精神病理学の社会的構築:科学的客観性という神話の脱構築

精神病理学の社会的構築:科学的客観性という神話の脱構築

序論:発見される「病」か、構築される「問題」か

精神病理学の概念、すなわち「精神障害」や「精神疾患」といった用語は、科学的に発見される客観的実体なのだろうか。それとも、特定の時代や文化の価値観によって定義される社会的な構築物なのだろうか。この問いは、心理学と精神医学の歴史を通じて絶えず議論の的となってきた、根源的かつ未解決の論争である。この問いにどう答えるかは、単なる学術的な思弁にとどまらない。医療哲学者のローリー・レズネック(1987)が論じるように、ある状態を病気として分類することは、極めて重要な結果をもたらす。それは、「我々は医学者に対し、その状態の治療法を発見するよう努めるべきだと伝え」、研究を支援するよう促し、「薬物療法、外科手術などの医学的手段によってその状態を治療することが適切であると指示を出し」、「裁判所に対し、その状態の現れについて本人に責任を負わせることは不適切であると伝える」行為なのである。ある状態を「病気」と分類することは、研究の方向性、治療の正当性、保険適用の可否、法的責任の有無、そして社会全体の対応に至るまで、個人、専門家、社会制度に広範な影響を及ぼすのだ。

本稿は、精神病理学の概念が本質的に社会構築物であるという立場を論証することを目的とする。そのために、まず第1章では、精神病理学を客観的に定義しようとする歴史的な試み(統計的逸脱、不適応など)を批判的に検討し、それらがすべて価値判断という根本的な問題から逃れられないことを示す。続く第2章では、DSMのような伝統的な分類システムが依拠する「カテゴリーモデル」の限界を、正常と異常の連続性を仮定する「次元モデル」を支持する圧倒的な経験的証拠から明らかにする。最後に、第3章と第4章において、社会構築主義の理論的枠組みを提示し、DSMを具体的なケーススタディとして、その分類システムがどのように特定の文化的価値観と権力構造を反映し、日常生活の「精神医療化」を推し進めてきたかを分析する。この分析を通じて、我々は精神障害が「発見」されるのではなく、社会的に「発明」されるプロセスを解明していく。

1. 精神病理学定義の試みとその内在的矛盾

精神病理学の歴史は、その対象を客観的に定義しようとする絶え間ない試みの歴史であった。科学的妥当性を追求する中で、様々な概念が提唱されては、その内在的な矛盾によって批判されてきた。これらの概念は、いずれも主観性と価値判断の問題から逃れることができないという共通の欠点を抱えている。これらの定義の試みを一つずつ批判的に分析することは、精神病理学の概念がいかに科学的客観性という理想からかけ離れており、社会的構築物としての性質を帯びているかを理解するための不可欠な第一歩である。

統計的逸脱

精神病理学の最も「常識的」な概念の一つは、それを統計的に稀な、あるいは平均から逸脱した現象と見なす考え方である。「異常(abnormal)」という言葉が文字通り「規範(norm)から離れている」ことを意味するように、このアプローチは多くの人にとって直感的である。パラノイア的妄想のような稀な経験を病理的とし、日常的な悲嘆をそうでないと区別することは理にかなっているように思える。また、この概念は心理測定尺度を用いて逸脱の程度を数値化できるため、科学的な体裁を保ちやすいという魅力も持つ。

しかし、その魅力にもかかわらず、この概念は深刻な問題を抱えている。第一に、我々は通常、逸脱の「片側」のみを問題視する。例えば、統計的に稀であるという点では同じでも、知的障害は病理的と見なされるが、知的な天才はそうではない。第二に、測定の基盤となる構成概念(例えば「知能」)の定義自体が、科学ではなく社会的価値観に依存している。「知能とは何か」という問いに対する答えは一つではなく、どの定義が「正しい」かを客観的に決定する方法は存在しない。社会が価値を置く能力(例:感情的知能)が変化すれば、知能の定義もまた変化するのである。

最後に、そして最も決定的な問題は、「正常」と「異常」を分ける境界線の設定が、科学的根拠に基づかず、完全に恣意的な慣習に過ぎないという点である。平均から標準偏差1つ分離れている点を境界とするか、2つ分離れている点とするかは、事実の問題ではなく合意の問題である。その境界線をどこに引くかによって、「精神障害」の有病率は劇的に変化するが、どの境界線も他のものより科学的に「真実」であるわけではない。それは、温度計の目盛りのどこかに「暑い」と「寒い」を分ける絶対的な境界線が存在しないのと同じである。

社会的逸脱

この統計的逸脱の恣意性を、より非形式的な社会的・文化的慣習に置き換えたものが、社会的逸脱という概念である。ここでは、個人の思考、感情、行動が、その文化で受け入れられているルールや慣習から逸脱している場合に「病理的」と見なされる。例えば、かつてアメリカ社会においてオナニーや同性愛は精神疾患と見なされ、治療の対象とさえなった。奴隷制度が容認されていた時代には、逃亡しようとする奴隷は「ドラペトマニア(逃亡奴隷精神病)」という診断を下された。

このアプローチの欠陥はその極端な主観性にある。社会的基準は文化や時代によって大きく変動するため、ある文化や時代における「異常」は、別の文脈では完全に「正常」となりうる。さらに深刻なのは、社会規範への違反が、必ずしも不適応を意味しないどころか、むしろ適応的でありうることだ。例えば、女性参政権や公民権を求めて活動した人々は、当時の社会規範から逸脱した「異常」な存在だったが、彼らが心理的に不健康であったとは到底言えない。社会規範からの逸脱を病理と見なすことは、現状維持を是とし、社会変革の試みを病理化する危険性を常に内包している。

不適応(機能不全)行動

この概念は、行動が統計的に稀かどうかではなく、その人の目標達成やストレス対処にとって「うまく機能しているか」どうかに焦点を当てる。ある行動が個人の人生にとって有効でなければ「不適応」、有効であれば「適応的」と見なすこの考え方は、常識的な魅力があり、DSM-5の精神障害の定義にも「著しい苦痛または障害」という形で取り入れられている。

しかし、この概念もまた主観性の罠から逃れられない。「適応」と「不適応」の境界は曖昧であり、その判断は、行為が行われる状況、個人の目標、そして観察者の価値観に大きく依存する。ある状況では適応的な行動が、別の状況では不適応的となりうる。さらに、統計的異常性と不適応性は必ずしも一致しない。例えば、多くの人にとって不適応な側面を持つ「内気さ」は、統計的には非常にありふれた特性である。客観的な基準なしに、何が「不適応」かを定義することは不可能なのである。

苦痛および能力障害

不適応の概念を洗練させ、個人の主観的な苦痛(不安、悲しみなど)や能力障害(目標達成の制限)に焦点を当てるアプローチも存在する。DSMの定義もこれらの要素を重視している。人々がメンタルヘルスの助けを求めるのは、まさに苦痛を感じ、望むような人生を送れていないと感じるからである。

しかし、このアプローチもまた、根本的な主観性の問題を解決しない。何が耐え難い「苦痛」で、何が深刻な「能力障害」なのか、そしてどの程度のレベルで専門家の助けが必要なのかという判断基準は、個人や文化によって大きく異なる。「どの程度なら多すぎるのか?」という問いに、科学は客観的な答えを与えられない。さらに、反社会性パーソナリティ障害のように、本人は主観的な苦痛をほとんど感じず、むしろ社会に害を及ぼすような状態も存在し、この定義の矛盾を露呈している。

有害な機能不全(Wakefieldモデル)

ジェローム・ウェイクフィールドは、精神障害を「有害な機能不全(harmful dysfunction)」と定義し、価値(有害)と科学(機能不全)を統合しようと試みた。彼によれば、「有害」とは社会規範に基づく価値判断であり、「機能不全」とは、進化によって設計されたはずの精神的メカニズムがその本来の機能を果たせない状態を指す科学的な事実である。

このモデルは、精神障害の定義に価値判断が含まれることを認めつつ、進化論という科学的基盤に固定しようとする点で野心的である。しかし、その科学的主張は脆弱である。第一に、進化は特定の設計図を持つ方向性のあるプロセスではない。第二に、ウェイクフィールドが想定する「精神的メカニズム」は、脳の物理的な働きとは異なり、直接観察することも測定することも不可能な抽象概念である。そして最も重要な点として、「機能不全」であるかどうかの判断自体が、結局は「その行動が過剰か、不適切か、不適応か」といった価値判断を必要とする。科学的な装いの下で、結局は他の概念と同じ主観性の問題に回帰してしまうのである。

このモデルの根本的な限界は、ウェイクフィールド自身の立場の変遷に最も明確に現れている。彼の当初の目標は「精神障害を規定的に定義する」こと、すなわち科学的基準によって何が障害であるかを決定することであった。しかし、批判に直面した後のより最近の見解では、彼は「いかなる規定的主張も避け、代わりに障害概念の慣習的な臨床的使用法を説明することに焦点を当てている」と述べている。これは決定的な譲歩である。科学的真理を規定する試みは、結局のところ、専門家集団がどのように用語を使うかという社会的慣習を記述する作業へと後退してしまったのだ。最も洗練された科学的定義の試みでさえ、最終的には社会的合意の記述へと収斂するという事実は、精神病理学が本質的に社会構築物であることを何よりも雄弁に物語っている。

ここまで検討してきた精神病理学の主要な定義概念は、いずれも客観的な科学的基準としては不十分であることが明らかになった。統計的逸脱、社会的逸脱、不適応、苦痛、そして有害な機能不全、そのすべてが、価値判断と主観性という根本的な問題から逃れられない。そして皮肉なことに、これらの問題だらけの概念のすべてが、現代の公式な分類システムであるDSMやICDの定義の中に複雑に織り込まれているのである。

2. カテゴリーモデルの限界と次元モデルの台頭

DSMやICDのような伝統的な精神医学的分類システムは、ある人が特定の障害を「持っている」か「持っていない」かという二元論的な区別を前提とする、カテゴリーモデルに基づいている。これは、精神障害が健康な状態とは質的に異なる、明確な境界線を持つ個別の実体であるという考え方である。しかし、このモデルの妥当性は、正常と異常は明確に分離できるものではなく、一つの連続体(スペクトラム)上にあると仮定する次元モデルを支持する膨大な経験的証拠によって、根底から揺るがされている。

次元モデルの基本思想は、いわゆる精神障害を、正常な心理現象(例:不安、悲しみ、内向性)の極端な変異として捉えることにある。このモデルによれば、「健康」と「病気」の間に引かれる境界線は、自然界に客観的に存在するものではなく、臨床的判断や社会制度上の便宜のために人為的に引かれた恣意的な線に過ぎない。

この次元的見解を支持する経験的証拠は、精神病理学のほぼすべての領域にわたって蓄積されている。

  • パーソナリティ障害: 精神病質(サイコパシー)や境界性パーソナリティ障害などの特性は、一般人口と臨床人口の間で連続的に分布しており、明確なカテゴリーとして分離できないことが多くの研究で示されている。
  • 精神病症状: かつては「正常」とは完全に断絶していると考えられていた統合失調症の症状(妄想や幻覚など)も、一般人口において軽微な形で驚くほど一般的に見られることが明らかになっている。DSM-5に「減弱精神病症候群」というカテゴリーが導入されたこと自体、精神病が全か無かの現象ではないことを暗黙に認めたものである。
  • 注意欠如・多動性障害(ADHD)、うつ病、不安障害: これらの広く知られた障害もまた、正常な注意力の変動、気分の落ち込み、心配といった経験の連続体の極端な形として理解するのが最も妥当であることが、数多くの研究によって支持されている。
  • その他の多数の障害: 上記に加え、自閉スペクトラム症、物質使用障害、読字障害(ディスレクシア)、心的外傷後ストレス障害(PTSD)、摂食障害、行為障害、ギャンブル障害、ためこみ症など、DSMに記載されている極めて広範な障害についても、カテゴリーではなく次元として捉えるべきことを示唆する証拠が提出されている。

この学術的な潮流の変化は、米国立精神衛生研究所(NIMH)が主導する新しい研究フレームワーク「研究ドメイン基準(RDoC)」や、精神病理学の階層的分類法(HiTOP)といった取り組みにも明確に表れている。これらの最先端の研究アプローチは、従来のDSMのカテゴリー分類から離れ、精神機能の次元的な理解をその基本的前提としている。

次元モデルを支持する圧倒的な証拠は、「健康」と「病気」の間に科学的に引ける明確な境界線が存在するという、カテゴリーモデルの根底にある本質主義的な仮定を根底から覆すものである。これらの区別は、自然界にあらかじめ存在し「発見」されるのを待っている境界線ではなく、歴史的な経緯と実際的な必要性によって「構築」されたものに他ならない。この知見は、我々に次なる問いを突きつける。すなわち、もし精神病理学の概念が科学的発見の産物でないとしたら、それは一体何なのか? この問いに答える鍵は、社会構築主義の視点にある。

3. 社会構築主義の視点:権力、価値、そして「発明」される障害

精神病理学の定義をめぐる科学的アプローチが行き詰まりを見せる中で、社会構築主義は、全く異なる視点を提供する。それは、客観的な定義を見つけようとする試みを放棄し、そもそも定義をめぐる闘争自体がなぜ、どのようにして起こるのかを問う視点である。この枠組みは、精神病理学の概念が、科学的真理の探究ではなく、社会的なプロセスを通じて構築されることを明らかにする。

社会構築主義の核心的主張は、ケネス・ガーゲン(1985)の言葉を借りれば、「人々が自分たちが住む世界を記述し、説明するようになるプロセスを解明すること」にある。この観点から見ると、「精神障害」のような概念は、普遍的で不変のカテゴリーではなく、「特定の歴史的および文化的理解の産物」(Bohan, 1996)である。それらは、客観的に存在する「自然な実体」と見なす本質主義的な観点とは対照的に、誰がそれらを定義する権限を持つか、すなわち権力を持つ人々の利益や価値観を反映した、交渉の産物なのである(Muehlenhard & Kimes, 1999)。

では、ある行動パターンが「障害」として社会的に構築され、あたかも客観的な実体であるかのように扱われる(実体化される)プロセスは、具体的にどのように進むのだろうか。その典型的な段階は以下の通りである。

  1. 逸脱した行動パターンの特定: まず、誰かが社会規範や理想から逸脱していると見なされる行動、思考、感情のパターンに注目する。
  2. 影響力のあるグループによる問題化: 医師、研究者、製薬会社など、影響力を持つグループが、このパターンを制御、予防、あるいは「治療」することが望ましい、または利益になると判断する。
  3. 科学的な名称の付与: そのパターンに、科学的権威をまとわせるため、ギリシャ語やラテン語を起源とする、もっともらしい名称が与えられる(例:Attention-Deficit Hyperactivity Disorder)。この新しい名称は大文字で表記され、やがてADHDのような頭字語に短縮されることもある。
  4. 診断マニュアルへの収載による実体化: その名称がDSMのような公式な診断マニュアルに「障害」として収載されると、それは単なる記述から、独立した病気のような実体へと格上げされる。
  5. 受容と診断の開始: 新しい「障害」のニュースが広まると、専門家はそれを診断し始め、一般の人々も自分自身や他者をそのレンズを通して見るようになる。
  6. 科学的研究による「実在」の強化: ひとたび「障害」として定義されると、それは科学的研究の対象となる。そして皮肉なことに、その「障害」に関する研究が増えれば増えるほど、それが本当に「実在する何か」であるという信念が社会的に強化されていく。

このプロセスが示すのは、精神障害とは、考古学的遺物やウイルスのように地中や顕微鏡下から「発見」されるものではなく、社会的な交渉と合意を通じて「発明」されるものであるという、社会構築主義の結論である。それは、人々の苦しみが現実ではないという意味ではない。むしろ、その苦しみに「精神障害」という特定のレッテルを貼り、特定の意味を与える行為が、科学的プロセスではなく、価値観と権力が深く関与した社会的プロセスであるということを意味している。次の章では、この理論的枠組みを、現代精神医療において最も影響力のある文書であるDSMに適用し、その具体的な現れを検証する。

4. ケーススタディ:DSMと精神医療化の拡大

前章で提示した社会構築主義の理論は、精神医学的分類の具体例であるDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)を分析することで、より鮮明に理解することができる。DSMの改訂の歴史は、客観的な科学的知見の蓄積というよりは、いかにして「精神障害」の範囲が社会的に拡大され、かつては正常と見なされていた人間の悩みや経験が病理化(精神医療化)されてきたかの記録である。

DSM定義の自己矛盾

DSM-5-TRにおける「精神障害」の公式な定義そのものが、この問題点を象徴している。その定義には、「臨床的に意味のある障害」「著しい苦痛または能力障害」「予期されない反応」「個人の機能不全」といった言葉が並ぶ。これらは、第1章でその客観性の欠如を批判した、統計的逸脱、不適応、苦痛、機能不全といった概念の寄せ集めに他ならない。「臨床的に意味のある」とは何を基準に判断するのか? 「個人の機能不全」とは、その個人が置かれた社会的文脈と切り離して定義できるものなのか? これらの問いに対する客観的な答えはなく、定義自体が解釈の余地を大いに残す、主観的なものとなっている。世界保健機関(WHO)のICD-11の定義も、同様の問題を抱えている。

診断カテゴリーの爆発的増加と「日常の病理化」

DSMが客観的科学の産物というより社会的な構築物であることの最も強力な証拠は、その歴史的な膨張にある。19世紀半ばにはわずか6個程度であった精神障害の数は、1952年の初版DSM-Iでは100余り、そして2013年のDSM-5では300個近くへと爆発的に増加した。このプロセスを通じて、かつては正常な人生の悩みや個性の範囲内とされていた経験が、次々と診断可能な「障害」へと作り変えられてきた。

  • 日常行動の病理化: 大量のコーヒーを飲めば「カフェイン中毒」、タバコをやめようとすれば「タバコ離脱」という精神障害になりうる。外見へのこだわりは「身体醜形症」、かんしゃくを起こす幼児は「反抗挑発症」と診断される可能性がある。
  • 悲嘆の病理化: DSM-5では、愛する人を亡くした後の正常な悲嘆反応を大うつ病性障害の診断から除外する規定(死別反応の除外規定)が削除された。これにより、人生で最も普遍的な苦悩の一つである悲嘆が、精神障害として診断され、投薬治療の対象となる道が開かれた。
  • 診断の流行: DSM-IVの改訂作業を主導したアレン・フランセス自身が、DSMの改訂が「診断の流行」を引き起こしてきたと警告している。自閉症、ADHD、小児双極性障害などの診断が、診断基準の変更をきっかけに劇的に増加したことは、その典型例である。

社会的・経済的要因の分析

この「診断インフレ」の背景には、純粋な科学的発見ではなく、強力な社会的・経済的要因が存在する。フランセスやパリスといった批判者は、現代社会が「期待において完璧主義的であり、正常で予期される苦痛や個人差に対して不寛容」になっている風潮を指摘する。

さらに見過ごせないのが、製薬会社の経済的利害である。彼らは、自社製品の市場を拡大するために、診断の境界を広げ、より多くの人々が投薬の対象となるよう、診断基準の改訂に影響力を行使してきた。DSM-IVの作業部会メンバーの半数以上が製薬会社と金銭的な関係を持っていたというデータ(Cosgrove et al., 2006)は、DSMが純粋な科学的文書ではなく、特定の利害関係を色濃く反映した社会的な産物であることを示唆している。

結論として、DSMは、客観的な科学の成果というよりも、特定の時代における社会の価値観、専門家の権力、そして経済的利害が複雑に絡み合って形成された社会的な構築物である。アレン・フランセスが述べたように、その無制限な拡大は「正常を絶滅危惧種にしてしまった」。この分析を踏まえ、本稿全体の議論を総括する。

結論:構築された現実と向き合う

本稿は、精神病理学の概念が、科学的に発見される客観的実体ではなく、社会的に構築されるものであることを論証してきた。まず、精神病理学を定義しようとする様々な概念(統計的逸脱、不適応など)が、客観性を欠き、価値判断に深く根差していることを見た。次に、精神障害を明確なカテゴリーとして捉える伝統的なモデルが、正常と異常の連続性を示す膨大な経験的証拠によって弱体化していることを確認した。そして最後に、これらの現象を最も説得力をもって説明する枠組みとして社会構築主義を提示し、DSMという具体的な事例を通じて、診断カテゴリーがいかにして社会的・経済的要因の影響下に「発明」され、拡大してきたかを明らかにした。

ここで強調すべきは、精神病理学の概念が社会構築物であるという主張が、人々の心理的な苦痛や苦しみの現実を否定するものでは決してないという点である。問題は苦痛の存在そのものではなく、その苦痛に我々がどのような名前を付け、どのような意味を与え、どのように対応するかという、社会的な行為である。科学は、貧困や正義といった他の社会構築物の「正しい」定義を決定することはできないが、それらが社会に与える影響や、それらに対する介入の効果を客観的に研究することはできる。同様に、我々の社会が「精神病理」と名付けた現象の起源や影響、そしてそれらを緩和するための介入方法を、科学的に研究することは可能であり、また不可欠である。

心理学と精神医学が、自らの学問の基盤となる概念の社会的構築性を認めることは、学問の衰退を意味するものではない。むしろ、それは知的誠実さの証である。臨床家は、診断カテゴリーを客観的真理としてではなく、特定の文脈における苦痛を理解するための一つの「レンズ」として用いる、より謙虚で批判的な姿勢を求められることになる。天文学が「惑星」の定義をめぐる論争を経ても、その科学性を失わなかったように、自らが扱う構成概念が、固定された事実ではなく、流動的で交渉されるものであることを認めることによって、我々は初めて、より自己批判的で、文脈を意識した、真に人間的なアプローチへの道を開くことができるのである。

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