<心理療法の目標とは何か?>
── 症状を超えて、人間として「生きること」の深みに触れる
精神療法の本当の目標は何か──それは、単に心の痛みをやわらげることではありません。確かに、うつ、不安、強迫などの症状は、人の生活を制限し、日々の営みを困難にします。しかし、症状が消えさえすれば人生が自動的に豊かになるわけではありません。
哲学者メルロ=ポンティは、「私たちは世界の中に投げ込まれている存在である」と述べました。それはつまり、私たちが何者であり、どう生きるのかを、私たち自身が探りながら作っていかなければならないということです。
「生きる意味はあるのか」ではなく、「自分で、生きる意味を作り出す」のです。
精神療法は、この「生きるという問い」を共に生きる営みです。表面的な苦しみを取り除くだけでなく、その苦しみの向こうにある「私とは誰か」「どう生きたいのか」という存在の問いに触れる場なのです。
<実存の地平に向かうとき>
ある30代の男性は、繰り返す職場での不安と不眠を訴えて来談しました。最初は「眠れるようになりたい」「プレゼンが怖くなくなりたい」と言っていましたが、数か月のセッションを経て、彼はふとこんな言葉をこぼしました。
「でも、そもそも……俺は、なぜこんな仕事を選んだんだろうって、最近考えるんです。毎朝、電車に乗ると息が詰まるような気がして……。俺の人生、これでいいんですかね」
彼の「不安」は、単なる不快な症状というより、人生の深層で鳴っていた鈍い警鐘だったのです。
ヤスパースの言う「限界状況」──病、死、孤独、罪──は、しばしば我々を実存の深みに引きずり込みます。そこでは、人はただ「治る」ことよりも、「変わらざるを得ないこと」と向き合わされるのです。
私はそれを、「魂が悩んでいる」と表現しています。
なぜ涙が出るのか、それは魂が泣いているのです。
精神療法は、そのような変化の戸口に佇む人と共に立ち、「そこに意味はあるかもしれない」と語りかける行為です。ヴィクトール・フランクルが強調したように、人はどんな苦しみの中にも意味を見出す力を持ちうる。そしてその意味が見出されるとき、人は変容するのです。
<「自己の変容」という長い旅路>
ロジャーズは「自己一致(congruence)」という概念を提示しました。これは、自分の内側にある感情、欲求、価値観が、外側に現れている自己と一致している状態を指します。
多くの人は、「こうあらねばならない」という社会的期待や家族の価値観に無意識のうちに従って生きています。しかし、ある日ふと、「私は誰の人生を生きているのだろう?」という問いが立ち現れるとき、自己一致の希求が始まるのです。
精神療法が目指すのは、この「自己一致」に向かう歩みを支えることです。それは、内なる声に耳を傾け、まだ言葉にならない欲求に形を与え、過去に抑圧された感情に命を与える過程です。
それは短期的な「治癒」よりも、長期的な「覚醒」に近いものです。
それは「症状がなくなる」ことよりも、「自分の人生に深く根を下ろして生きる」こと。
人間は誰でも、人生の義務として、「やらなければならないこと」があるものです。家族のために生活費を稼ぐ。親を介護する。子供を養育する。配偶者を愛する。
その、「やらなければならないこと」が苦痛であれば、人生は楽しくないでしょう。しかし人間は、最初は義務的に始めたことでも、長い間に、「やらなければならないこと」が「やりたいこと」になってゆく瞬間があるものです。
なぜかはよく分からないけれども、そのようにできていると思います。
ACT(アクセプタンス アンド コミットメント)では、自分が選び取った価値観を実現するように行動することを説きます(それがコミットメント)。それが自己一致した(congruent)生き方です。
<苦しみの意味が変わるとき>
精神療法を受ける人々の中には、「何も問題があるわけではないのに、なぜか生きづらい」と語る人が少なくありません。彼らの訴えは漠然としており、診断基準には収まりませんが、その苦悩は本物です。
そうした人々に共通するのは、人生の輪郭がぼやけ、どこか自分から遠ざかっているという感覚です。自分の「居場所がない」「声が届かない」「本当の自分が見えない」という実存的な孤独です。
精神療法は、そうした曖昧な苦しみに光を当て、その背後にある物語を丁寧にひもといていく営みです。時間をかけて、自分の言葉を取り戻す過程です。そしてそのとき、人は初めて、自らの苦しみに意味を与えることができるようになるのです。
その人にはその人の物語があるのです。それが聴こえるるまで、耳を傾けます。
<症状を超えて、「私の人生」を生きる>
短期療法が「機能回復」に向けて直線的に進むとすれば、精神力動的・実存的アプローチは、しばしば曲がりくねった、けれども豊かな道を歩みます。そこには明確なマニュアルも、すぐに測定できる成果もありません。あるのは、いま・ここに共にいるという沈黙の時間、語り、涙、沈思──そうした「存在の共有」のプロセスです。
その果てに、人は「ただ苦しみから解放される」のではなく、「その苦しみさえ含めて、自分の人生を生きている」という確かさに触れるのです。
精神療法とは、ただ「よくなる」ためではなく、「より真に生きる」ための場である──そのような考えが、いま再び求められているのかもしれません。
