善意と誠実さだけでは越えられない世界観の断絶が、なぜ生まれるのか

 冬の午後の研究棟は、音が吸い取られたように静かだった。廊下の蛍光灯が一定の間隔で白く点り、その下を学生が一人、足音を忍ばせるように通り過ぎていった。大学という場所は、いつも議論と知性の熱を内側に抱えながら、外見だけは無関心を装っている。男Aはその研究棟の一室、長年使い込まれた机に向かってコーヒーを啜っていた。

 Aは五十代半ば、社会思想を専門とする教員である。論文の締切が迫っているにもかかわらず、原稿は進んでいなかった。画面に表示された白いワードファイルを前に、彼はため息をついた。そこへ、ノックの音がした。

「どうぞ」

 ドアを開けて入ってきたのは、同じ学部の女性教員Bだった。四十代前半、文化研究を専門とし、ジェンダー論を中心に講義をしている。厚手のコートを腕にかけ、少し冷えた頬を指でなぞりながら言った。

「寒いですね。今日は特に」

「ほんとうに。暖房は効いているはずなんですが」

 二人は顔見知りで、学内委員会でも何度か同席していたが、腰を据えて話すのは久しぶりだった。Bは椅子に腰掛け、Aの机の上に無造作に置かれた新聞を見た。

「また、分断の話ですか」

 新聞の見出しには、アメリカ政治の混乱について大きく書かれていた。Aは頷いた。

「ええ。アメリカも日本も、分断がひどい。左右というより、両極で、まったく話が通じない感じがします」

 Bは腕を組み、少し考えるような表情を浮かべた。

「それは、前からあったことじゃないですか。今に始まった話でもない」

「もちろん。ただ、最近は質が違う。例えばアメリカで、トランプがグリーンランドをアイスランドと言い間違えた件、知っていますか」

「ええ、ニュースで見ました」

「普通なら訂正するでしょう。しかし彼は訂正しない。それどころか、報道官や副大統領まで、公式の場で『グリーンランドは氷に覆われているからアイスランドと言っても間違いではない』などと説明する。言葉が現実から完全に切り離されている。あれは、とてもおかしい」

 Bは小さく笑った。

「政治的パフォーマンスですよ。支持者に向けた」

「ええ、わかっています。ただ、そのパフォーマンスが成立してしまう土壌が怖い。日本でも似たことがあります。高市氏が、旧統一教会と勝共連合が同じだとは知らなかった、勉強不足だった、とビデオで語った。あれは明らかな虚偽です」

 Aは声を低めた。

「さらに、国旗損壊罪を法制化しようという。象徴を守るために刑罰を強化する。そこには、対話の余地がない」

「対話不可能、ですか」

「ええ。論理も事実も通じない。そういう感覚です」

 Bはしばらく黙っていた。その沈黙は、考えあぐねているというよりも、言葉を選び取ろうとする慎重さに近かった。やがて彼女は、静かだがはっきりとした調子で言った。

「でも、その分断にも理由があるんじゃないですか」

「理由?」

「ええ。知性主義と反知性主義、という言い方もできるでしょう。確かに、朝日新聞と岩波書店で育った人間と、そうでない人間では、話が通じにくい。右と左の対立です」

 Aは頷きながらも、指先で机を叩いた。

「しかし最近は、それだけではない。上と下、とも言われる。成熟した知性と、未成熟な知性。その対比です。もしそうなら、話が通じないのも、ある意味で当然だ」

 Bは眉をひそめた。

「それは、かなり危険な言い方ですね」

「承知しています。ただ、現実として、論理的思考や事実認識の共有が成立しない場面が増えている」

 Aは少し話題を変えるように、机の引き出しから一冊の本を取り出した。

「最近、『自分はない』という本を読みました。人間を切断して考える思考実験が出てくる。例えば、右腕とそれ以外に分けると、『自分』は右腕以外だ、と」

「よくある話ですね」

「ええ。しかし、さらに切断していく。そうすると、『自分』はどこにも見当たらない。結局、自分は幻想だ、という結論になる。私は、なるほどと思った」

 Bは首をかしげた。

「でも、その思考実験自体がおかしくないですか」

「どういう意味で?」

「右腕とそれ以外に分けたとして、右腕は自分の一部でしょう。右腕のない身体は、欠落を抱えた自分です。そのときに使われている『自分』という言葉は、いったい何を指しているのか。また、どこまで切断すれば、自分が消えるのか。それが示されない限り、その思考実験で何かが理解できるとは思えない」

 Aは一瞬、言葉を失ったが、やがて微笑んだ。

「なるほど。確かに、そうですね。ただ、結局、自分というものも、心もとない存在だ、という感覚は残る」

 窓の外では、夕暮れが始まり、キャンパスの木々が影を伸ばしていた。Aはふと、別の記憶を思い出した。

「最近は、パパ活で大金を巻き上げて、マスコミで話題になった女性もいましたね」

 Aは慎重に言葉を選びながら続けた。

「正直、呆れる気持ちもあります。ただ、あれは男性中心の社会を逆手に取った、一種の反撃のようにも見える。だからといって、道徳的に説教するのも、どこか空虚な感じがするんです」

 Bは即座に首を振った。

「でも、その女性、そのお金をホストに貢いでいたんですよね」

 Bの声は冷静だったが、そこには確信があった。

「それを聞いた瞬間に、私は思いました。やっぱり彼女も、男性社会の中で循環する欲望と搾取の構造から逃げられていない。『稼いだ』ように見えても、結局は別の男性中心の経済に吸い上げられている。だから、やはり犠牲者なんです」

「対話不可能とか、理解不可能という言葉で思い出すのは、昔読んだ話です。女子高生が援助交際をして、親に叱られ、反抗してこう言う。『私は自分の体を、自分の意思で使っているだけだ。誰にも迷惑をかけていない』。理屈としては、完結している」

 Bはじっと聞いている。

「そのとき、河合隼雄は『魂に悪い』と言った。論理ではなく、価値の言葉です。それくらいしか、言いようがなかったのだと思う」

 沈黙が落ちた。Bの表情が、次第に硬くなっていくのを、Aは見逃さなかった。

 Aは、その沈黙を前にして、自分なりに整理を試みた。理解しようとしている、というより、理解した形にまとめ直そうとしていた。

「つまり……あなたの言うことは、こういうことですか」

 Aはゆっくりと言った。

「個人の選択や責任を問題にしても意味はなく、すべては社会構造の問題だから、個々の行為を倫理的に評価すること自体が誤りだ、と」

 その瞬間、Bの目の色が変わった。しかし彼女は声を荒らげなかった。むしろ一段低い、抑えた調子で言った。

「違います」

 短く否定してから、Bは続けた。

「私は、個人の行為を倫理的に考えるな、と言っているわけではありません。誰が、どの地点で、どの程度の自由と資源を与えられた上で選んでいるのか――その前提を無視した倫理が、いちばん残酷だと言っているだけです」

 Aは黙って聞きながら、内心で頷いた。なるほど、倫理の前提条件の問題だ、と。

 しかしその理解は、すでにA自身の語彙に翻訳され、彼女の言葉からは半歩ずれていた。

「……それは」

 Bは立ち上がった。その動作は衝動的というより、ある結論に至った人間のものだった。椅子が床を擦る音が、静かな部屋に響いた。

「何を言っているのですか。問題は個人の魂や内面の倫理ではありません。それは、この社会が男社会として組み立てられてきた結果、起きていることです。その女子高生は、自由に選択しているように見えて、実際には選ばされている。被害者にすぎません。加害者は特定の男性だけではなく、男性に有利に働く社会制度であり、それを自然なものとしてきた社会通念です。『魂に悪い』という言葉は、その構造を不可視化してしまう」

 Bの声は、震えてはいなかったが、強い決意を帯びていた。

「彼女は、男性中心の社会構造の中で、最も弱い位置に置かれ、そこから逃げるための言語も資源も与えられていない犠牲者なんです。フェミニズムが問題にしてきたのは、まさにこうした『自己決定』という言葉が、どのような条件のもとで成立しているのか、という点です」

 そう言い残して、Bはコートを掴み、部屋を出ていった。ドアが閉まる音が、乾いた響きを残した。

 Aは一人、椅子に座ったまま、しばらく動けずにいた。議論は、またしても断絶した。言葉は交わされたが、理解は共有されなかった。

 数日後、Aはいつものように講義室に立っていた。百人ほど収容できる教室は半分ほど埋まり、学生たちはノートパソコンを開いたり、スマートフォンを伏せたりしている。Aはその日の講義内容を「現代思想におけるフェミニズムの位置づけ」と書いた。

「フェミニズムというのはですね」

 Aは穏やかな調子で話し始めた。

「男性を糾弾する思想ではありません。個々人の善悪を問題にするというより、社会構造の問題として、ジェンダー不平等を捉え直そうとする立場です」

 学生たちは黙って聞いている。Aは続けた。

「ですから、個人の選択をあまり強く道徳的に評価しても意味がない、という考え方になります。重要なのは、構造を理解することです」

 その言葉を書き留める学生もいれば、首をかしげる学生もいた。Aはそれに気づかないまま、説明を続けた。

「フェミニズムの主張を単純化すると、『個人を責めるな、社会を変えろ』ということになるでしょう」

 講義室の後方で、ある女子学生がペンを止めた。彼女は、その言葉に小さな違和感を覚えたが、問いとして言語化することはできなかった。

 Aは黒板を消しながら、内心で思っていた。先日のBとの議論は、無駄ではなかった。自分は理解し、学生に伝えている――そう確信していた。

 彼は悪意を持って語っているわけではなかった。誠実であろうとしていたし、実際に多くの文献を読み、学び続けてもいた。しかし、それでもなお、一番大事なところだけが抜け落ちている。その欠落は、本人の怠慢や能力不足によるものではない。むしろ、知性が制度の中で共有され、教育され、整理されるときに、ほとんど必然的に生じてしまう歪みだった。理解は可能なかぎり整えられ、伝達可能な形に変換される。その過程で、切実さや非対称性、回復不能な経験の重みが、静かに削ぎ落とされていく。彼は、自分が語ったこと、語れなかったこと、そのすべてを反芻した。

 分断とは、意見の違いではない。世界の見え方そのものが異なることなのだろう。Aはそう思いながら、冷めたコーヒーに口をつけた。その苦味は、なぜか現実よりも確かなものに感じられた。

 同じころ、別の場所で、Bは会議室の長机に座っていた。壁にはジェンダー平等に関する提言書の草案が貼られ、数人の研究者が静かに意見を交わしている。Bはメモを取りながら、時折、短く発言した。言葉は慎重に選ばれ、誰かを説得するというより、条件を整えるために置かれていった。

 会議が終わり、建物を出ると、外はすでに夜だった。Bはコートの襟を立て、駅へ向かって歩き出す。今日もまた、すべてを言葉にできたわけではない。それでも、言わずに済ませることだけはしなかった。その歩みは速くもなく、遅くもなかったが、確かに前へと進んでいた。

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