臨床家自身が、自己責任論から自由になる


「患者をどう支えるか」ではなく、臨床家がどう壊れずに立ち続けるかの話。


臨床家自身が、自己責任論から自由になるために

精神医療の現場にいると、
自己責任論は患者だけでなく、臨床家にも忍び寄ってくる。

「もう少しうまく関われたのではないか」
「別の支援につなげていれば、結果は違ったのではないか」

こうした自問は、誠実さの裏返しだ。
だがそれが行き過ぎると、
臨床家自身が、社会の自己責任論を内面化してしまう。

回復しない患者がいる。
就労につながらない患者がいる。
そのたびに、
「自分の医療が足りないのではないか」と感じる。

まず必要なのは、
その感覚自体が、思想史的に作られたものだと知ることだ。

1.結果責任から距離を取る

新自由主義のもとでは、
成果はすべて「選択の結果」として語られる。

だが臨床は、
もともと結果で評価できない営みである。

症状は揺れる。
生活は崩れる。
良くなったと思った矢先に、また戻る。

それでも続ける。
それが臨床だ。

「回復させられなかった」
という言い方自体が、
すでに自己責任論の言語を借りている。

臨床家が引き受けているのは、
結果ではなく、関わり続ける責任である。

2.回復モデルを「絶対基準」にしない

回復モデルは、
本来、道具だった。

状況を理解し、
支援を考えるための枠組みであって、
臨床家や患者を評価する尺度ではない。

それが倫理に変わった瞬間、
「達成できない回復」は、失敗になる。

臨床家がまず自由になるべきなのは、
この評価軸からだ。

  • いま、この人にとって有害になっていないか
  • 回復という言葉が、圧力として働いていないか

そう点検できる距離を保つ。

3.「待つこと」を専門技術として引き受ける

自己責任論が最も嫌うのは、
「何も起きていない時間」だ。

だが精神医療では、
その時間こそが治療になることがある。

症状がある。
働けない。
変化は乏しい。

それでも、通院が続いている。
服薬が守られている。
生活が破綻していない。

これは、専門的に守られている状態だ。

「待つ」ことを、
怠慢でも逃避でもなく、
高度な臨床判断として位置づけ直す。

4.社会の要求と、自分の判断を分ける

臨床家は、しばしば
社会の声を患者に代弁してしまう。

「そろそろ次を考えたほうが」
「このままでいいのか」

その言葉が必要な場面もある。
だが、それが誰の要請なのかを、
自分の中で区別することが大切だ。

  • 医学的判断なのか
  • 制度上の都合なのか
  • 社会的期待なのか

それを混ぜたまま話すと、
臨床家自身が引き裂かれる。

5.「治せない医療」を恥じない

精神医療は、
もともと万能ではない。

治らない病がある。
回復しない人生がある。
それでも関わり続ける医療がある。

それを「敗北」と感じる必要はない。

むしろ、
治せない状況を、
治せないまま引き受けることが、
精神医療の倫理的核心だった。

6.臨床家も、社会から一時的に距離を取っていい

最後に。

臨床家は、
社会の価値観を完全に否定することはできない。
勤勉就労倫理も、
自己責任論も、
現実の一部だからだ。

だが、一時的に距離を取ることはできる。

診察室だけは、
結果や生産性から解放された空間にする。
評価を保留し、
時間を緩める。

その空間を守ること自体が、
臨床家の仕事なのだと思う。

自己責任論から自由になるとは、
何も背負わないことではない。

背負わされているものを見分け、
「これは自分の責任ではない」と、
静かに下ろす力を持つことだ。


タイトルとURLをコピーしました