ごん狐 新美南吉

新美南吉 ごん狐

この話は、小学校の頃に、みんなが習う。
大人になって思い返すと、大変苦しい話である。
子供にこのようなものを読ませて、どのような心を養えというのだろうかとさえ思ったりする。
残酷ではないか。

小学校の先生と話したところ、
その人の考えでは、最後の部分、

「ようし。」
 兵十は立ちあがって、納屋なやにかけてある火縄銃ひなわじゅうをとって、火薬をつめました。
 そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間どまに栗が、かためておいてあるのが目につきました。
「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。
「ごん、おまいだったのか。いつも栗をくれたのは」
 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
 兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口つつぐちから細く出ていました。

この部分の、
青い煙が、まだ筒口つつぐちから細く出ていました。
というところで、余韻が深く残るとのことだった。

そうかもしれないと思ったけれど、腑に落ちない感じだった。

子供用の絵本にかかわっている人の話を聴く機会があった。

ごん狐についての疑問を話した。
その人によれば、
絵本として作る時に、最後の場面の挿絵は、
ごん狐がまだ生きている様子で描かないといけないんです、
死んでしまっているように見えてはいけない、
とのことで、
なるほど、文章には確かに、明白に、

「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」  ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。

とあって、ごんは、うなずいているのである。
目をつぶったまま、うなずくのであるから、これを絵に描くのは簡単ではないのは理解できる。

この部分から考えると、ごんは確かに報われていて、救われているようだ。

私がきちんと読解できていなかっただけなのである。
子供のころ、私は、ごんは死んでしまったとだけ、理解して感じていたのだろう。
ごんは兵十の言葉を聞いて、うなずいた。
死んだとは書いていないけれども、たぶん死んだと思う。

言葉を聞いて、うなずいて、それから死ぬのと、
死んでから、言葉が頭の上を過ぎてゆくのと、
決定的に違うとの考えもあれば、
何も違いはないとの考えもあるだろう、
それもそうだろうと思う。

でも、業界の共通認識として、というか、その業界の人なら当然心得ていることとして、
挿絵を描くときには、ごんは死んでいてはいけないんだとのことで、
それが思想とかの問題ではなく、テクニカルなこととされている感じで、
何か、子供の教育に携わる人たちがしっかりしている様子で、大変心地よい体験だった。

ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
これと、
ごんは死んでしまいました。
との違いを挿絵としてどのように表現しているのか、興味がわいた。
無理なようにも思うが、何か工夫があるもなのだろう。
動画であれば、まだ生きている様子は何とか描けると思うが、
絵本の挿絵だとどうなのだろう。

出版社の社長さんの話によれば、出版社に入社してくるような人は、
人間は誰でも本を読みたがるものだと思っているようで、
驚きますよと、諦めたような、あきれたような、讃えるような、話しぶりだった。
その社長の弟さんは精神科のお医者さんで、変り者で、一族の中でも有名でよと、
これも諦め顔で話していた。
精神科医内部では、紳士として知られている先生だ。あの先生を変り者と言うなら、
その周囲にいるさらに変わり者の精神科医たちはどのように映っているのだろう。

子供の出版の世界もデジタル化の時代になっていて、
IT技術者さんたちが多数採用された。
この人たちは、従来の、出版社の本好きの社員たちとずいぶん人種が違う。
それも興味深いとのことだった。
サイトを見たら、子供さん用らしい、優しい感じのサイトだった。
これならこどもに勧められると思った。

漢字の書き順をチェックしてくれたりもする。
この分野ではベネッセが先行していてなかなか追いつけないとのことだ。
ベネッセの経営者・福武さんからは以前、瀬戸内海の直島の美術館のことでお話を伺ったことがある。
夢のあるお話の一方で、事業では先行していたんですね。

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