先輩は、ブラームスには思想があると言っていた。
マーラーは、映画音楽以上のものではないとも言っていた。
年を取ったらモーツアルトの音楽の秘密を解明したいと言っていた。
結局は音の連なりなのだから、その連なりの中に、秘密はある。
そして、楽譜は残されていて、秘密は隠しようもないように見える。
現代音楽の作曲家に、モーツァルト風に書いてと言えば、書けるものなのだろう。
彼らにとってはそれはつまらないから、書かないだけなのだと思う。
職人にははっきり見えているものなのだろう。
ブラームスを聴き、楽譜と突き合わせながら、感情が動いているだけではなく、
思想が動いているということらしい。
一方では、マーラーは、感情は動くが、思想は動かないという意味だったらしい。
ヒトの脳は概略で言って、三層構造と考えたらどうかとの考えがある。
爬虫類の脳、サルの脳、ヒトの脳、という具合に三層になっていて、
自律神経(呼吸、脈拍)、感情、思考と関係づけることもできる。これも概略であるが。
そうすると、自律神経まで届く音楽と、感情まで届く音楽、さらには、思想まで届く音楽があるのだろう。
先輩の場合は、音楽を聴きながら、脳の新皮質が活動する、そのような状態だったのだと思う。
丸山眞男とブラームスの話で、似たようなことを書いていたように思う。
丸山眞男がブラームスを研究していないで、その時間を本来の研究に振り向けてくれていたら、どんなに良かったかと、賞賛するような、非難するような、両方を感じさせるような表現だった。
私の場合は、サルの脳までしかないようなので残念なことである。
プレとトランスの錯誤について考えている。
宗教体験について、素朴唯物論的自然科学的態度から見れば、それ以前の、啓蒙思想以前の、宗教的暗黒の中の時代がプレであって、一方、素朴唯物論的自然科学的態度以後の、より高次の宗教体験をトランスと表現する。
素朴唯物論的自然科学的態度から見て、プレとトランスは混同されやすい。混同している場合をプレとトランスの錯誤と呼んでいる。翻訳なので、日本語としてはブレがある。原典はケン・ウィルバーである。
私のように、新皮質の乏しいヒトにとっては、ブラームスの音楽も、新皮質を刺激するものにはならず、マーラーと同じように、感情を刺激する音楽にとどまることになる。
猫に小判である。馬の耳に念仏だ。
耳には聞こえていても、脳の新皮質までは届いていない。
バッハやモーツアルトで、思考の基線が整うということはある。そこまでは確かに感じられる。
