日本の新自由主義と精神医療
――自己責任論が「治療」に入り込むとき
日本で語られる新自由主義は、欧米のそれとは少し性格が違う。
市場原理や競争を前面に出すというよりも、
自己責任という道徳だけが、強く内面化された形で現れる。
この特徴が、精神医療と非常に相性が悪い。
1.日本の新自由主義は「責めない顔」をしている
日本では、露骨にこうは言われない。
働けないのは、お前の責任だ。
代わりに、もっと柔らかい言葉が使われる。
- 「本人の意欲を尊重しましょう」
- 「自己決定を大切に」
- 「主体的な回復を支援します」
表面的には、きわめて人道的だ。
しかしこの言葉遣いは、責任の所在を静かに個人へ移す。
選択はあなたの自由。
ただし、その選択の結果について、社会は深く関与しない。
この構図が、日本の精神医療にも入り込んでいる。
2.精神医療は「免責装置」になりやすい
かつて精神医療は、
社会の要請から人を一時的に隔離し、守る場所だった。
しかし新自由主義的な文脈では、
精神医療は次のような役割を期待される。
- 働けない理由を医学的に説明する
- 回復の可能性を評価する
- 「いつ頃、社会に戻れるか」を見積もる
これは支援であると同時に、
社会が責任を限定するための装置でもある。
「治療はしています」
「支援の機会は提供しています」
そう言えた瞬間、
それ以上の責任は、本人に戻される。
回復できないのは、
治療をどう使ったか、
支援をどう選択したか、
本人の問題だ、という形で。
3.自己責任論は、患者の内側で完成する
日本の新自由主義の最も厄介な点は、
この論理が、患者自身の内面で完成してしまうことだ。
誰も責めていない。
医師も支援者も、丁寧に接している。
制度上も「選択肢」は用意されている。
それでも患者は、こう感じる。
- 自分は、回復を選びきれていない
- 支援をうまく使えていない
- だから今の状態なのだ
精神症状に、
この自己評価が重なると、
回復はさらに難しくなる。
抑うつ、不安、希死念慮。
その背景にあるのは、
「治らない自分」ではなく、
「治せていない自分」への責めだ。
4.回復モデルが「自己責任装置」になる瞬間
回復モデルは、本来、
「一人ひとり異なる回復」を尊重する考え方だった。
だが日本の新自由主義と結びつくと、
次のように変形する。
回復の形は自由です。
ただし、回復できないのは、あなたの選択の結果です。
就労リカバリーは、
この論理を可視化する最終地点になる。
働けている人は、
「回復を選び、努力した人」。
働けていない人は、
「まだ選びきれていない人」。
ここで、治療目標と道徳評価が、完全に混線する。
5.医療者も、この構造から逃れられない
重要なのは、
医療者自身も、この新自由主義的構造の内部にいることだ。
- 支援を提示しないと「何もしていない」と見られる
- 就労につなげないと「治療が停滞している」と評価される
- 回復を語らないと「前向きでない医療」になる
その結果、
本当は「待つ」「守る」ことが必要な場面でも、
何かしらの「次」を提示せざるを得なくなる。
これは怠慢ではない。
制度と倫理の板挟みだ。
6.日本の精神医療が引き受けている矛盾
ここまでをまとめると、日本の精神医療は、
- 勤勉就労倫理を前提にしながら
- 福祉国家的な保護を部分的に担い
- 新自由主義的な自己責任論を、患者に媒介する
という、きわめて矛盾した役割を背負わされている。
だから整理がつかない。
だから、現場の言葉は歯切れが悪くなる。
「それはそうだが、そうでばかりもない」
その感覚は、
思考が未熟なのではなく、
現実が本当に二重化していることの反映だ。
7.臨床ができる、ささやかな抵抗
思想史的に見れば、
自己責任論は、自然法則ではない。
特定の時代と制度が生んだ倫理だ。
臨床でできるのは、
それを一度、相対化することだろう。
- これは医学の問題か
- それとも、社会の要請が作っている苦しみか
そう問い直す余地を、
診察室に残すこと。
回復を促すことも、
就労を支えることも否定しない。
ただし、それを人格の評価基準にしない。
日本の精神医療が、
最後の砦として引き受けているのは、
「自己責任では片づけられない生」そのものなのだから。
