第9章 経済合理性とどう折り合うのか
本章の目的:精神医療制度における倫理的配慮と経済合理性の関係を分析し、両者をどのように折り合いをつけながら運用するかを考察する。
精神医療制度は、倫理的目標と経済的制約の間で常に緊張関係にある。医療資源は有限であり、政策決定や制度設計は経済合理性を無視できない(Arrow, 1963)。しかし、倫理的判断や患者個別のニーズは、必ずしも数字化やコスト計算で評価できないため、両者の調整は容易ではない。
経済合理性には二つの時間軸が存在する。第一は短期的時間軸で、予算、人的資源、施設利用率など即時的な指標に基づく意思決定である。第二は長期的時間軸で、患者の生活の質や社会復帰、制度の持続可能性といったアウトカムを評価する。短期指標に偏ると、倫理的配慮が圧迫され、制度の本来的な目的が歪められる(Porter, 1995)。
制度設計においては、数値化できないコストを認識することが重要である。例えば、患者の心理的安全、医療者の倫理的負荷、家族の負担は、直接的な財政コストに換算しにくい。しかし、これらを無視した経済合理性追求は、結果として高い社会的・倫理的コストを招く。これに対する戦略の一つは、成果指標を「減らす」ことである。評価対象を絞り、制度が倫理的柔軟性を保持できる余地を残すことが有効である(Bevan & Hood, 2006)。
また、経済合理性を「盾」として活用する手法も存在する。制度運用において、費用対効果や予算制約を理由に非倫理的圧力から個別判断を守る場合がある。例えば、制度上の制約を前提に患者対応の裁量を確保することで、倫理的柔軟性を守ることが可能である。ただし、「安上がりな制度」は必ず高くつくという逆説があり、コスト削減だけを優先すると長期的には倫理的失敗や社会的不信を招く(Le Grand, 2007)。
結論として、精神医療制度における経済合理性との折り合いは、完全な一致ではなく「調整」として理解すべきである。短期的効率と長期的倫理の両立は、制度設計者や医療者の不断の判断と調整によってのみ可能であり、このプロセスこそが制度の成熟度を測る尺度となる。次章では、この倫理・制度・経済合理性の複雑な構造の中で、世俗社会における〈信仰なき宗教性〉の可能性を検討する。
脚注:
- Arrow, K.J. (1963). Uncertainty and the Welfare Economics of Medical Care. American Economic Review, 53(5), 941–973.
- Porter, M.E. (1995). The Value of Value-Based Health Care. New England Journal of Medicine, 372, 2473–2477.
- Bevan, G., & Hood, C. (2006). What’s measured is what matters: Targets and gaming in the English public health care system. Public Administration, 84(3), 517–538.
- Le Grand, J. (2007). The Other Invisible Hand: Delivering Public Services through Choice and Competition. Princeton: Princeton University Press.
