「躁的価値観が、制度によって“量産”されている」
医療・教育・企業が「躁的価値観」を再生産する仕組み
――止まれない社会の、三つのエンジン
社会に「勢い」があるとき、
人はそれを「活力」だと呼ぶ。
だが、その勢いがどこから来ているのか、
誰によって維持されているのかを考えることは、あまりない。
躁的な価値観――
止まらないこと、迷わないこと、疑わないこと、
自信に満ちて突き進むこと――
は、自然に生まれているわけではない。
それは、制度によって繰り返し再生産されている。
医療:本来は「減速装置」であるはずの場所が
精神医療は、本来、
- 行き過ぎた状態を見極め
- 現実との接続を回復させ
- 持続可能なペースに戻す
ための場所である。
つまり、社会の中では減速装置の役割を担っている。
しかし現実には、医療もまた、躁的価値観に巻き込まれやすい。
「元気になりましたか?」という問い
診察室でよく使われる言葉がある。
- 「元気になりましたか」
- 「やる気は出てきましたか」
この問い自体が悪いわけではない。
だが、ここには一つの前提がある。
元気=良い
動ける=回復
躁状態の患者は、この問いに「はい」と答えやすい。
- よく眠らなくても平気
- アイデアが湧く
- 行動的になっている
医療者が忙しい現場では、
この違和感は見逃されやすい。
「症状が消えた=安定」という誤解
躁状態では、本人の苦痛が少ない。
- 気分はいい
- 困っていない
- 自信がある
そのため、
「症状が軽くなった」「回復した」と誤認されやすい。
だが実際には、
- 現実吟味が落ち
- ブレーキが壊れ
- 後で大きな反動が来る
医療がこの段階で止められないと、
社会は「躁的な成功体験」を一つ学習する。
教育:走り方だけを教え、止まり方を教えない
教育は、価値観を最も深く刷り込む装置である。
そして日本の教育は、長い間、
- 努力
- 忍耐
- 継続
- 根性
を美徳として教えてきた。
問題は、それ以外をほとんど教えてこなかったことだ。
「頑張れる子」が評価される構造
学校で評価されやすいのは、
- 手を挙げる
- 発言が多い
- 行事に全力
- 疲れていてもやり切る
こうした子どもたちだ。
慎重で、
- 迷う
- 考え込む
- 立ち止まる
子どもは、評価されにくい。
躁的な気質は、ここで早期に成功体験を得る。
失敗の「撤退」を教えない教育
日本の教育では、
- 最後までやり抜く
- 諦めない
- 投げ出さない
ことが称賛される。
一方で、
- 途中でやめる
- 方針を変える
- 撤退する
ことは、ほとんど教えられない。
躁状態は、撤退ができない。
だが、社会もまた、撤退を学んでいない。
企業:躁的価値観が最も報酬化される場所
企業は、躁的価値観を最も分かりやすく報酬化する。
- スピード
- 成果
- 自信
- ポジティブさ
これらは、短期的な数字に結びつきやすい。
「即断即決」が美徳になる
企業ではよく言われる。
- 「考える前に動け」
- 「スピードが命」
- 「失敗は後で修正すればいい」
躁的な人は、この環境で輝く。
- 迷わない
- 自信がある
- 声が大きい
一方、慎重な人は、
- 遅い
- ネガティブ
- 腰が引けている
と評価されがちだ。
失敗のツケは「個人」に返される
躁的な判断が成功すれば、称賛される。
失敗すれば、
- 判断した個人の責任
- メンタルの問題
- 資質の問題
にされる。
制度そのものは問われない。
この構造が、躁的価値観を温存する。
三つの装置が共鳴するとき
医療・教育・企業は、それぞれ独立しているようで、
実は同じ方向を向いている。
- 動け
- 止まるな
- 疑うな
- 迷うな
このメッセージが重なると、
躁的な状態は「適応」になり、
正常な慎重さは「欠陥」に見える。
精神医療が果たすべき、もう一つの役割
精神医療は、
個人を治す場所であると同時に、
社会の価値観に、疑問符をつける場所
でもある。
- 元気すぎるのではないか
- 早すぎるのではないか
- その勢いは続くのか
そう問い直すことは、
決して後ろ向きではない。
結び──減速できる人が、実はいちばん強い
止まれる人、
迷える人、
疑える人。
そうした人は、
評価されにくい。
だが、
- 社会を壊さず
- 人を燃え尽きさせず
- 長く続く
のは、そういう人たちである。
躁的価値観が再生産され続ける社会では、
減速できる人を守ること自体が、治療であり、教育であり、経営なのだ。
