以下に、ヤスパースの概念である「説明(Erklären)」と「了解(Verstehen)」を臨床で区別しながら用いるためのチェックリストを提示します。これは精神療法・精神科診察の場面において、患者の訴えや行動を評価・記述する際の「二つのまなざし」を明確に意識するための実践的な道具です。
🧾 説明と了解を区別するための臨床チェックリスト
(Checklist for Distinguishing Erklären and Verstehen in Clinical Settings)
観点 | ✔️ 説明(Erklären) | ✔️ 了解(Verstehen) |
---|---|---|
🔎 目的 | 原因を解明する(なぜ起こったか) | 意味を理解する(どのように感じているか) |
🧪 方法論 | 因果関係・統計モデル・診断基準 | 共感的な想像・内的連関の理解 |
🔬 着目点 | 行動や症状の外在的要因(脳、遺伝、環境) | 思考や感情の内在的意味(信念、価値観、人生史) |
🧠 典型的モデル | 医学モデル(DSM/ICD、脳科学、薬理学) | 現象学的・心理力動的モデル(物語、葛藤、象徴) |
📌 例:幻聴 | 側頭葉の異常、ドーパミン過活動など | 「誰かに責められているようで怖い」「母親の声に似ている」 |
📌 例:拒食症 | セロトニン系の異常、強迫傾向、社会的圧力 | 「太ると汚いと思われる」「私の価値は体型にある」 |
📋 診断との関係 | 診断名や疾患単位に基づく整理 | 個人の体験的歴史に沿った意味構造の記述 |
⏳ 時間意識 | 症状がいつ・どのように出たか | 体験がどのように発展・変容したか |
👁 観察と推論 | 他者の目から見て「説明可能か」 | 本人の内側から「意味がわかるか」 |
⚠️ 臨床的限界 | 原因が特定できない場合もある | 意味が断絶していると「了解不能」になる |
✅ 使用方法:ケース記述への応用
以下のように、患者の語りや行動を「説明的観点」と「了解的観点」から並列に記述していくことで、両者の視点をバランスよく保つことができます。
■ 例:25歳女性、強迫症状(手洗い)
領域 | 説明的視点(Erklären) | 了解的視点(Verstehen) |
---|---|---|
発症の背景 | 母親が潔癖で、子どもの頃から厳しい衛生教育 | 「母に認められるためには清潔でなければならない」と感じていた |
現在の症状 | 扁桃体−前頭前野回路の過活動が報告されている | 「汚れを落とさないと、何かが壊れる気がする」 |
患者の主観 | 「自分でも馬鹿げてると分かってるけど止められない」 | 「汚れ=失敗や不完全さの象徴のように感じる」 |
🛠️ フォーム形式(記録用テンプレート)
# 説明と了解の臨床記述シート
■ 患者名:
■ 年齢・性別:
■ 主訴/診断名:
【説明(Erklären)】
- 発症時期と経過:
- 生物学的要因(脳、遺伝など):
- 社会・環境的要因:
- 他疾患との関連性:
【了解(Verstehen)】
- 主観的体験の語り:
- 意味づけ(本人にとってのその症状の意味):
- 人生史的連関(過去の体験とのつながり):
- 象徴的な表現や比喩:
【両者の接点・矛盾点】
- 説明と了解が一致する点:
- 相互に説明しきれない(断絶)部分:
🎯このチェックリストを使う目的
- 説明だけに偏ると:患者の体験が「記号化」「数値化」されてしまい、主観的現実が失われる。
- 了解だけに偏ると:因果性や生物的根拠を無視し、臨床判断や介入の妥当性が危うくなる。
ヤスパースの強調したように、**「説明と了解は、相互補完的に用いるべき精神医学の基本二軸」**です。
🧩補足:精神病の場合の「了解不能性」について
ヤスパースは、「了解不能な体験」の存在も明確に指摘しました。たとえば:
- 妄想性障害の飛躍的信念形成
- 自己同一性の喪失
- 語の意味や論理の崩壊
これらは「内的連関」が感じられず、「了解不可能」とされます。ただし、それでも了解しようとする努力自体が臨床的倫理であるとヤスパースは述べています。
📚 参考文献
- Karl Jaspers: Allgemeine Psychopathologie(1913)
- 木村敏『了解と行為』『時間と自己』
- 中井久夫『分裂病と人類』
- 宮本忠雄『現象学的精神病理学序説』