精神医療は、社会のどこを引き受けてきたのか
――うまくいかなさを預かる場所として
精神医療は、しばしば誤解される。
- 治せない医療
- 役に立たない医療
- 社会復帰を遅らせる医療
だが、長い時間をかけて精神医療が担ってきた役割は、
そもそも「治すこと」や「元に戻すこと」とは、少し違うところにあった。
精神医療は、
社会が引き受けきれなかったものを、引き受ける場所だった。
社会が引き受けないものは、どこへ行くのか
社会には、得意なことと、不得意なことがある。
日本社会が得意なのは、
- 同調
- 効率
- 継続
- 成果
だが、苦手なものもはっきりしている。
- 失敗
- 脱落
- 立ち止まり
- 回復の遅さ
- 説明のつかない苦しみ
これらは、制度の中に居場所を持ちにくい。
そうしたものが行き着く先として、
精神医療は存在してきた。
精神医療は「問題」を治してきたのではない
精神医療が向き合ってきたのは、
- 問題行動
- 非合理
- 社会不適応
と呼ばれるものだった。
だが、臨床の現場に立つと、
それらが単なる「個人の問題」ではないことが、すぐに分かる。
- 走り続けられなかった人
- 空気に合わせられなかった人
- 普通を維持できなかった人
精神医療は、
社会の標準からこぼれ落ちた現実と、日々向き合ってきた。
「治らない」という事実を引き受ける場所
身体医療では、「治る/治らない」は重要な区別だ。
だが精神医療では、
- 完全には治らない
- 波を繰り返す
- 状態が固定しない
という現実が、あまりにも多い。
精神医療は、この事実を
否定せずに引き受けてきた数少ない制度でもある。
治らないことを、
即座に失敗としない。
そこに、精神医療の倫理があった。
社会が要求する「説明責任」を肩代わりする
社会は、人に理由を求める。
- なぜ働けないのか
- なぜ続かないのか
- なぜ普通にできないのか
精神医療は、しばしばこの問いに対して、
診断名という形で答えてきた。
それは、
本人が責められきる前に、
理由を社会に提示する
という、防波堤でもあった。
診断は、免罪符ではない。
だが、むき出しの責任論から人を守る壁にはなってきた。
躁的社会の「ブレーキ役」として
これまで見てきたように、
日本社会は躁的な価値観を持ちやすい。
- 早く
- 強く
- 前向きに
その流れの中で、精神医療は、
- 休ませ
- 立ち止まらせ
- 減速させ
る役割を、地味に果たしてきた。
それは称賛される仕事ではない。
むしろ、「足を引っ張る」と見なされることも多かった。
それでも精神医療は、
壊れる直前の人を止め続けてきた。
「何もしない支援」を引き受けるということ
精神医療の現場では、しばしば、
- 薬を変えない
- 方針を急に変えない
- 生活を大きく動かさない
という選択がなされる。
外から見ると、それは「何もしていない」ように見える。
だが実際には、
これ以上、社会の圧力を加えない
という、極めて能動的な判断である。
精神医療は、
社会が急かしすぎる場所で、唯一、急がない場所だった。
回復モデルが突きつけた問い
回復モデルは、
精神医療に新しい技法をもたらしたのではない。
むしろ、
精神医療が長年、暗黙にやってきたことを、
言語化したにすぎない。
- 症状があってもいい
- 普通でいられればいい
- 生活が続けばいい
それは同時に、
社会の側が、
人に何を求めすぎているのか
という問いでもあった。
精神医療は「社会の代わり」に責任を引き受けてきた
精神医療が引き受けてきたのは、
- 個人の苦しみ
- 家族の行き詰まり
だけではない。
- 社会のスピード
- 社会の基準
- 社会の失敗の後始末
その多くを、
精神医療は「個人の問題」という形で預かってきた。
これは、本来、非常に重い役割である。
結び──それでも精神医療が引き受け続ける理由
精神医療は、
社会を変える力を持っていない。
だが、
社会がこぼしたものを、
見なかったことにしない
という姿勢だけは、持ち続けてきた。
- うまくいかなかった人生
- 回復が遅い時間
- 普通でいることの困難
それらを、
失敗として片づけない場所。
それが、精神医療が社会の中で
静かに引き受けてきた位置なのだと思う。
