――人生の意味を探し求める旅の傍らで――
わたしたちは、意味を探しながら生きている――いや、意味を探すことなしには、生きていけない生き物だ。朝、目が覚めてベッドの中でぼんやりと天井を見上げるとき、その白い天井の向こう側に、ふと「なぜ?」という問いが浮かぶ。今日は何をするのか、ではない。「なぜ、今日という日が存在するのか?」。
この問いに、即答できる人は少ない。だが、この問いを発し続けることこそが、人間の営みである。哲学者ヤスパースが語ったように、われわれは「限界状況」のなかで、はじめて存在の深みと出会うのだ。限界状況――それは、病であり、死であり、愛する者との別れであり、そして「意味の不在」である。
ある青年が、私のもとを訪れた。何をしても心が動かない、と彼は言った。仕事には意味がない。友人と過ごす時間も、空虚に感じられる。テレビを見ながら笑うことはあっても、ふとした瞬間に、「自分はいったい何のために生きているのか?」という問いが心の底から湧き上がってきて、動悸がするという。
――「私は、このまま何にもなれずに、ただ消えてしまうのかもしれません」
その声に、私はどこか既視感のようなものを覚えた。何かに似ている。たとえば、ニーチェの語った「空虚の深淵」に立ち尽くす声だ。
意味を欠いた世界に投げ込まれて
私たちは、本質的な意味を欠いた世界にあらかじめ投げ込まれている。生まれてしばらくしてからそのことに気がつく。この感覚は、しばしば世代を超えて現れる。子どもであれ、大人であれ、ある年齢に達したとき、誰しもが「なぜ自分はここにいるのか」という問いと向き合うことになる。フランクルは、強制収容所という極限の状況のなかで、「意味を問う力こそが人を生かす」と記した。彼の言う「意味への意志」は、マズローの言う「自己実現」をさらに超え、「自己超越」へと向かう意志である。
自己超越という鍵
本当の意味は、自分の外側にある。これは多くの思想家が繰り返し述べてきたことである。たとえばユダヤ神秘主義のカバラ思想においては、人間は「器」であり、その器を満たすものは、自我ではなく「他者への愛」だ。仏教においても、空(くう)とは「すべての存在が他との関係性においてのみ意味を持つ」ことを示している。
つまり、「私は誰かのために生きる」という姿勢――それこそが意味の根源なのである。それは利他的であれば一番良いが、そうでなくてもかまわない。何かに打ち込む、誰かを愛する、芸術を創造する、自然と触れ合う――いずれにしても、「自分の外」に身を投げ出すという運動が、意味を呼び覚ます。
フランクルの言う「意味への関与 engagement」は、この点で重要な示唆を与える。セラピーにおいて私たちがすべきことは、「意味とは何か?」と問うことではない。それは哲学の仕事だ。われわれ臨床家の務めは、クライエントが「何か」に関与できるように、その障壁を取り除くことである。
関与を妨げるもの
人が意味に関与できないとき、その背後にはさまざまな障壁がある。恐れ、トラウマ、無力感、対人不安、過去の失敗――。これらはすべて、世界との接続を妨げる「断絶」の力である。
たとえばある高齢の女性は、長年連れ添った夫を亡くして以来、誰とも関わらず、部屋でラジオを聴くだけの生活を続けていた。ある日、ふと近所の子どもに声をかけられ、手編みのセーターを贈った。それがきっかけで、彼女は近隣の保育園にボランティアとして通うようになった。「この年になって、生まれて初めて、私が役に立てることを知りました」と彼女は微笑した。
意味とは、壮大な理想ではなく、こうした些細な関与の中に宿る。
カウンセラーの役割――人間学的視点から
人間学的精神療法とは、「人間とは何か」という問いを常に携えながら、個人の存在を全体として捉え、援助する立場である。ロゴセラピー、実存分析、現象学的アプローチ、これらはすべて、人間を「存在としての存在(Dasein)」として見ることを求める。
この視点に立つと、人生の意味を求めるクライエントは、決して「病める存在」ではない。むしろ、より深く生きようとするがゆえに苦しんでいる「覚醒した存在」である。
私たち援助者は、「意味」という抽象概念を説く教師ではない。クライエントが、いまここで関与できる対象――たとえば、ガーデニング、詩作、あるいは地域猫への餌やり――を一緒に探す伴走者である。
不器用で、傷つきやすく、それでも誰かを想うことでかろうじて生きている。そうした人間の姿を、私たちは日々の面接で目にする。
最後に――墓碑銘に何を刻むのか
あなたは、自分の墓碑銘に何を望むか。
「優しい父だった」
「よく働いた」
「世界に小さな変化をもたらした」
墓碑銘に刻むにふさわしい言葉を発見することが、人生の意味を構築するということなのかもしれない。
カウンセラーの仕事は、その墓碑銘を一緒に考えること、そして、それを書き記す「手」を、そっと支えることなのだ。
参考文献:
- フランクル, V. E. (1946). 『夜と霧』
- ヤスパース, K. (1935). 『哲学』
- マズロー, A. (1968). Toward a Psychology of Being
- 中村雄二郎. (1980). 『臨床の知とは何か』
- 木村敏. (1977). 『自己・あいだ・時間』