ここまでの流れ(資本主義・制度・精神・抵抗・文明史)を踏まえると、「科学とは何か」は単なる定義問題ではなく、ある文明が世界とどう関係しようとしたかという問いになります。整理しつつ、いくつかの層で述べます。
1. 最もミニマルな定義
科学とは、「自然を人格や意味から切り離し、再現可能な法則として把握し、操作可能にする知の制度」である。
ここで重要なのは「知」そのものではなく、
- 切り離す(脱人格化・脱意味化)
- 再現可能性を重視する
- 操作・予測・制御へと向かう
- それが制度として固定されている
という点です。
科学は「真理への愛」だけでは成立しません。
2. 西欧近代科学の特異性
中国にもイスラームにも、古代ギリシアにも「自然についての高度な知」はありました。
しかし西欧近代科学には、次の異様な組み合わせがあります。
(1) 自然を「意味ある秩序」から切り離した
- 自然は善悪を語らない
- 自然は目的を持たない
- 自然は神話を語らない
ガリレオ以降の自然は、沈黙した対象になります。
(2) 数学化への極端な偏向
- 「測れるものだけが確実である」
- 数式で書けないものは二級市民
これは知の選別であり、価値判断です。
(3) 国家・軍事・資本との結合
- 航海
- 砲術
- 測量
- 暦
- 工業生産
科学は早い段階から統治技術でした。
3. 中国文明との対比で見えること
中国が「科学に遅れた」という言い方自体が、すでに西欧科学中心主義ですが、それを一度受け入れた上で整理すると:
中国の自然理解の特徴
- 自然は「気」の流れであり、連続的
- 人間と自然は同じ秩序に属する
- 知とは「調和の技術」
→ 自然を敵として分解し、征服する発想が弱い
つまり中国は、
自然を沈黙させることに成功しなかった
とも言えるし、
自然を沈黙させる必要を感じなかった
とも言える。
4. 科学とは「世界との距離の取り方」である
この点が本質的です。
科学は世界に対して、
- 距離をとる
- 感情を抑える
- 価値判断を保留する
- 関係性を断ち切る
という態度を要請します。
これは認識論的態度であると同時に、
倫理的態度でもあり、
政治的態度でもある。
5. 科学と資本主義の共犯関係
最初の問いに戻ると:
資本主義を可能にしたのは精神か、制度か
科学はその両者をつなぐ媒介項です。
- 精神:世界は計算できるという信念
- 制度:計算できるものだけを正当とする仕組み
- 科学:計算可能な世界像を量産する装置
科学は中立ではありません。
それは特定の世界像を自然化する力を持っています。
6. では科学は「悪」なのか
ここで単純な否定に行くと、思考は浅くなります。
科学の問題は、
- 冷たさ
- 非人間性
- 支配性
ではなく、
それ以外の世界理解を排除してしまう点
にあります。
科学は「唯一の知」になった瞬間に暴力化する。
7. 精神医療との接点
精神医療が科学に寄りすぎると、
- 痛みはスコアになる
- 苦悩は症状になる
- 物語はノイズになる
一方で、科学を拒否しすぎると、
- 恣意
- 権威
- 迷信
に落ちる。
精神医療は、
科学を使いながら、科学に回収されない領域を守る仕事
とも言えます。
8. 結論的に言えば
科学とは、世界を「意味から解放する」ことで力を得た知である。
しかしその力は、
意味を必要とする人間にとっては、しばしば暴力になる。
だから問題は、
- 科学か/反科学か
ではなく、
科学が及ばない場所を、どこまで意識的に残せるか
という問いなのだと思います。
