精神病理学や関連用語(精神障害、精神疾患など)が、科学的基準によって客観的に定義できる科学用語なのか、それとも主に社会や文化の価値観によって定義される社会構築物なのか

精神病理学(Conceptions of Psychopathology)の概念は、心理学および精神医学の歴史を通じて激しい論争の対象となっており、その明確な定義を定めることは困難な課題です。中心的な論争は、精神病理学や関連用語(精神障害、精神疾患など)が、科学的基準によって客観的に定義できる科学用語なのか、それとも主に社会や文化の価値観によって定義される社会構築物なのかという点にあります。

この概念は、特定の心理現象が説明されるべき病理的なものであるかどうかを決定しようとする試みであり、病理的な現象を説明しようとする精神病理学の理論とは区別されます。精神病理学の概念化の方法は、個人、専門家、政府機関、保険会社、そして社会全体に対して広範な影響を及ぼします。

以下に、ソースで議論されている主要な精神病理学の概念と、それを取り巻く論争について概説します。

精神病理学の諸概念

長年にわたり、精神病理学を定義しようとする様々な概念が提唱されてきましたが、真に科学的な定義として十分なものは一つもありません。

1. 統計的逸脱としての精神病理学

この概念は、病理的な心理現象は「異常」(abnormal)、すなわち統計的に逸脱している、あるいは頻度が低いものであると見なします。多くの人にとって、パラノイア的妄想や幻聴といった希少な行動や経験にこの用語を使うのは理にかなっており、科学的な測定に適しているという利点があります。

しかし、この概念には問題があります。

  • 逸脱の片側性: 知的障害は病理的と見なされるが、統計的に逸脱している知的天才は病理的ではないように、一般的に逸脱の「片側」のみを問題視します。
  • 主観性の残存: 測定法を開発するための構成概念の定義(例:「知能とは何か?」)や、規範からどの程度逸脱していれば「異常」と見なされるかという境界線の決定(例:平均から1標準偏差か、2標準偏差か)において、依然として主観性が残ります。この境界線は事実の問題ではなく、特定の目的のための便宜的な合意(慣習)によって引かれるものであり、自然界に存在するものではありません。

2. 社会的逸脱としての精神病理学

精神病理学を、社会的または文化的規範から逸脱した行動として捉える概念です。この概念の問題点は、正常または許容される行動に関する社会的基準が科学的に導き出されるものではなく、文化の価値観、信念、歴史的慣行に基づいているという主観性です。規範は文化や時間とともに変化するため、精神病理学の概念も劇的に変化します(例:同性愛は1973年までDSMにおける公式な精神障害でした)。また、社会規範に違反する行動が、個人にとって適応的で有益である場合もあります(例:抑圧的な政権に反対する政治犯の行動)。

3. 不適応(機能不全)行動としての精神病理学

精神病理学を、単に統計的に異常なだけでなく、課題に対処し、目標を達成するのを妨げる行動や経験(不適応または機能不全)であると考える概念です。これは一般の人々が病理を考える「常識的」な使用法と一致しています。DSM-5は、精神障害を「通常、社会的、職業的、またはその他の重要な活動における著しい苦痛または障害と関連している」と定義し、この概念を取り入れています。

しかし、この概念もまた主観的であり、行動の適応性または不適応性は、その行動が行われる状況、行為者が達成しようとしている目標、および観察者と行為者の判断と価値観に依存します。例えば、内気さは人生において目標達成を妨げるためほぼ常に不適応ですが、非常に一般的であるため統計的に異常ではありません。

4. 苦痛および能力障害としての精神病理学

精神病理学を、主観的な苦痛(不安、悲しみなど)と能力障害(能力の制限)によって特徴づけられるものとして捉える概念です。これは不適応性の概念を洗練するのに役立ちますが、異なる人々、専門家、文化によって苦痛や能力障害の定義や許容できる閾値が異なるため、主観性の問題を解決しません。さらに、小児性愛障害や反社会性パーソナリティ障害のように、精神病理的とみなされるいくつかの状態は、主観的な苦痛を必ずしも特徴としないという問題もあります。

5. 有害な機能不全(Harmful Dysfunction: HD)としての精神病理学

ウェイクフィールドによって提唱されたHD概念は、精神障害の概念が社会文化的価値観に強く影響されていることを認めつつ、社会的価値観に依存しない科学的な核心が存在すると提唱しています。ウェイクフィールドによれば、精神障害とは「有害な機能不全」であり、有害性は社会規範に基づく価値観の用語、機能不全は進化によって設計された自然な機能を精神的メカニズムが実行できないことを指す科学用語です。

しかし、この定義も批判にさらされています。進化は方向性のあるプロセスではないため「設計図」が存在しないこと、また人間の「精神的メカニズム」の「設計された機能」を客観的に評価できるという仮定が、観察不可能な「精神的メカニズム」に依存しているためです。

現代の分類システム(DSMとICD)

『精神疾患の診断・統計マニュアル』(DSM)や『国際疾病分類』(ICD)の定義は、上記で述べられた統計的逸脱、苦痛と能力障害を含む不適応性、社会規範への違反、および機能不全の概念の要素をすべて取り込んでいます。このため、DSM-5-TRの定義は包括的で洗練された概念と見なされますが、依然として「臨床的に意味のある」苦痛や障害の程度、「予期される」反応かどうかといった、多数の主観的な解釈上の問題を残しています。

カテゴリーモデル 対 次元モデル

精神病理学の構造をどのように捉えるかについて、主に二つのアプローチがあります。

  1. カテゴリーモデル: 人々がある障害を「持っている」か「持っていない」かのどちらかであると区別しようとするモデルです。DSMの基本的な構造はこのカテゴリーモデルに基づいています。
  2. 次元モデル(Dimensional Model): 正常性(健康)と異常性(病理)が、単なる程度の問題であり、連続体(continuum)上にあると仮定します。いわゆる精神障害は、正常な心理現象や日常生活の問題の極端なバリエーションに過ぎません。

カテゴリー的アプローチが「発見」できる自然な境界線が存在するという仮定を置くのに対し、次元的アプローチはこれらの区別は「歴史的な蓄積と実際的な必要性によって」構築されたものであると仮定します。広範な研究(パーソナリティ障害、感情障害、精神病性障害、ADHDなど)が、精神病理学の現象はカテゴリー的構造よりも次元的構造を示すことを強く支持しています。国立精神衛生研究所の研究ドメイン基準(RDoC)もまた、精神病理とその神経生物学的影響を次元的なものとして捉えています。

社会構築主義的観点

精神病理学の客観的で科学的な定義を開発できないという事実を受け入れるのが、社会構築主義的観点です。

社会構築主義によれば、精神病理学や精神障害といった言葉や概念は、科学的に構築されたものではなく、社会的に構築された抽象的なアイデアです。これらは、特定の歴史的および文化的理解の産物であり、普遍的な「真の」定義は存在しません。定義は、主にそれを定義する権限を持つ人々の利益と価値観(文化的、専門的、個人的)を反映し、促進します。

この観点から、精神障害のカテゴリー(DSMの診断など)は発見されたものではなく、発明されたものであるとされます。規範から逸脱した行動パターンに科学的に聞こえる名前が付けられ、診断マニュアルで「障害」として定義されると、それはあたかも独立した自然な実体であるかのように実体化(reified)されて扱われます。精神病理学の概念をめぐる論争は、「真実」の探求というよりも、社会的な価値観や、何と誰を正常と見なし、異常と見なすかを決定するための権力闘争であると社会構築主義は主張します。

精神病理学の概念と定義は、常に論争され、変化し続ける流動的な構成概念であり、静的で具体的な事実ではありません。

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