日本的精神療法に学ぶ、時間を引き受けるための5つの智慧

日本的精神療法に学ぶ、時間を引き受けるための5つの智慧

現代社会を覆う「効率」と「成果」の熱狂は、私たちの心の深淵にまで手を伸ばしています。メンタルヘルスの領域においても、「一刻も早い回復」を求める無言の圧力が、不調に苦しむ人々を「良くならなければならない」というさらなる焦燥の檻へと閉じ込めている。

しかし、日本の精神科臨床の底層には、これとは全く異なる、静謐で強靭な態度が長年沈殿してきました。それは「急がせない」「治そうとしすぎない」という、一見すると消極的に映る、しかし極めて高度な倫理的決断に裏打ちされた臨床作法です。近代医学の合理主義に対する「静かな異議申し立て」であり、立ち止まることを許されない現代人への、魂の処方箋とも言える智慧なのです。

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1. 「何かをする」ことよりも、「そこに居続ける」という高度な技術

精神療法の専門性とは、通常、鮮やかな介入や技法の巧拙で語られます。しかし、日本的精神療法が守り抜いてきたのは、**「介入をあえて抑制し、関係を絶やさずに居続ける」**という、支持的精神療法の真髄です。

専門家はしばしば、患者を「導く者」として振る舞いたい誘惑に駆られます。しかし、真に成熟した臨床家は、変化の乏しい停滞した時間を、患者と共に耐え抜く「待つ者」であることを選びます。

「日本的精神療法の核心は、技法の巧拙ではなく、治療者がどの時間を引き受けるかという選択にある。」(第1章より)

この「時間を引き受ける」という選択は、マニュアル化された技術ではありません。目の前の人間が抱える、解決のつかない時間に自らの身を投じるという、重いプロフェッショナリズムの形なのです。

2. 「あるがまま」の真意:近代医学の「制御可能性」への懐疑

森田療法の代名詞である「あるがまま」は、しばしば安易な自己受容として誤解されがちです。しかしその本質は、**「不安や強迫を打ち消そうとしない」という強烈な「不操作の倫理」**にあります。

近代医学は、症状を管理し、介入の効果を測定するという「制御可能性」への信頼に基づいています。これに対し、日本的精神療法は、症状を人生の中心からあえて外し、コントロールしようとする傲慢さを手放します。 「良くなったかどうか」を評価する土俵から一歩退き、症状を抱えたままの時間を尊重する。この「制御可能性への懐疑」こそが、結果として患者を日常生活の現実へと繋ぎ止める、逆説的な救いとなるのです。

3. 「慢性化を許す」という選択:二つの責任の間で引き裂かれる倫理

「慢性化」は通常、治療の敗北を意味します。しかし、本書はこれを**「回復の強要による二次的な損傷を防ぐための積極的な選択」**として再定義します。自尊心の崩壊や治療不信という最悪の事態を避けるために、あえて劇的な変化を求めない勇気。

そこには、治療者が背負う「二つの責任」の葛藤があります。「もっと良くなる可能性を追うべきだ」という治癒への責任と、「これ以上揺さぶってはならない」という保護への責任。この矛盾を解消することなく、その狭間で引き裂かれながらも関係を維持し続けること。

「それは『何もしない自由』ではなく、『あえて変えないという重い決断』である。」(第6章より)

「慢性化を許す」とは、絶望ではなく、人間の脆さと時間の不可逆性を正面から引き受ける、能動的な臨床的誠実さの現れなのです。

4. 「回復(リカバリー)」という言葉の翻訳不可能性と暴力性

近年主流の「回復モデル」は、自らの人生を物語(ナラティブ)として語り直す自律的主体を前提としています。しかし、日本の臨床現場において、このモデルは時に残酷な「要請」へと変質します。

「語ること」が必ずしも救いになるとは限りません。むしろ、前向きな物語を紡げない人々にとって、回復の物語は暴力的な期待として襲いかかります。日本的精神療法が大切にしてきたのは、**「語られなくても共にいる主体」**の価値です。 沈黙や停滞を、そのまま「生きてよい時間」として承認すること。欧米的な回復モデルに翻訳しきれないこの「共有された沈黙」が、言葉による暴力から患者を守るシェルターとなるのです。

5. 都市と制度が提供する「成果を急がないためのインフラ」

日本の精神医療制度には、効率性だけでは測れない「余白」の機能が宿っています。低い自己負担での長期通院や、都市の匿名性。これらは一見、非効率なシステムの弊害に見えますが、実は**「目的のない関係」を許容するための安全装置**です。

都市という「緩衝地帯」において、人は誰からも注目されず、沈黙したまま通い続けることができます。この、誰にも何にも回収されない「予定のない時間」を制度的に保障していること。 このインフラこそが、成果至上主義の激流から患者を保護し、人が自ら動き出すための「余白」を死守しているのです。

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結び:回復を「速めない」という静かな決断

回復とは、光に向かって一直線に進むことではありません。立ち止まり、戻り、遠回りし、時には同じ場所を回り続ける。そのような「停滞」を、社会がどれだけ「価値ある時間」として承認できるかが問われています。

専門家の役割もまた、未来を提示する「導く者」から、解決のつかない現在に耐え続ける「時間を共に引き受ける者」へと再定義されなければなりません。それは、即時的な解決をあえて選ばないという「決断を先送りする勇気」を持つことです。

効率を追い求める日常の中で、私たちは自分自身や他人の停滞を、どれだけ許容できるでしょうか。回復を「速めない」という選択に宿る、静かな強さと優しさ。その、目に見えない専門性の重みに、今一度深く沈潜してみる必要があるのです。

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