
- 収容所は、精神医学の実践の物理的な基盤。
- ほぼ同時期に、社会構造や経済発展の異なる国々で設立された。
各国の伝統
アメリカ:分散型と自主性
- 背景:
- 19世紀初頭のアメリカは、広大で分散型の国。
- 公共サービスの提供は自主性(ボランティア精神)に基づく。
- 精神医療の全国的な規制は第二次世界大戦後までなかった。
- 収容所の特徴:
- 設立場所に明確な論理はなく、地域ごとの偶然の取り組みによる:
- 1798年:スプリング・グローブ州立病院(メリーランド州キャトンズビル)。
- 1824年:イースタン州立病院(ケンタッキー州レキシントン)。
- 1825年:マンハッタン州立病院(ニューヨーク市)。
- 地域ごとのニーズや個人のイニシアチブで設立。
イギリス:自主性が主流
- 背景:
- イギリスも自主性が原則で、国家の介入は少なかった。
- 法制度:
- 1808年:郡が収容所を設立する権限を与える法律。
- しかし、精神医療機関の規制は1890年のルナシー法まで地方が担当。
- 特徴:
- アメリカ同様、収容所の設立は中央政府ではなく地方の判断に委ねられた。
ヨーロッパ大陸:中央集権型
フランス:パリからの統制
- 背景:
- フランスは国家医学の伝統:
- 17世紀:総合病院の設立。
- 18世紀:郡の医務官制度。
- 国の医療はパリから指示される極端な中央集権。
- 収容所の設立:
- 19世紀、収容所の設立はトップダウン(中央から地方へ)。
- アメリカのような地域発の自主的な動きとは対照的。
ドイツ、オーストリア、スイス:国家医学の長い伝統
- 背景:
- 国家医学の概念が古く、医療警察(公衆衛生や医療の中央管理)として知られる。
- ヨハン・ペーター・フランク(バーデンの医者)の『医療警察』(1779〜1788年、全4巻):
- 医療管理に精神医学も含まれる。
- フランクは1795年、ウィーンの愚者の塔の患者が運動できるように庭を設置するよう命じた。
- 特徴:
- フランス同様、医療は中央から地方へ管理。
- ドイツの違い:
- 1871年までドイツは39の独立した州の連合で、各州が独自の中央集権的な伝統を持っていた。
- プロイセン(最大の州、オーストリアを除く):収容所設立の先駆者。
- バイエルン:ミュンヘンの有名な医学校があるが、収容所設立は遅れた。
- 小さな州(バーデン、ヴュルテンベルク、ザクセン諸州)は、優れた大学を持ち、精神医学史で大きな役割を果たした。
ドイツが精神医学の世界的リーダーになった理由
- 背景:
- ドイツには20の大学と2つの医学校があり、各州の小さな公国が名誉を競い合った。
- 大学間の競争が科学の進歩を促した。
- 収容所との関係:
- 内務省や教育省が、大学の学者を収容所の運営に結びつけた。
- フランスとの対比:
- フランスは実質的にソルボンヌ(パリ)のみが重要。
- 地方都市の学部はパリに比べ影が薄い。
- パリ以外は「地方(la province)」とひとまとめにされ、重要な科学的キャリアはパリでしか築けなかった(当時も今も)。
補足:ポイント整理
国 | 特徴 | 収容所の設立パターン | 例 |
---|---|---|---|
アメリカ | 分散型、自主性 | 地域ごとの偶然の取り組み | スプリング・グローブ(1798年)、イースタン州立(1824年) |
イギリス | 自主性、地方管理 | 地方が主導、1890年まで中央規制なし | コルニー・ハッチ(2200床)、ハンウェル(2600床) |
フランス | 中央集権、パリ主導 | トップダウン(中央から地方へ) | ビセートル、108の収容所(1891年) |
ドイツ | 中央集権、州ごとの独自性 | 大学と収容所が連携、プロイセンが先進 | 202の公共収容所、200の私営(1891年) |
まとめ
- 収容所の物語:
- 精神疾患を治そうとした善意が、患者数の急増で失敗に終わり、収容所は「倉庫」に。
- 失敗の原因:
- 患者数の増加:精神疾患が増えた(生物学的視点)。
- 社会の不寛容:迷惑者を閉じ込めた(心理社会的視点)。
- 著者は「すでに病気だった人が収容所に移された」と考え、善意が本物だったと信じる。
- 収容所の急増:
- 1800年:少数の小さな収容所(例:ベドラム、ビセートル)。
- 1900年頃:アメリカ15万人、フランス108収容所、ロンドン16収容所、ドイツ400以上。
- 各国の違い:
- アメリカ・イギリス:地域や個人の自主性で収容所を設立。
- フランス:パリがすべてを決め、地方に指示。
- ドイツ:各州が独自に動くが、大学と収容所が協力し、世界をリード。
- なぜ重要?:
- 収容所は精神医学の基盤。国ごとの運営の違いが、精神医学の発展に影響を与えた。
ドイツの州の多さと競争心
- ドイツの状況:
- ドイツは多くの小さな州に分かれていたため、収容所の精神科医たちは互いに競い合った。
- 州の名誉(例:プロイセンの「ゲハイムラート(枢密顧問官)」やオーストリアの「ホーフラート(宮廷顧問官)」などの称号)を欲しがった。
- これらの称号は実質的な意味はほとんどなかったが、医者たちは改革や革新を通じて目立とうとした。
- 結果:
- ドイツの精神科医は、職務への献身を示すために新しいアイデアを試し、改革の物語がドイツで特に強くなった。
- フランスとの対比:
- フランスでは、地方(「プロヴァンス」)で目立つのは無意味だった。パリが全てを支配し、地方での革新はあまり注目されなかった。
共通の高い志
- 世界共通の始まり:
- 19世紀初頭、どの国の精神科医も高い志を持っていた。
- 創始世代(ピネルやライルなど)が唱えた毎日のルール(日課)と道徳療法を導入し、精神疾患を治そうとした。
- 二つのタイプの取り組み:
- 孤立した初期の試み:
- 例:18世紀末のフィレンツェでのキアルージの改革。続かず、広がらなかった。
- 持続的な波:
- 特にドイツで、治療的収容所が勢いを増した。
ドイツの治療的収容所の波
- 始まり:
- 中央ヨーロッパ(特にドイツ)で、1800年代初頭にピネルやライルのアイデアを試す動きが始まった。
- ザクセン王国が最初:
- 政府が、ホスピスの患者と犯罪者を分離することを決定。
- クリスティアン・アウグスト・ハイナー:
- 家庭医だったハイナーをピネルのもとに学びに送り、1806年にヴァルトハイムのホスピスの主任医に任命。
- ヴァルトハイムの状況:
- 「治療可能な精神患者、治療不可能な精神患者、てんかん患者、身体障害者、孤児、犯罪者が混在するカオス」。
- ハイナーの目標:
- 患者を分離、特に治療可能な精神患者と治療不可能な精神患者を分ける。
- 1808年:
- ザクセン政府は、ゾンネンシュタイン要塞を急性疾患の収容所に変える可能性を調査するようハイナーに依頼。
- 1810年:
- ハイナーが提案書を提出。
- 治療可能と不可能の分離の問題:
- このアイデアは賢そうに見えたが、実際は幻想的だった:
- うつ病や躁病、統合失調症の患者は自然に回復(寛解)することが多い(認知症は回復しない)。
- 多くの精神病患者は「治療可能」だったため、分離はあまり意味をなさなかった。
ゾンネンシュタイン収容所の開設
- 1811年:
- 政府がゾンネンシュタイン収容所を開設。
- ハイナーの失望:
- 主任に選ばれたのはハイナーではなく、34歳のエルンスト・ピーニッツ。
- ピーニッツの経歴:
- ハイナーと同じ時期にパリでピネルとエスキロールに学ぶ(ピーニッツがパリで結婚した際、ハイナーとエスキロールが証人に)。
- ウィーンでヨハン・ペーター・フランクに学び、愚者の塔(Narrenturm)で主任の回診に同行。
- 自由主義的で人道的な精神を持っていた。
- ゾンネンシュタインの特徴:
- 治療的収容所の理想を体現:
- ビリヤード室、庭、音楽室(ピアノ3台で2週ごとにコンサート)、読書室(「くだらないフランス小説」はなし)。
- 治療法:
- 水治療(浴槽)。
- 患者を殴らない信頼できるスタッフの確保。
- ピーニッツは外科医や牧師と回診し、あらゆる不満に対応。
- 結果:
- ゾンネンシュタインは「新しい精神医学の昇る太陽」と称され、ピーニッツは後に「名誉枢密医療顧問官」に。
- 私営収容所:
- 1811年頃、ピーニッツは自宅で患者を受け入れ、近くのピルナに20床の私営収容所を設立(ドイツで3番目)。
- 大西洋地域の改革派精神科医は、私営施設を臨床の拠点とした。
プロイセンの改革:ジークブルク収容所
- 背景:
- ラインラント(プロイセン領)でも、ザクセン同様、介入主義の官僚が精神医学を健康改革の手段と見た。
- 1805年:
- 官僚はヨハン・ランゲルマンのバイロイト収容所改革を支持。
- ナポレオン戦争後(1815年):
- プロイセン教育相カール・フォン・アルテンシュタインが、ピネル・ライルの改革をプロイセン全体に適用するためランゲルマンを起用。
- ジークブルクの計画:
- ボンから馬車で2時間の旧修道院を、治療可能な精神患者のためのモデル病院に変える。
- マクシミリアン・ヤコビを主任医に任命。
- ヤコビの経歴:
- 1820年当時45歳。エディンバラなど進歩的な環境で学び、バイエルンの州医療サービス再編で名を上げた。
- 州医療に嫌気が差し、精神医学に転向。
- 1820年:
- ドイツの8つの収容所を視察。
- 1825年:
- ジークブルク収容所が開設。
- ジークブルクの特徴:
- ヤコビは創始世代の教え(秩序ある日課と医者の心理的影響)を忠実に実行。
- 1834年の著書:
- 収容所の運営について書き、多くの言語に翻訳され、遠方から医者が視察に訪れた。
- 収容所を「精神疾患に関連する有機的疾患の治療に特化した病院」と定義。
- 治療法:
- 薬に加え、浴槽、電気、ガルバニズム(電気刺激)、食事、健康な空気、適切な温度、患者の活動。
- ヤコビの治療例:ハインリヒ・N:
- 39歳の屈強な農夫。周期的な精神病発作(数週間で回復、次の発作まで正常)。
- 治療:
- 標準的な医療:瀉血、下剤。
- 非医療的アプローチ:
- 食事の管理、信頼を得るための対話、脈を取るなどの身体的接触、交渉。
- 発作で暴れ、排泄物を塗る行動に対し、拘束具や隔離室を警告。
- 患者は「拘束しないなら穏やかに清潔にする」と約束し、実行。数日後、回復へ。
- 恐怖の原因:
- ハインリヒが「焼き殺される恐怖」を語る。過去に発作時に納屋で鎖につながれ、藁のベッドに寝かされ、頭上にランプが。火花で燃える恐怖が続いた。
- 意義:
- 伝統的な拘束や体液調整もあったが、医者と患者の関係や日課の秩序を治療に活用する改革派のアプローチ。
- ジークブルクの黄金時代:
- ヤコビの在任中(1858年死去まで)。1855年に「ゲハイムラート」に。
- カール・ペルマン(元ジークブルク助手、後に別の収容所の監督)の回想:
- 「昔は良かった。書類に何時間も費やす今と違い、患者に時間を割けた。ジークブルクは家族のようで、医者の家族に悲劇があれば、興奮病棟の患者も静かにする義務を感じた。」
- 家族的な雰囲気でドイツの改革派収容所が始まった。
フランス:改革はパリにとどまる
- フランスの状況:
- エスキロールの影響はパリに限定。
- 地方の収容所は監獄より少しマシな管理施設にとどまり、進歩的なエネルギーや実験はなかった。
- ドイツとの違い:
- ドイツ:
- 分散型で「全てが地方」。ジークブルクやゾンネンシュタインのような革新の中心が生まれ、小さな州の誇りに。
- フランス:
- 中央集権でパリが全て。地方は「広大な砂漠」。
- エスキロールや内務省の官僚は地方にあまり関心がなかった。
- 歴史家ジャン・ゴールドスタイン:
- 「エスキロールは、狂気の治療に関する専門知識は全てパリにあり、治療の改善はパリの知識を地方に輸出する形になると考えた。」
- エスキロールの功績:
- 1825年:
- シャラントン収容所の主任医に(国が紹介する患者と家族が支える患者を受け入れ)。
- 国際的な評判を獲得。
- 改革:
- 女性患者用の清潔な新棟を建設し、治癒率が上がったと主張。
- 私費患者用:
- 「社交的なゲーム、音楽、ダンスを楽しむサロン」、ビリヤード、散歩用の庭。
- 男性は日帰り外出可(女性は単独外出不可)。
- 無料患者用:
- 専用の庭と活動(女性は縫製、男性は軍隊式訓練)。
- シャラントンの治療効果:
- 「心地よい立地、穏やかで進歩的な管理、医者の熱意、十分なケア、全体の雰囲気」が精神疾患を治療可能にしたとエスキロール。
- 限界:
- フランスでは、シャラントンだけが治療的。
- エスキロールは地方の86県に改革を広げようとしたが、官僚の惰性や政治的抵抗で失敗。
- 弟子(例:ルーアンのサン・ヨン収容所のアシル・ルイ・フォヴィル)を地方に送ったが、地方はドイツに大きく遅れた。
補足:ポイント整理
国 | 収容所 | 主任医 | 特徴 |
---|---|---|---|
ドイツ(ザクセン) | ゾンネンシュタイン(1811年) | エルンスト・ピーニッツ | ビリヤード、音楽室、庭。水治療と信頼できるスタッフ。「新しい精神医学の太陽」。私営収容所も設立。 |
ドイツ(プロイセン) | ジークブルク(1825年) | マクシミリアン・ヤコビ | 秩序ある日課、医者との信頼関係。浴槽、電気、食事、運動。1834年の著書で国際的影響。家族的な雰囲気。 |
フランス | シャラントン(1825年〜) | エスキロール | 清潔な棟、サロン、庭、活動。パリで成功したが、地方には広がらず。 |
まとめ
- ドイツの競争:
- 多くの州が名誉を競い、収容所の医者が改革を進め、ドイツが精神医学の中心に。
- フランスはパリだけが重要で、地方の改革は進まなかった。
- 共通の目標:
- どの国の精神科医も、ピネルやライルの日課と道徳療法で患者を治そうとした。
- ドイツの成功:
- ゾンネンシュタイン(1811年):ピーニッツが音楽や水治療で治療的収容所を実現。
- ジークブルク(1825年):ヤコビが医者と患者の信頼関係や活動を重視し、国際的なモデルに。
- 家族のような雰囲気で患者を支えた。
- フランスの限界:
- エスキロールはシャラントンで清潔な環境や活動を導入したが、パリ以外には広がらず。
- 地方は監獄のような収容所のまま。
- なぜ重要?:
- ドイツの改革は、精神疾患を治すための新しい方法を世界に示した。
- フランスの停滞は、中央集権の限界を映し出す。
フランスの収容所改革:遅れと限界
- 1838年の法律:
- フランスの官僚がついに、全国の収容所を管理する法律を作った。
- 内容:
- 収容の手続きを簡略化(事前の裁判所の命令を不要に)。
- 全国に収容所のネットワークを広げる目標。
- 焦点:
- 道徳療法(医者と患者の信頼関係や優しい対応)は重視されず、議会でもほとんど話題に上らなかった。
- 結果:
- 50年後(1880年代)でも、フランスの多くの地域には公立の収容所がなく、患者は古びた私営収容所(倉庫のような場所)に送られた。
- 1838年の法律で作られた精神医療システムは、最低限のケアしか提供できなかった。
- フランスの課題:
- 西洋全体で患者数が増え、収容所が対応しきれなくなったが、フランスではそもそも整った収容所が少なかった。
イギリスの状況:中央集権の欠如
- イギリスの特徴:
- イギリス政府は医療や研究にほとんど関与せず、税関や警察のような基本的な役割に限定。
- ドイツの小さな州とは異なり、中央の管理が弱く、地方が自由に動いた。
- 影響:
- 医療研究(特に実験室での研究)は遅れたが、新しいアイデアが地方で生まれやすかった。
- フランスではパリが地方を圧倒したが、イギリスとドイツでは地方が独自に革新を進めた。
- 道徳療法との関係:
- フランスの官僚は、道徳療法(患者の自由を重視)を「面倒」と感じた。
- イギリスとドイツの活気ある地方都市は、道徳療法のような新しい治療法を受け入れやすかった。
イギリスの道徳療法の花開き
- 19世紀初頭(1800〜1830年)のイギリス:
- 道徳療法(優しさや信頼関係での治療)と毎日のルール(日課)が大きく発展。
- ジョン・フェリア(マンチェスターの精神病院の医者、1810年):
- 「穏やかで和解的な方法が一般的になり、治癒を助けなくても患者の苦しみを和らげる。」
- ウィリアム・トゥケとヨーク・リトリート:
- トゥケの孫サミュエル・トゥケ(1813年の回顧録):
- 「リトリートでは、尊敬されたいという欲求が患者に強い影響を与える。病気による悪い癖を抑えることで、心が強くなり、自己コントロールの習慣が生まれ、治癒に重要。」
- 影響:
- 非医者が書いたが、精神医学史の名言。
- ヨーク・リトリート(1796年設立)の成功は、イギリス全土やヨーロッパに広がり、治療的収容所の可能性を示した。
- ジョージ・マン・バロウズ:
- 1816年:一般医を引退し、チェルシーに小さな私営収容所を開く。
- 1817年:パリの精神科医を訪問。
- 1823年:クラパムに大きな私営収容所「リトリート」を設立。
- 特徴:
- 「狂人院(madhouse)」ではなく「収容所(asylum)」という言葉を好んだ。
- 1828年の教科書:
- ヨーロッパで広まる穏やかな管理法(道徳療法)を紹介。
- 「現代の精神疾患治療の優位性は、道徳的手段にある。」
- 例:急性症状の患者と議論しない、「友好的な穏やかな声」で過去の苦しみを和らげる。
- 意義:
- 上流中産階級の医者が、同じ階級の患者に適した治療法。
- 当時イギリスで「最も完全で実際的な精神疾患の論文」。
- ウィリアム・チャールズ・エリス:
- 経歴:
- ウェスト・ライディング収容所(ヨークシャー、1818年〜)とミドルセックス郡収容所(ロンドン、1831〜1838年)の初代監督。
- 頭蓋骨学(phrenology、頭の形から診断)を信じ、後の世代に奇妙とされた。
- 改革:
- 収容所を大きな家族と見なし、人道的な治療を重視(エスキロールやヤコビに似る)。
- 1838年:「道徳療法は難しいが、絶え間ない優しさが鍵。心が少しでも残っていれば、愛情深い注意で患者は変わる。多くの場合、理性と幸福が戻るのを喜びで見られる。」
- 実践:
- リンカーン収容所のエドワード・パーカー・チャールズワース(1821年、非拘束システム)に倣い、ハンウェル収容所で拘束を廃止。
- 妻と協力し、患者に手工芸や活動を導入。
- 1837年:ハンウェルの612人の患者の4分の3が有用な仕事に従事。
- 頭蓋骨学の意義:
- 頭を触りながら話す行為が、心を落ち着ける治療に(従来の瀉血や下剤とは異なる)。
- ダンフリーズのクリクトン・ロイヤル:
- 背景:
- エリザベス・クリクトンが夫の遺産で狂気を救う方法を探し、ウィリアム・A・F・ブラウンの1837年の本(収容所の理想と現実)を発見。
- ブラウン:
- モントローズ収容所の監督。シャラントンでエスキロールに学び、非拘束を支持。
- 1837年:「新システムと道徳療法の秘訣は、優しさと活動。これで治癒数が2倍に。」
- クリクトン・ロイヤル:
- クリクトンがブラウンを訪ね、10万ポンドを寄付し、1839年にダンフリーズに120床の病院を開設(全階級の患者を受け入れ)。
- ブラウンが初代医務主任。
- 1839年までのイギリス:
- 道徳療法と治療的収容所の考えが定着。
- 収容所の役割は治癒、精神科医の仕事は医者と患者の関係や時間の管理で脳の障害を和らげること。
アメリカ:最後に改革の波
- アメリカの背景:
- 大西洋を隔て、ヨーロッパより遅れて改革が到着。
- アメリカの精神科医も、ヤコビやエリスのような強い信念を持った経験豊富な医者。
- フランクフォード収容所(ペンシルベニア):
- 背景:
- フィラデルフィアのクエーカー教徒が1752年に設立に関わったペンシルベニア病院の精神病棟が過密に。
- 1811年:フランクフォードに土地を買い、収容所を建設。
- 開設:
- 1817年5月、アメリカ初の治療的収容所が開業。
- モデルはヨーク・リトリート(イギリス)。
- 特徴:
- 「鎖を使わない初の収容所」(後の年次報告)。
- 「どんなことがあっても、優しさの法則が優先」。
- ヨークとは異なり、開設時から専属医(チャールズ・ルケンス)がいた。
- ハートフォード・リトリート(コネチカット):
- 背景:
- フランクフォードに感銘を受けたイーライ・トッドとサミュエル・ウッドワードが、コネチカット州医学会を動かし、収容所を計画。
- 多くの個人が寄付(イギリス風の自主的な施設)。
- 開設:
- 1824年、ハートフォード・リトリートが患者受け入れ開始。
- 半公立(貧しい人も受け入れ)。
- トッドの哲学:
- イェール卒、徒弟制度で医学を学んだトッドが監督。
- 「優しさの法則をリトリートの道徳的規律の全てとし、スタッフ全員が患者に穏やかさと敬意を示す。」
- その後:
- ハートフォード・リトリートは私営化、名前が変わり、現在はインスティテュート・フォア・リビング(高級神経クリニック)として存続。
補足:初心者向けのポイント整理
国 | 収容所 | 主要人物 | 特徴 |
---|---|---|---|
フランス | シャラントンなど | エスキロール | パリで道徳療法を進めたが、地方は進まず。1838年の法律は管理重視。 |
イギリス | ヨーク・リトリート、ハンウェル、クリクトン | トゥケ、エリス、ブラウン | 道徳療法と非拘束が広がり、優しさと活動で治癒を目指す。 |
アメリカ | フランクフォード、ハートフォード | ルケンス、トッド | ヨーロッパのモデル(特にヨーク)を導入。優しさと信頼を重視。 |
初心者向けのまとめ
- フランスの問題:
- 1838年に収容所の法律ができたけど、道徳療法は無視され、地方には良い収容所がほとんどなかった。
- 患者が増えても、フランスには対応できる施設が少なかった。
- イギリスの成功:
- 道徳療法(優しさや信頼)と毎日の活動が人気に。
- ヨーク・リトリート(トゥケ)、ハンウェル(エリス)、クリクトン(ブラウン)が、鎖を使わない治療で患者を助けた。
- 地方の自由な環境が新しいアイデアを育てた。
- アメリカの始まり:
- ヨーロッパより遅れ、1817年にフランクフォード、1824年にハートフォードが開設。
- イギリスのヨークをモデルに、優しさで患者を治そうとした。
- 共通の目標:
- どの国も、収容所を「監獄」ではなく治療の場にしようとした。
- 医者と患者の信頼や、規則正しい生活で、心の病気を治すのが夢だった。
- なぜ大事?:
- この時代、精神疾患を優しさで治すという新しい考えが生まれた。
- 国によって成功や失敗が分かれたけど、精神医学の歴史の大事な一歩。
マサチューセッツの収容所:アメリカでの広がり
- ボストンの動き:
- 1810年頃:
- ボストンの裕福な商人たちが、自主的な総合病院を建てる計画を立てた。
- 計画が遅れ、病院の一部として予定されていた収容所が先に独立して開業。
- 1818年:
- 収容所が開設(マサチューセッツ総合病院は1821年まで患者を受け入れず)。
- 1826年:
- 商人ジョン・マクリーンの寄付で、収容所がマクリーン収容所と改名。
- ルーファス・ワイマン(初代監督):
- ハーバード卒、ボストンで徒弟制度で医学を学んだ。
- ピネルやトゥケの著書を読み、道徳療法(優しさと信頼に基づく治療)を強く支持。
- 1822年の報告:
- 患者の毎日の生活に活動や楽しみを取り入れる利点を説明:
- 「チェッカー、チェス、バックギャモン、ボウリング、ブランコ、木の切り出し、ガーデニング…。これらは嫌な考えから気をそらし、心と体の両方を鍛える。」
- 1828年:
- 屋外運動のために、馬車と馬を用意。
- 「鎖や拘束服は一切使わず、スタッフが患者に手を上げることを禁じた」(ただし、初期には拘束が行われた記録あり)。
- その後:
- マクリーン収容所は、マサチューセッツに公立の精神病床が増えると私営化。
- 現在も高級な精神科施設として存続。
公立収容所への移行
- 民間から公立へ:
- 民間収容所(フランクフォード、ハートフォード、マクリーン)の成功が、公立収容所の設立を促した。
- アメリカ初の公立収容所:
- 1773年:ウィリアムズバーグ(バージニア州)。ただし、治療より管理が目的。
- 1833年:ウースター収容所(マサチューセッツ州)が、治療目的の公立収容所として開設。
- ウースター収容所の背景:
- 1830年:
- 教育改革者のホーレス・マンが州議会に提案。
- 1833年1月:
- ウースター収容所が開業。
- サミュエル・ウッドワード(監督):
- コネチカットのハートフォード・リトリートでコンサルタントを務めた経験者。
- 治療法:
- 優しさよりも、伝統的な方法(皮膚を焼く薬、問題行動時に隔離室)を多用。
- それでも、「興奮した患者」に穏やかさと秩序をもたらした。
- 1833年の報告(病院の理事会):
- 「以前は40人が服を脱ぎ捨てていたが、今は8人だけ。興奮が減り、静かで礼儀正しく、互いに優しくなった。絶望の叫びや狂気のわめき声が消えた。」
- 他の公立収容所:
- 1840年代:
- ユティカ州立病院(ニューヨーク州):
- アマライア・ブリガムが監督。1848年にアメリカ精神医学会の前身を設立。
- ミレッジビル収容所(ジョージア州):
- 最初は治療的で、監督が新患者の鎖を外した。
- 後に8000床の「地獄のような場所」に。
- 1840年代の状況:
- 大西洋地域(ヨーロッパとアメリカ)で、治療的収容所が次々と誕生。
- 若い精神科医たちは、精神疾患を克服できると信じ、勝利の匂いを感じていた。
患者数の圧力
- 改革の失敗:
- 治療的収容所のアイデア自体は悪くなかったが、患者数の急増で失敗に終わる。
- 治療的収容所の強み:
- 重い精神疾患の人は、安全な場所、生活の整理、薬で助けられる。
- 初期の収容所はこれらを試み、医者やスタッフが患者と向き合う時間を持つことを目指した。
- 問題:
- 患者数が多すぎて、治療ではなく倉庫のような管理になってしまった。
- アメリカの例:
- 1869年:
- ニューヨーク州にウィラード州立病院が開設。慢性患者専用で、治癒や退院を諦めた初の施設。
- 患者数の増加:
- 1820年:平均入院数31人、収容所ごとの患者数57人。
- 1870年:平均入院数182人、患者数473人。
- 1870年代の観察:
- 収容所の需要が止まらず、次々と建設が必要に。
- 1875年、ニューヨークの銀行家が英国の精神科医に:
- 「お金は十分かけたけど、どこかでいつも漏れがある。」
- 1880年代以降:
- 歴史家デビッド・ロスマン:
- 「リハビリから管理へ」の衰退。ほとんどの公立収容所が治療を諦めた。
- 1895年、ウースター収容所:
- 若いスイス人精神科医アドルフ・マイヤーが研究者として勤務。
- 1200人の患者に対し医者4人(1人300人)、年間600人入院。
- マイヤーは負担の重さを訴え、医者を増やした。
- 訪問医者:「どうやって医者を忙しくさせる?」→治療の期待が消えていた。
- ドイツの状況:
- 収容率の増加:
- 1852年:人口5300人に1人の入院患者。
- 1911年:人口500人に1人。
- 困惑:
- 収容所を建ててもすぐ足りなくなる。
- 1911年の医者:「ベッド不足が精神保健当局の絶え間ない悩み。」
- 別の医者:「施設が必要な患者の増加が、人口増加と関係なく進む。」
- 1907年、バイエルンで:「このペースなら222年後、全員が収容所に。」
- フランスの過密:
- パリ、サント・アンヌ収容所:
- 1867年:490人用に設計。
- 1911年:1100人収容。
- ヴォークリューズ収容所(エピネー=シュル=オルジュ):
- 1869年:500人用。
- 1911年:1000人超。
- ビセートル収容所(1880年代):
- 訪問者:「過密な部屋と湿った中庭の憂鬱な集合体。」
- イギリスの過密:
- 患者数の増加:
- 1859年:人口1000人に1.6人。
- 1909年:3.7人。
- 収容所規模:
- 1827年:平均116人。
- 1910年:1072人。
- スタッフォードシャーの収容所(第一次世界大戦前):
- 訪問者委員会の記録:
- 「患者916人で過去最多。宿泊施設をはるかに超えている。男性36人がベッドなしで寝ている。鉄製ベッド20台を注文。」
- モンタギュー・ロマックス(家庭医、戦時中の収容所勤務):
- 「収容所は閉じ込めるだけで、治さない。治癒は偶然で、システムのせいではない。」
- 350〜400人を担当、時には2〜3倍に。
- 「個別の注意は不可能。治療が医者の仕事とされていても、そのヒントはなかった。」
- 結論:「公立収容所は狂気を閉じ込めるだけで、治す場ではない。」
- 結論:
- バティやエリスの希望は、患者数の圧力で打ち砕かれた。
補足:初心者向けのポイント整理
国 | 収容所例 | 時期 | 特徴と課題 |
---|---|---|---|
アメリカ | マクリーン(1818年)、ウースター(1833年)、ウィラード(1869年) | 1820〜1870年代 | 最初は道徳療法を試みたが、患者数急増で治療を諦め、管理に。 |
ドイツ | – | 1852〜1911年 | 収容率が10倍に。収容所を増やしても追いつかず。 |
フランス | サント・アンヌ、ビセートル | 1867〜1911年 | 設計時の2倍以上の患者。過密で環境悪化。 |
イギリス | ハンウェルなど | 1859〜1910年 | 患者数が2倍以上、平均規模が10倍に。治療の希望が消滅。 |
初心者向けのまとめ
- アメリカの始まり:
- マクリーン収容所(1818年):優しさと活動(チェスやガーデニング)で治療を目指した。
- ウースター収容所(1833年):公立で、秩序と穏やかさをもたらしたが、厳しい治療も。
- 1840年代:ユティカやミレッジビルなど、治療的収容所が広がった。
- 患者数の圧力:
- アメリカ:
- 患者数が急増(1820年の57人から1870年の473人)。
- ウィラード(1869年)は治癒を諦めた最初の施設。
- 1880年代以降、治療より管理に。
- ドイツ:
- 患者が10倍に増え、収容所が足りない。
- フランス:
- パリの収容所が過密(例:サント・アンヌ、490人→1100人)。
- イギリス:
- 患者数が倍増、収容所は10倍規模に。ベッド不足や過密。
- 共通の悲劇:
- 収容所は安全な場所や規則正しい生活で患者を助けるはずだった。
- でも、患者が多すぎて、医者が一人一人を診る時間がなくなり、倉庫のようになってしまった。
- なぜ大事?:
- 精神科医たちは心の病気を治す夢を持っていた。
- 患者数のせいで失敗したが、この努力が後の精神医学の基礎になった。
なぜ患者数が増えたのか?
議論の背景
- 問題:
- 19世紀に収容所の患者数が急増した理由は、精神医学の歴史で大きな議論の的。
- 異なる考え方:
- 研究者はいくつかのグループに分かれ、それぞれ異なる説明をしている。
考え方1:精神疾患は「社会が作り出したもの」
- 主張:
- 過去20年間(テキスト執筆時まで)、一部の学者は精神疾患そのものが存在しないと考える。
- 精神疾患は社会が作り上げたラベルで、患者は「病気」ではなく、以下のような理由で収容されたと主張:
- 資本主義社会への反抗(例:働くことを拒む、自由奔放な生活、男性の権威への抵抗)。
- 社会が「普通でない人」に我慢できなくなり、「許せない人」を閉じ込めた。
- 問題点:
- この説を裏付ける証拠がほとんどない。
- 著者:この考えが広く受け入れられたのは驚くべきこと。
考え方2:精神疾患は本物だが、増えていない
- 主張:
- 精神疾患は本当にあるが、時代によってその頻度はあまり変わらない。
- 19世紀の収容者急増は、社会的な理由(例:社会の変化や収容所の普及)で説明すべき。
- 弱点:
- 「狂気」を細かく分けて分析しない(例:認知症、精神病、知的障害を区別しない)。
- 著者:精神疾患を一括りにするのは、コンピュータの音と戦車の音を区別しないで騒音の歴史を書くようなもの。
- 特定の疾患は変わらないかもしれないが、他の疾患は増減する。区別が重要。
- 問題:
- 「社会的原因」と言うが、何の原因なのかを明確にしない。
考え方3:精神疾患は本物で、増えることもある
- 主張:
- 精神疾患は本物で、社会状況によって頻度が変わる。
- 著者:私はこのグループに属する。
- 重要ポイント:
- 「狂気」を分解し、さまざまな病気(例:気分障害、精神病、認知症)を個別に考える。
- 19世紀の患者数増加には2つの要因:
- 再分配効果:
- 精神疾患の人が家族や救貧院から収容所に移された。
- 本当の増加:
- 特定の精神疾患(例:神経梅毒、アルコール性精神病、統合失調症)が実際に増えた。
- 著者の立場:
- この2つの証拠(再分配と増加)は非常に強い。
- 1960〜70年代の歴史家は、精神疾患を「存在しない」または「知れない」と主張し、本当の問題(心や脳がどう乱れるか)を見逃した。
- 精神医学の歴史を共感を持って書くには、病気の物語を扱う必要がある。
病気の再分配
家族の負担
- 例:19世紀ウィーンの貧しい家族:
- ユリウス・ワーグナー=ヤウレッグ(1901年、精神科医):
- 「貧しい家族が、精神疾患の親戚を狭い家で長く世話すると、家族は睡眠不足、患者の行動への恐怖や苛立ち、医療費の不足に悩む。危機が起き、収容所の過密に苦しむのはこうした人々だ。」
- 家族の役割:
- 精神疾患の世話はまず家族が担った。
- 家族が家で世話するか、施設に送るかを決めた。
- アメリカの研究:
- 「1843〜1900年、家族が収容の決定を主導した。」
なぜ家族は収容所を選んだのか?
- 質問:
- 19世紀に、なぜ家族は精神疾患の親戚を収容所に送るようになったのか?
- 理由の可能性:
- 収容所がなかったから:
- 以前は送る場所がなく、家で世話するか、放浪させるしかなかった?
- 家族の変化:
- 家族の生活や気持ちが変わり、世話が難しくなった?
- 収容所の魅力:
- 収容所ができたから送りやすくなった?
- 「収容所がない」説の問題:
- 貧しい家族には当てはまるが、裕福な家族はどうか?
- 裕福な家族は、昔から精神疾患の問題を抱え、お金で外部の世話を買えた。
- 例:教会に預ける、家の部屋や要塞に閉じ込める。
- アンドリュー・ブード(1552年の医学書):家庭での「狂気」の管理法を記述。
- 歴史の事実:
- 18世紀以前のイギリス、19世紀以前のヨーロッパ大陸には、私営の「狂人院」がほぼなかった。
- 裕福な家族は、以前は親戚を家に置くことを選んだ。
家族の気持ちの変化
- 著者の説明:
- 家族が親戚を収容所に送るようになったのは、家族の感情の変化が関係。
- 昔の家族(18世紀以前):
- 家族は財産や血縁で結ばれ、感情的なつながりは弱かった。
- 親密さが少なく、夕食やプライベートな時間で「家族の絆」を祝う習慣はなかった。
- 精神疾患の親戚がいても、家族の雰囲気を乱すことが少なかった。
- 新しい家族(18世紀末〜):
- 家族が感情的な結びつきを重視し始めた。
- 夕食は「小さな家族の団らん(la petite famille bien unie)」を祝う時間に。
- 精神疾患の親戚は、この幸せなイメージに合わなくなった。
- ブルーノ・ゲルゲン(19世紀初頭、ウィーンの私営クリニック経営者):
- 裕福な家族がなぜ彼のクリニックを選ぶか説明:
- 「精神疾患の人は、家族の慰めの言葉、婚約者の不安、親しい人の涙やため息を誤解する。燃えるような想像力や調和を拒む感性が、妻を毒を盛る者、子どもを悪魔、家を監獄と見せる。誰も聞かない声や見えない姿を見てしまう。この人は、家族への愛しかなかったのに、混乱の中で家族の苦しみに目も耳も貸さない。」
- 意義:
- ゲルゲンの言葉は、過去の医学や一般の文献にはない力強さ。
- 新しい家族のスタイルでは、精神疾患の親戚を家に置くのが耐えられなくなった。
補足:初心者向けのポイント整理
考え方 | 主張 | 問題点 |
---|---|---|
1. 精神疾患は存在しない | 社会が「普通でない人」を閉じ込めた(例:仕事嫌い、自由な生活)。 | 証拠がほとんどない。 |
2. 精神疾患は本物だが増えない | 社会の変化(例:収容所の普及)が原因。 | 「狂気」を細かく分けず、原因が曖昧。 |
3. 精神疾患は本物で増える | 再分配(家族から収容所へ)と実際の増加(例:梅毒、アルコール)。 | 著者の説。証拠が強い。 |
要因 | 説明 | 例 |
---|---|---|
再分配効果 | 精神疾患の人が家族や救貧院から収容所に移された。 | ウィーンの貧しい家族が患者を家で世話できず収容所へ。 |
実際の増加 | 特定の病気(神経梅毒、アルコール性精神病、統合失調症)が19世紀に増えた。 | – |
初心者向けのまとめ
- 患者数増加の謎:
- 19世紀に収容所の患者が急増した理由は、研究者の間で意見が分かれる。
- 3つの考え:
- 1. 「病気はない」:
- 社会が「変な人」を閉じ込めただけ。証拠が弱い。
- 2. 「病気はあるけど増えない」:
- 社会の変化が原因。でも、病気を細かく見ていない。
- 3. 「病気はあるし増える」(著者の説):
- 再分配(家族から収容所へ)と実際の増加(特定の病気が増えた)の2つが原因。
- 再分配の例:
- 貧しい家族:
- ウィーンでは、狭い家で患者を世話するのが大変(睡眠不足、お金不足)。
- 裕福な家族:
- 昔は家に置いたけど、家族が「感情の絆」を大切にするようになり、患者が「幸せな家族」に合わなくなった。
- ゲルゲンの言葉:
- 精神疾患の人は、家族の愛を誤解し、妻や子を敵と見る。家族はそんな姿を見ていられない。
- なぜ大事?:
- 患者数の増加は、病気の変化と家族の変化の両方を映す。
- 精神疾患を「本物」と認め、どんな病気がどう増えたかを考えるのが、歴史を理解する鍵。
家族の我慢の限界
病気による混乱と家族の対応
- ウィーンでの調査:
- ヴィルヘルム・スヴェトリン(19世紀後半、ウィーンの裕福な人向け私営クリニックの経営者):
- 患者の家族に、病気が始まってからクリニックに連れてくるまでどのくらい待ったかを尋ねた。
- 結果:
- メランコリー(うつ病のような状態、56人):
- 36%の家族が半年以上待った。
- 18%だけが1か月以内に入院させた。
- パラノイア(被害妄想、16人):
- 3か月以内に連れてきた家族はゼロ。
- マニア(躁病、22人):
- 68%が1か月未満で入院させた。
- 躁病の特徴:
- 患者は昼夜を問わず落ち着かず、口笛を吹いたり、拍手したり、歌ったり、叫んだり、家具を壊したりする。
- 結論:
- 1870〜80年代のウィーンの裕福な家族の3分の2は、躁病の親戚の混乱を1か月以上我慢できなかった。
- 過去との違い:
- 1670〜1770年代:
- 家族は躁病の親戚を家で我慢できた。
- お金があれば外部の世話を買えたが、そうしなかった。
- 変化の理由:
- 収容所が増えたからではなく、家族の感情の変化。
- 家族が感情的な絆を重視するようになり、精神疾患の親戚がその「幸せな家族」に合わなくなった。
- 影響:
- 家族が精神疾患を我慢する力が減り、家で扱っていた病気が収容所に送られるようになった。
高齢者の認知症
- 認知症の再分配:
- 昔は家族が認知症の高齢者を家で世話していた。
- 19世紀末には、家族が外部の世話を求めるようになった。
- 例:
- 1908年、イギリスの医者:
- 収容所の入院者が増えたのは、「無害な高齢者(軽度〜重度の認知症)が、以前は救貧院や家族・友人に世話されていたのに、収容所に送られるようになったから」。
- バッキンガムシャーの収容所(イギリス):
- 1881年:入院者の18.7%が60歳以上。
- 1911年:24.0%に増加。
- アメリカ:
- ユティカ州立病院(1870年代後半):
- 「老衰(認知症)」での入院者が急増。
- ウォーレン州立病院(ペンシルベニア):
- 1916年:全患者の14.8%が「高齢者の精神疾患」。
- 1946〜1950年:26.4%に。
- 歴史家ジェラルド・グロブ:
- 20世紀、アメリカの精神病院は高齢者の収容場所に変わった。
- 結論:
- 認知症の高齢者が家族から収容所に移され、病気の再分配が起きた。
救貧院や刑務所からの移送
- 別の再分配:
- 以前は刑務所や救貧院にいた人が収容所に移された。
- イギリスの例:
- 1874年の法律:
- 政府が資金を出し、地方の「貧困者の狂人」を郡の収容所に移した。
- 世話の負担が地方から収容所に移動。
- 議論:
- 一部の学者:
- これらの人は「狂人」ではなく「貧困者」で、コミュニティが迷惑者として送り出した。
- 当時の観察者:
- 収容所に送られた貧困者の多くは重い精神疾患を持っていた。
- バーンウッド収容所(スタッフォードシャー、1887年の報告):
- 監督者の言葉:
- 「救貧院から来た、特別な世話が必要な慢性患者が少なくない。収容所がこうしたケースで悩むとの不満もあるが、私はこの貧しく苦しむ人々を看護し、負担を軽くする手段があることを喜ぶ。」
- 未解決の問題:
- これらの患者が本当に精神疾患だったか、ただ「迷惑者」だったかは、個々の記録を詳しく調べないとわからない。
- 著者の見解:
- 多くの証拠から、家族やコミュニティが収容所に送った人は深刻な精神問題を持っていた。
- 「資本主義や家父長制への反抗」といった1960年代の学者の空想的な説は当てはまらない。
精神疾患の実際の増加
増加の概要
- 2つ目の要因:
- 19世紀、精神疾患そのものが増えた。
- 1800〜1900年、普通の人が一生で重い精神疾患にかかるリスクが大きく上昇。
- 増えた病気:
- 神経梅毒(最も確実)、アルコール性精神病、統合失調症(やや不確実)。
- 順番に説明:
- 以下で、最も確実な神経梅毒から詳しく見ていく。
神経梅毒の急増
- 重要性:
- 神経梅毒は、脳や脊髄に梅毒が侵入する病気で、精神症状(例:躁病、認知症)で始まることが多い。
- 末期は公立収容所や私営クリニックで治療された。
- 患者急増の大きな原因。
- 忘れられた病気:
- 当時は「世紀の病気」と呼ばれたが、今日ではほぼ消滅。
- 精神医学史の学者が無視し、「病気の社会的な作り上げ」といった説が広まった理由の一つ。
- 著者:神経梅毒は社会的な作り物ではない、本物の病気。
- 感染の流れ:
- 例:
- 若い医学生やビジネスマンが、結婚前に「いい子」とは性交渉できず、売春婦と関係を持つ。
- ペニスに潰瘍やリンパ節の腫れ(一次梅毒のサイン)が現れる。
- 症状が消え、恥ずかしさもあり忘れる(当時は皮膚感染が日常的で気づきにくい)。
- 進行:
- 梅毒の細菌(スピロケータ)が血液に残る。
- 1年以内に脳や脊髄の膜に侵入するが、症状は出ない。
- 何年も無症状で過ごす。
- 発症の2つの道:
- 免疫で治る:病気は消える。
- 症状が出る(10年後など):
- 例:言葉の発音が難しくなる。
- ルイス・トーマス(ボストンの医者):
- 統合失調症と神経梅毒を区別するため、患者に「God save the Commonwealth of Massachusetts」と言わせた。
- 精神症状:
- 初期の脳膜炎が躁病のような症状(例:誇大妄想)を引き起こす。
- 例:フランクフルトの化学教授:
- 講義中に突然ゴシップを話し、前日に車10台と腕時計100個を買った。
- 特徴:
- 中年のビジネスマンや専門職に突然の精神症状が出ると、医者はすぐ神経梅毒を疑った。
- 躁病の特徴:
- 患者は「気分が最高!」と病気を否定。
- 家族を破産させる行動(例:無駄遣い)が問題。
- 進行の2つの形:
- 脊髄が主(背部癆、tabes dorsalis):
- 腹部の激痛、綿を踏むような歩行(高く足を上げる)。
- 中流階級は温泉で治療を求めた。
- (19世紀では、これが梅毒由来と証明されていなかった)。
- 脳が主(進行性麻痺、GPI):
- 精神症状→認知症→麻痺。
- 収容所で最も一般的。
- 致命性:
- 症状が出ると必ず死に至る。
- マダム・マリア・リヴェ(1870年代、パリの私営クリニック):
- 「進行性麻痺は決して許さない(命を奪う)。」
- 診断:
- 初期:瞳孔、まぶた、反射の微妙な変化でわかる医者が必要。
- 末期(GPI):中年男性が急に認知症になり、麻痺して痙攣で死ぬ。他の病気では見られない。
- 統計の信頼性:
- 当時の記録は、神経梅毒の実際のレベルをかなり正確に示す。
- 歴史の謎:
- 神経梅毒は18世紀後半(1780年代)までほとんど知られていなかった。
- 梅毒自体は中世からあったのに、なぜ?
- ウィリアム・パーフェクト(1787年の教科書):
- 同僚の患者(中年男性):
- 「激しい情熱と人間嫌いから始まり、銀行からありえない額を引き出そうとした。失望すると不機嫌になり、関係ない相手に巨額の請求書を出す。自分が大法官、スペイン王、バイエルン公だと信じた。」
- 躁病の症状だったが、後に認知症になり、「完全な衰弱で愚かさに近づいた」。
- 著者:これが進行性麻痺の初期の例に見える。
- 結論:
- 神経梅毒は19世紀に急増し、収容所の患者増加の大きな原因だった。
補足:初心者向けのポイント整理
要因 | 説明 | 例 |
---|---|---|
再分配 | 家族が精神疾患の人を家で我慢できず、収容所に送った。 | ウィーンの躁病患者(68%が1か月以内に)、高齢者の認知症、救貧院からの移送。 |
実際の増加 | 特定の精神疾患が本当に増えた。 | 神経梅毒(脳や脊髄を侵す致命的な病気)。 |
病気 | 家族の対応 | 理由 |
---|---|---|
メランコリー | 36%が半年以上待つ | 静かな症状で我慢しやすい。 |
パラノイア | 3か月以内にゼロ | 被害妄想は目立たない。 |
マニア | 68%が1か月未満 | 騒がしく、家具を壊すなど耐えられない。 |
初心者向けのまとめ
- 患者数増加の2つの理由:
- 再分配:
- 家族が精神疾患の人を家から収容所に送った。
- 救貧院や刑務所からも移された。
- 実際の増加:
- 特に神経梅毒が19世紀に増えた。
- 家族の変化:
- 昔(17〜18世紀):
- 家族は躁病の親戚を家で我慢できた。
- 感情より財産が大事だった。
- 19世紀:
- 家族が「幸せな絆」を重視。
- 躁病(騒がしい行動)は1か月で耐えられず、収容所へ。
- 認知症の高齢者も家から送られた(例:イギリスで60歳以上の入院者増加)。
- 救貧院からの移送:
- 貧しい患者が収容所に送られたが、多くは本物の精神疾患だった。
- 神経梅毒の急増:
- 若い男性が梅毒にかかり、10年後に躁病や認知症で発症。
- 例:教授が突然車を10台買い、認知症で死ぬ。
- 致命的で、収容所の患者増加の大きな原因。
- 18世紀まではまれだったが、19世紀に急増。
- なぜ大事?:
- 患者数の増加は、家族の我慢の限界と病気の増加の両方による。
- 神経梅毒のような本物の病気を無視すると、歴史が正しく理解できない。
神経梅毒の初期報告と広がり
フィレンツェでの観察
- ヴィンツェンツィオ・キアルージ(18世紀末、フィレンツェの医者):
- 神経梅毒と思われる患者を報告:
- 40歳の兵士:
- 瞳孔が動かず、左右で大きさが違う(脳の異常のサイン)。
- 認知症になり、下半身の運動を完全に失う。
- 「進行性の衰弱」で寝たきりになり死亡。
- 37歳の会計士:
- 躁病の発作を起こし、認知症に。
- 「ゆっくりとした衰弱」でほぼ完全な下半身麻痺になり死亡。
- 意義:
- これらは神経梅毒(進行性麻痺)の典型的な症状。
麻痺と狂気の結びつき
- ジョン・ハスラム(1809年、ベドラムの医者、ロンドン):
- 「長期間の放蕩生活は麻痺で終わる。麻痺は心の乱れを引き起こす。」
- 増加の観察:
- 「麻痺は狂気の原因として、以前考えられていたよりずっと多い。狂気の結果としても麻痺が起こり、躁病患者の死因で最も多いのは片側麻痺や発作。」
- 当時の誤解:
- 麻痺と狂気を、性行為や「精液の浪費」と結びつけ、道徳的な警告を発した。
- 後の歴史家はこれを「道徳主義」と嘲笑したが、実際は神経梅毒の影響だった。
フランスでの日常化
- エスキロール(1814年、サルペトリエールと私営収容所の医者):
- 認知症患者235人を観察(私営と公立、50歳未満が多数):
- 半数以上が「麻痺の症状」を示した。
- 結論:
- 麻痺を伴う認知症は「非常に頻繁で、治療不可能」。
- 男女差は特にないと当初は考えた。
- 後年の観察(1832年頃):
- 若い〜中年の患者で、認知症と麻痺が非常に一般的と気づく。
- 「狂気の男性患者の方が女性より麻痺が多い。」
- ビセートル(男性収容所)とサルペトリエール(女性収容所)の比較:
- ビセートルの麻痺患者が女性よりずっと多かった。
- 弟子のアシル・ルイ・フォヴィル(サン・ヨン収容所):
- 全患者の10%が麻痺(男性3分の2、女性3分の1)。
- 地域差:
- パリ周辺で麻痺が特に多く、南フランスやイタリアより多い(同僚の統計で確認)。
- 原因の解明:
- 1826年、弟子アントワーヌ・ローラン・ベイル:
- 麻痺と誇大妄想は、脳の膜の慢性的な炎症による。
- これが神経梅毒の精神症状(有機的脳疾患)とわかったが、梅毒との関係はまだ不明。
- 意義:
- ナポレオン時代(1800年代初頭)、フランスの収容所で麻痺と認知症が日常に。
ドイツでの加速
- クリスティアン・フリードリヒ・ハーレス(1814年、エルランゲンの医学教授):
- 脊髄型の神経梅毒(背部癆)を「すでに知られた致命的な病気」と呼ぶ。
- 麻痺の最初の兆候で死に至る。
- モーリツ・ロンベルク(1840年代、ベルリンの神経学者):
- この病気が「最近の大規模な軍事作戦後に増加」。
- 病名を背部癆(tabes dorsalis)と命名。
- 背景:
- ヨーロッパと北米で性感染症の流行が広がり、10〜15年後に神経梅毒が急増(初感染から症状までの平均期間)。
神経梅毒の規模
- 感染率:
- 人口の5〜20%が一生涯で梅毒に感染。
- そのうち最大6%が神経梅毒に。
- 数百万人の6%は膨大な人数。
- 収容所以外の患者:
- 恥ずかしさで自宅で死ぬ人、ピレネー山脈のラマローのような高級温泉で治療する人、モルヒネで自殺する人。
- 収容所の患者は氷山の一角。
- 収容所への影響:
- 神経梅毒患者(背部癆や進行性麻痺)が19世紀の収容所で大きな割合を占めた。
私営クリニックでの偏り
- 中流階級の病気:
- 神経梅毒は特に中流階級の男性に多かった。
- 例:ペーペルヴィッツクリニック(1860年代、ブレスラウ近郊、私営):
- 男性111人中32%が進行性麻痺。
- 女性75人中ゼロ。
- カンザスシティのサナトリウム(1901〜1907年):
- 神経梅毒(進行性麻痺)が、うつ病や躁病に次ぎ、統合失調症より多い。
- 公立収容所:
- フランクフルト市収容所:
- 1850年以前:ユダヤ人患者に神経梅毒なし。
- 1871〜1880年:21%(主に商人など有料患者)。
- トロント収容所(ジョセフ・ワークマン、1853〜1875年監督):
- 1853年:進行性麻痺ゼロ。
- 1865〜1875年:男性65人、女性7人が進行性麻痺で死亡。
- 「収容所の記録は、この病気の入院数をほぼ正確に示す。」
- イギリス、モンタギュー・ロマックス:
- 進行性麻痺患者が「男性病棟の過半数」を占める。
- 特徴:
- 背部癆患者:外での特徴的な歩行(高く足を上げる)で医者に気づかれる。
- 進行性麻痺患者:混乱した話し方、瞳孔の異常で収容所に入る。
社会的意味
- カール・エーデルのクリニック(ベルリン、19世紀後半):
- 2つの棟:
- 豪華な私営棟(上流階級)。
- 経済的な公立棟(ベルリンと周辺の貧困層)。
- 神経梅毒の分布:
- 私営男性棟:976人中46%が神経梅毒。
- 貧困層の進行性麻痺は少ない。
- 女性:裕福5%、貧困7%。
- 退院の違い:
- 私営患者(男女):約半数が家族に引き取られ、収容所外で死亡。
- 労働者階級の男性:30%が引き取られる。
- 労働者階級の女性(22人):全員が収容所で死亡。誰も引き取られず。
- 著者の指摘:
- 精神医学史の社会的意義は、診断(脳の病気)にあるのではなく、患者の経験にある。
- 神経梅毒は「社会的なラベル」ではなく、動けない足や床ずれといった現実。
- 特に貧しい女性が家族に見捨てられ、収容所で死ぬのは本当の物語だが、語られていない。
アルコールによる精神疾患
アルコールの影響
- アルコールが脳に与える問題:
- 大量飲酒:
- 幻覚を引き起こす。
- 離脱(禁断症状):
- 精神病、発作、振戦せん妄(delirium tremens)。
- 慢性的な過剰摂取:
- 他の栄養不足で、記憶喪失や精神病(コルサコフ症候群、1887年にロシアの医者セルゲイ・コルサコフが報告)。
- 原因:ビタミンB1(チアミン)不足。
- 急性型:
- ヴェルニッケ症候群(1881年、ドイツのカルル・ヴェルニッケ):
- 精神錯乱、ふらつく歩行。
- 肝臓疾患:
- 飲酒による肝障害が精神症状を引き起こす。
- 結論:
- アルコール消費が増えると、収容所の入院者が増える(短期的なものも長期的なものも)。
「酩酊の黄金時代」
- 飲酒の増加:
- 歴史家:19世紀は「酩酊の黄金時代」。
- イギリス:
- 1801〜1901年:1人当たり蒸留酒消費量が57%増(年間0.5ガロン未満→0.75ガロン以上)。
- アメリカ:
- 1845年:1人当たり純アルコール1.8ガロン。
- 1910年:2.6ガロン。
- フランス:
- 1781〜1913年:アルコールとビールの生産が14倍(117万ヘクトリットル→1670万)。
- バイエルン:
- 19世紀中盤:ビール消費が2倍。
- 理由:
- 生活水準の向上、ビートシュガーからの安価なアルコール生産。
- フランスの農民が毎日ワインを飲み、ドイツの職人が手軽にビールを飲んだ。
収容所への影響
- プロイセン:
- 1875年:アルコール中毒患者600人未満。
- 1900年:約1300人。
- カール・ボンホーファー(1890年代、ブレスラウの精神科医):
- 「当時、受付は振戦せん妄のアルコール患者で支配され、寝具を引きずっていた。夏は毎日少なくとも1人いた。大都市の精神科施設の患者の何%がせん妄だったか、今では想像できない。」
- シャリテ病院(ベルリン、1880年代後半):
- 全患者の39%が振戦せん妄。
- 注:
- ベルリンやブレスラウのような都市は、プロイセン全体(1875〜1900年、アルコール患者は全入院者の3%)よりアルコール依存が多かった。
- フランス:
- パリ警察の精神科サービス(1886〜1888年、約8000人):
- アルコール依存が診断のトップ(27%)。
- パリ収容所:
- 男性の3分の1、女性の10分の1が飲酒が原因。
- ヴァランタン・マニアン(サント・アンヌ収容所の主任):
- 入院者増加の主な原因はアルコール。
- イギリス:
- ロイヤル・エディンバラ収容所(1874〜1894年):
- 男性入院者の15〜20%がアルコール依存(女性は低い)。
- 私営クリニック:
- 裕福なアルコール依存者を「乾燥させる」施設が急増。
- 例:
- リバーミア(エセックス):上流階級向け、アルコールと薬物乱用治療。
- タワーハウス(レスター):女性向け高級施設。
- 1908年の医療ディレクトリ:
- 24の「ホーム」が広告。
- 結論:
- 19世紀後半、病的飲酒が精神医学的に大きな問題に。
その他の精神疾患
神経梅毒とアルコールの割合
- 全体の影響:
- 神経梅毒とアルコール依存は入院者増加の大きな原因。
- プロイセン(1875〜1900年):
- 両方で全入院者の11%。
- 他の診断:
- 入院者の大半は、「てんかん性狂気」「ヒステリー性狂気」など、当時の曖昧な診断。
- 問題:
- これらの診断から本当の病気を推測するのは難しい。
診断の課題
- 必要なこと:
- 患者の記録を基に、過去の診断を再評価する。
- 症状やサインから、現代の視点で病気を特定。
- 難しさ:
- 時間がかかり、歴史的背景と病気の知識が必要。
- この研究は始まったばかり。
- 著者の立場:
- 統合失調症の増加について、証拠はまだ不確かだが、19世紀に大きく増えた可能性があると考える。
補足:初心者向けのポイント整理
病気 | 特徴 | 収容所への影響 |
---|---|---|
神経梅毒 | 躁病、認知症、麻痺。主に中年の男性。中流階級に多い。 | 患者急増の大きな原因。特に私営クリニックや公立収容所の男性病棟。 |
アルコール依存 | 幻覚、せん妄、記憶喪失。飲酒量の増加で急増。 | 都市の収容所で特に目立ち、男性入院者の大きな割合。 |
地域 | 例 | データ |
---|---|---|
フランス | サルペトリエール、ビセートル | 男性患者の多くが麻痺(神経梅毒)。アルコールで入院3分の1。 |
ドイツ | ペーペルヴィッツ、エーデル | 私営クリニックで男性の32〜46%が神経梅毒。 |
イギリス | エディンバラ | 男性入院者の15〜20%がアルコール依存。 |
アメリカ | トロント、ユティカ | 神経梅毒が1850年代から増加。 |
初心者向けのまとめ
- 神経梅毒の広がり:
- 18世紀末:フィレンツェで認知症と麻痺の患者が報告(例:兵士、会計士)。
- 19世紀初頭:
- ベドラム(ロンドン):麻痺が狂気の原因・結果として増加。
- フランス:エスキロールが男性患者の麻痺の多さに気づく。
- ドイツ:軍事作戦後に背部癆が急増。
- 特徴:
- 梅毒から10〜15年後に精神症状(躁病、認知症)、最終的に麻痺で死亡。
- 中流階級の男性が多く、収容所の患者を増やした。
- アルコールの問題:
- 19世紀:「酩酊の黄金時代」。
- イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで飲酒量が急増。
- 影響:
- 幻覚、せん妄、記憶喪失で収容所へ。
- 例:ベルリンで患者の39%がせん妄、パリで男性の3分の1が飲酒原因。
- 私営クリニックもアルコール治療で繁盛。
- 社会的物語:
- 神経梅毒は特に中流男性、貧しい女性は家族に見捨てられた。
- 本当の問題は、病気そのもの(動けない足、床ずれ)や患者の経験。
- 他の病気:
- 統合失調症も増えたかもしれないが、証拠はまだ弱い。
- 正確な診断には、過去の記録を詳しく調べる必要がある。
- なぜ大事?:
- 神経梅毒やアルコール依存は、本物の病気で収容所を埋めた。
- 患者の苦しみや家族の対応を理解することで、精神医学の歴史がリアルになる。
統合失調症とその歴史
統合失調症とは?
- 現在の理解:
- 統合失調症は遺伝的な影響を受ける脳の発達の病気。
- 子宮内や出産時のトラウマで脳が正常に育たない可能性。
- 症状(若年成人期から):
- 普通の人間関係が難しい。
- 日常のストレスに対処できない。
- 考えを整理できない。
- 精神病(幻覚、妄想、錯覚)。
- 「統合失調症」は複数の病気(遺伝的なものとそうでないもの)が混ざっている可能性。
- 頻度:
- 人口の約1%が影響を受ける。
- 19世紀の状況:
- 統合失調症は、精神病の多くの診断の中に含まれていた。
- しかし、どのくらい多かったか? 時代でどう変わったか? は不明。
初期の記述
- 1809年の報告:
- ジョン・ハスラム(イギリス、ベドラムの医者):
- 「記憶喪失に関連し、若い人に起こる狂気がある」:
- 元気で賢かった若者が、静かで無関心になる。
- 「親や親戚への愛情が薄れ、友達に興味がなく、読んだことを説明できない。文章も2文以上書けない。」
- 進行:
- 服や清潔さに無関心、尿や便の失禁も。
- 「思春期から成人期の間に、最も有望な知性がよだれを垂らし、膨れた愚か者に変わる。」
- 例:
- 若い男性が怒りで自らのペニスを切断。
- ベドラム入院後、回復したように見えたが、ハスラムは疑う:
- 「彼の態度や目の奇妙さから、良くないと感じた。会話に乱れはなかったが。」
- 患者は足が不自由で、靴を脱いでこする行動。
- 理由を聞くと、「2階の床が地下の火で熱せられ、目に見えない悪意ある者が私を焼き尽くそうとしている」と。
- フィリップ・ピネル(フランス):
- 若い「愚かさ(idiotism)」の文脈で:
- 28歳の彫刻家:
- 「過度な飲酒や恋愛の疲れ」で、固まった姿勢で動かず、無言。
- 「愚かな笑い声だが、顔に表情なく、過去の記憶もない。食欲は強く、食べ物を見ると咀嚼を始める。」
- 診断の難しさ:
- これらの患者が統合失調症だったかは不明。
- ただし、似た症状の若者が多くいたなら、一部は統合失調症と考えられる。
新しい病気の認識
- ハスラムとピネルの貢献:
- 若い成人の精神病が慢性狂気になる新しい病気として注目。
- 当時の言葉では「認知症(dementia)」と呼ばれたが、知能の喪失ではなく、妄想、幻覚、混乱した思考。
- 歴史的変化:
- 1800年以前:
- こうした記述は医学文献にほぼない。
- その後:
- 記述が徐々に増える。
エドワード・ヘアの「最近仮説」
- 観察:
- 19世紀、幻聴(声が聞こえる)の報告が増加。
- 「最近仮説」:
- 統合失調症は最近の病気で、うつ病のような古来の病気ではない。
- 19世紀の収容所入院者増加の主な原因は統合失調症。
- 議論の3つの立場:
- 1. 精神疾患は存在しない(反精神医学):
- 収容所の環境が軽い問題を「慢性」にし、医者が「狂気」とラベル。
- 入院時は病気ではなく、社会的な押しつけの犠牲者。
- 2. 統合失調症は古い病気:
- 昔からあり、文献が少ないだけ。
- 病気の現象は変わらず、記録の正確さが増しただけ。
- 3. 最近仮説(ヘアなど):
- 統合失調症は新しく、19世紀に増加。
- 研究の重要性:
- この議論は、精神医学の起源が医者の利益のための病気作りか、新しい病気の患者への対応かを問う。
- 決定的な答えはないが、最近仮説を支持する研究が増えている。
最近仮説の証拠
- 過去の記録の分析:
- フィラデルフィア、ペンシルベニア病院(1790年):
- 統合失調症の症状の記述はまれ。
- ベスレム王立病院(1823年):
- 同様の証拠で一般的になる。
- 結論:
- 「最近仮説にさらなる重みを与える。」
- 個別の記録診断:
- ベスレム(1830年以降の子ども):
- 幻聴や妄想(統合失調症らしい)が上昇。
- ヨーク・リトリート(1880〜1884年、118人):
- 31%が妄想や幻覚(統合失調症の可能性)。
- 著者:
- 「ビクトリア朝の医者が狂気を不道徳や非順応と混同した証拠はない。ほとんどの患者は重度の精神障害。」
- 他の研究:
- 19世紀の収容所で統合失調症が一般的だったと結論。
- 当時の医者の認識:
- カール・カルバウム(1884年、ドイツ、ゲルリッツの私営クリニック):
- 若者の慢性狂気を「ヘベフレニア(思春期精神病)」と命名。
- 「すべての精神科施設で、若い患者が最近大きく増えた。」
- マリア・リヴェ(1875年、パリ、サン・マンデのクリニック経営者、非医者):
- 若い女性の重い精神疾患に異常さを感じる。
- 例:マドモアゼルN:
- 大学の勉強や医学書の読みすぎで脳が混乱。
- 「若いのに認知症(通常は高齢者)。」
- 妄想:
- 自分がエバ(最初の女性)で、楽園の素晴らしさを語る。
- 卵を食べると鶏になると思い、拒否。
- 自分が神で、太陽を作ったと主張。太陽を凝視し、止められることに怒る。
- 行動:
- 手紙は理解不能な文体。
- 庭のガチョウ3羽を飼いならし、ポケットをつつき、肩に乗る。
- 芝生に座り、ガチョウに長編演説。
- 意義:
- 18世紀末以前にはこうした記述がほぼない。
- リヴェのクリニックは、新しい病気の出現を感じさせる。
行き詰まり
1900年の精神医学
- 状況:
- 精神医学は行き詰まり。
- 医者の多くは収容所で働き、収容所は倉庫に。
- 治療の希望は幻想に。
- 医者の評判:
- 他の医者から「つまらない」「二流」と見られ、温泉医者やホメオパシー医者とほぼ同等。
- 収容所の荒廃:
- 慢性患者(進行性麻痺、認知症、カタトニア型統合失調症)で溢れる。
- 初期の改革者(例:ピネル、トゥケ)が悲しむ状態。
- ウィリアム・アランソン・ホワイト(ワシントン、セント・エリザベス病院の監督):
- ニューヨークのブラックウェル島収容所で訓練。
- ある朝、マンハッタンからボートで島に向かった記憶(詳細は次で)。
補足:初心者向けのポイント整理
病気 | 症状 | 19世紀の状況 |
---|---|---|
統合失調症 | 人間関係の困難、ストレス対処不能、思考の混乱、幻覚、妄想。 | 若者の精神病として1809年に記述。19世紀に増加の可能性。 |
神経梅毒 | 躁病、認知症、麻痺。 | 中流男性で急増、収容所を埋めた。 |
アルコール依存 | 幻覚、せん妄、記憶喪失。 | 飲酒量増加で入院者急増。 |
仮説 | 主張 | 証拠 |
---|---|---|
反精神医学 | 収容所が軽い問題を「狂気」にした。 | 証拠薄弱。 |
古い病気説 | 統合失調症は昔から。文献が増えただけ。 | 1800年以前の記述が乏しい。 |
最近仮説 | 統合失調症は新しく、19世紀に増加。 | 幻聴の増加、記録の再診断で支持。 |
初心者向けのまとめ
- 統合失調症の特徴:
- 脳の発達の病気で、若者(20代〜)が人間関係やストレスに悩み、幻覚や妄想が出る。
- 人口の1%がかかる一般的病気。
- 19世紀の変化:
- 1809年:
- ハスラム(イギリス):若者が無気力、親への愛情喪失、幻覚(例:床が熱い)。
- ピネル(フランス):若い彫刻家が無言、記憶喪失、異常な笑い。
- これらは統合失調症らしいが、確実ではない。
- 増加の証拠:
- エドワード・ヘア:「最近仮説」:
- 幻聴が増え、統合失調症が収容所入院の主因。
- 過去の記録:
- 1790年(アメリカ):統合失調症の記述はまれ。
- 1823年(イギリス):一般的。
- ヨーク・リトリート(1880〜1884年):
- 31%が統合失調症らしい症状。
- 患者は「重度の精神障害」で、社会的なラベルではない。
- 当時の医者:
- カルバウム(ドイツ):若い患者の増加。
- リヴェ(フランス):若い女性の奇妙な妄想(例:自分が神、ガチョウと話す)。
- 議論:
- 病気はない:収容所が狂気を作った(証拠弱い)。
- 昔からある:記述が少ないだけ(1800年以前の証拠乏しい)。
- 新しい病気:19世紀に増えた(記録や医者の観察で支持)。
- 1900年の行き詰まり:
- 収容所は治療の場から倉庫に。
- 患者(進行性麻痺、認知症、統合失調症)で溢れ、医者の評判は低い。
- 改革の夢は崩れた。
- なぜ大事?:
- 統合失調症の増加は、新しい病気として精神医学の歴史を変えた可能性。
- 患者の苦しみを理解することで、精神疾患が「本物」とわかる。