# 『躁(そう)的社会の処方箋:加速に抗う「普通」の倫理』
## 【第Ⅰ部 臨床から見た躁・うつ・正常】
### 第1章:躁状態とは何か――過活動の正体
* **深掘り論点:** ドーパミン過剰と報酬予測のバグ。万能感が「リスク評価」をどう破壊するか。
* **キーワード:** 観念奔逸、行為心迫、買い物依存、性的逸脱、睡眠欲求の減少。
### 第2章:うつ状態とは何か――止まることの意味
* **深掘り論点:** 生物学的シャットダウンとしての「節電モード」。自己否定が実は「これ以上傷つかないための防壁」である可能性。
* **キーワード:** 精神運動制止、内因性うつ病、偽性認知症、思考の反芻。
### 第3章:正常とは何か――地味で説明しにくい状態
* **深掘り論点:** 「正常」は静止画ではなく、微細な変動の連続(ホメオスタシス)である。健康な悲しみと、病的なうつの境界線。
* **キーワード:** 感情の揺らぎ、レジリエンス、中庸、退屈への耐性。
### 第4章:三者の比較――「有効な活動」はどこにあるか
* **深掘り論点:** 躁のエネルギー効率の悪さを「熱力学」的に読み解く。正常な人の1時間は、躁の人の100時間に勝る理由。
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## 【第Ⅱ部 社会に現れる「躁的状態」】
### 第5章:災害時に出現する集団的躁状態
* **深掘り論点:** 「ハネムーン期」と呼ばれる被災直後の高揚感。ボランティア・ハイ。平時の不満を「非常事態」が浄化してしまう危うさ。
### 第6章:戦争と躁――国家規模の過活動
* **深掘り論点:** 特攻や玉砕を支えた精神論と躁的防衛。戦時下の「熱狂」が、いかにして個人の死への恐怖を隠蔽したか。
### 第7章:SNS炎上という現代的躁
* **深掘り論点:** 24時間止まらないタイムライン。ドーパミン駆動型の正義感。文脈を無視した「言葉の暴力」の連鎖。
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## 【第Ⅲ部 なぜ日本社会では躁的価値観が称賛されやすいのか】
### 第8章:勤勉・根性・自己犠牲の文化史
* **深掘り論点:** 明治維新、高度経済成長期。常に「坂の上の雲」を目指し続けた日本の成功体験が、いかに「躁」をデフォルトにしたか。
### 第9章:「空気を読む」社会と躁
* **深掘り論点:** 同調圧力が生む「集団的過活動」。誰も止まりたいと言い出せない会議。
### 第10章:うつは「甘え」、躁は「頑張り」になる瞬間
* **深掘り論点:** 精神疾患のラベリングが持つ恣意性。企業の「エネルギッシュな社員」が実は軽躁状態であるリスク。
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## 【第Ⅳ部 再生産装置の正体】
### 第11章:医療――「早く元に戻す」圧力
* **深掘り論点:** 薬物療法が「社会への再適応」を急がせ、患者の「立ち止まる権利」を奪っていないか。
### 第12章:教育――「主体性」という名の躁
* **深掘り論点:** アクティブ・ラーニングの光と影。静かに考える子が「意欲なし」とされる評価体系。
### 第13章:企業――「やりがい搾取」と過活動
* **深掘り論点:** ベンチャー精神と躁。燃え尽きるまで走らせ、使い捨てる構造。
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## 【第Ⅴ部〜第Ⅶ部:回復・倫理・社会の残余】
(各章、同様に「立ち止まることの価値」「精神科病院が果たしてきた隔離と保護の歴史」「普通でいることの難しさ」を詳述)
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# 【序章】なぜ「躁状態」は魅力的に見えるのか
私たちは今、かつてないほど「元気であること」を強要される時代に生きている。
書店の棚を見れば、「折れない心」「ポジティブ思考」「圧倒的な行動力」といった言葉が躍り、SNSを開けば、寝る間も惜しんで挑戦し続け、キラキラとした成果を報告するインフルエンサーたちの姿が目に飛び込んでくる。そこでは、常に何かに熱中し、エネルギッシュに動き回っていることこそが「善」であり、立ち止まること、迷うこと、あるいは何もせずただ存在することは、あたかも人生の敗北であるかのように語られる。
しかし、精神医学という窓からこの光景を眺めると、全く別の不穏な景色が見えてくる。
私たちが「素晴らしい行動力」や「圧倒的なリーダーシップ」として称賛しているものの正体は、実は「躁(そう)状態」と呼ばれる病的な過活動と紙一重なのではないか、という疑念だ。
躁状態とは、精神医学において双極性障害(躁うつ病)の一つの極として定義される。気分が異常に高揚し、自信に満ちあふれ、次から次へとアイデアが湧き出し、睡眠時間が短くなっても疲れを感じず、周囲を巻き込んで多角的に活動する。こう聞くと、まるで「理想的なビジネスマン」の定義のように聞こえないだろうか。実際、臨床現場では、躁状態にある患者が「人生で今が一番調子がいい」「自分は何でもできる」と語り、入院治療を拒否することが珍しくない。彼らにとって、この状態は「病気」ではなく「最高の自分」なのだ。
しかし、その実態は残酷なほどに非効率である。躁状態のエネルギーは、目的を持った「集中」ではなく、全方位への「発散」に費やされる。昨日始めたプロジェクトを今日には放り出し、新しい別のことに手をつける。高価な買い物を重ねて貯金を使い果たし、不用意な発言で長年の友人を失う。本人の主観的な「充実感」とは裏腹に、客観的な「有効性」は限りなくゼロ、あるいはマイナスに突き進む。これが躁状態の正体である。
対して、そのコインの裏側にある「うつ状態」は、徹底的に忌み嫌われる。何も手に付かず、朝起き上がれず、思考は泥のように停滞し、ただ天井を見つめて一日が過ぎる。社会はこれを「怠惰」や「甘え」と呼び、あるいは「克服すべき障害」として扱う。だが、生物学的に見れば、うつ状態は過負荷になったシステムを守るための「安全装置」だ。限界まで回り続けたエンジンを焼き付かせないために、強制的にシャットダウンする。この沈黙の時間は、実は魂が生き延びるために不可欠なプロセスなのだが、スピードを至上命題とする現代社会において、その価値が顧みられることはない。
本稿が問い直したいのは、この「躁を愛し、うつを蔑む」という社会の偏った美意識である。
なぜ、私たちは中身の伴わない空回りであっても、「動いていること」の方に価値を置いてしまうのか。なぜ、着実に、平凡に、波風を立てずに一日を終える「普通の人」を、退屈で価値が低いと見なしてしまうのか。
その背景には、単なる個人の性格の問題を超えた、日本社会特有の構造がある。明治以降の急速な近代化、戦後の復興、そしてバブル経済。私たちは常に「昨日より今日、今日より明日」と、右肩上がりのエネルギーを求められ、その過程で「躁的であること」を勤勉という名の美徳にすり替えてきた。この「躁的価値観」の称揚は、今や教育、企業、そして医療の現場にまで深く根を張り、人々を駆り立て、疲弊させ、そして「うつ」へと突き落とす再生産のループを作り上げている。
本稿では、精神医学の知見を臨床的な出発点としつつ、災害や戦争、SNSといった社会現象を「躁」という視点から読み解いていく。そして、現代日本において「回復」という言葉がいかに誤解されているかを指摘し、加速し続ける社会の中で「普通であり続けること」がいかに困難で、かつ倫理的な営みであるかを論じたい。
精神医療はこれまで、社会が引き受けきれなくなった「失速した人々」を受け止めるゴミ箱のような、あるいは一時停止のための避難所のような役割を果たしてきた。だが、その「社会的残余」を引き受けてきた場所にこそ、私たちが忘れてしまった「人間が人間らしくあるためのリズム」が保存されているのではないか。
躁でもなく、うつでもない。その中間にある、地味で、静かで、しかし確かな「普通」という大地。そこへ再び足をつけるための道筋を、これから共に辿っていこう。
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# 【第1章】躁状態とは何か――過活動の正体
躁状態とは何か。その定義を、まずは医学的な記述から解きほぐしてみよう。
国際的な診断基準であるICD-10やDSM-5において、躁病エピソードは「気分が異常かつ持続的に高揚し、開放的で、または怒りっぽくなった状態」とされる。だが、この文字面だけでは、躁状態が持つ独特の「質感」は伝わらない。
臨床の場で出会う躁状態の患者は、独特のオーラを放っている。声は大きく、早口で、冗談を連発し、部屋に入ってきた瞬間に空気を塗り替える。彼らの思考は、精神医学用語で「観念奔逸(かんねんほんいつ)」と呼ばれる状態にある。一つの考えが浮かぶと、それに関連する別の考えが次々と連鎖し、話の筋道が飛躍していく。本人の中では、それらは壮大なインスピレーションの連鎖として感じられている。
「今、すごいことを思いついた。このアイデアをアプリにすれば世界が変わる。そのためにはまずシリコンバレーに行く必要がある。そういえば昨日食べたカレーが美味しかったから、カレーのデリバリー事業も同時に始めよう。あ、大統領にメールを打たなきゃ……」
このように、思考のスピードが制御不能なまでに加速し、ブレーキが壊れた状態、それが躁である。ここで重要なのは、躁状態の人が示す「エネルギー」と「生産性」の乖離だ。
躁状態の人は、睡眠時間を削って活動する。一晩で数十通のメールを送り、何十冊もの本を買い込み、面識のない著名人に会いに行こうとする。傍目には「異常に活動的」に見える。しかし、その活動の結末を見てみると、メールの内容は支離滅裂で、買った本は一行も読まれず、会った相手には不快感を与えて終わる。
つまり、躁状態の活動とは「目的を達成するためのエネルギー」ではなく、「エネルギーを消費すること自体が目的化してしまった活動」なのだ。物理学に例えるなら、タイヤが泥濘(ぬかるみ)にハマり、空転して泥を撒き散らしている状態に近い。回転数は上がっているが、車体は一歩も前に進んでいないのである。
なぜ、これほどまでに無益な空回りが生じるのか。その鍵は、脳内の「報酬系」の暴走にある。
私たちの脳は通常、何かを達成した時や、良いことが起きた時にドーパミンを放出し、快感を得る。しかし躁状態では、何もしなくても、あるいは「何かを思いついた」だけで、報酬系が最大出力で発火し続ける。結果として、「根拠のない全能感」が生まれる。何をやっても成功する気がする、自分は特別な使命を帯びている、自分には法やルールは適用されない。この「誇大性」が、冷静なリスク評価を不可能にする。
臨床現場でしばしば観察されるのは、躁状態が「本人の主観的幸福感」を最大化してしまうという悲劇だ。
うつ状態の苦しみは誰の目にも明らかだが、躁状態の快楽は、本人にとっては「最高の自分」の到来と感じられる。そのため、治療を拒み、薬を捨て、この輝かしい時間を邪魔する医師や家族を「自分の才能を嫉妬し、足を引っ張る敵」と見なすことすらある。
だが、その輝かしい時間の代償は、後に必ず「うつ」という形で、あるいは社会的信用の失墜という形で支払わされることになる。
第1章の結論として強調しておきたいのは、躁状態とは「元気の良すぎる状態」ではなく、「精神の統合が崩壊し、活動のベクトルがバラバラになった状態」だということだ。そして、私たちが現代社会で「あの人はパワフルだ」と称賛しているものの中に、この「ベクトルの崩壊した過活動」がどれほど混じり込んでいるか、一度疑ってみる必要がある。
躁の正体は「自由」ではなく、制御不能な加速という名の「不自由」なのである。
# 第2章:うつ状態とは何か――止まることの意味
躁状態が「暴走するエンジン」であるならば、うつ状態は「焼き付きを防ぐために落ちたブレーカー」である。
精神医学の世界において、うつ状態(抑うつ状態)は、単なる気分の落ち込みを指す言葉ではない。それは、生命維持に不可欠なエネルギーが枯渇し、心身のあらゆる機能が最小出力へと切り替わった「生物学的なシャットダウン」を意味する。
うつ状態にある人は、周囲から見れば「ただじっとしているだけ」に見える。しかし、その内側で起きているのは、壮絶なまでの「生存のための労働」である。
うつの核心にある症状の一つに「精神運動制止」がある。これは、思考の回転が極端に遅くなり、身体が鉛のように重くなる状態だ。健康な時には無意識に行える「朝、布団から出る」「歯を磨く」「服を着替える」といった動作の一つ一つが、うつ状態の人にとってはエベレストに登頂するかのような重労働となる。思考もまた、霧の中を歩くように不明瞭になり、一つの決断を下すのに数時間を要する。
社会はこの状態を「怠惰」や「意欲の欠如」と断罪しがちである。だが、それは決定的な誤解だ。うつ状態における「停止」は、本人が望んで選んだものではなく、システムがこれ以上の崩壊を防ぐために強制的に発動させた、防衛本能の結末なのである。
ここで興味深いのは、うつ状態が持つ「時間感覚の変容」だ。
躁状態の時間が光速で駆け抜けるのに対し、うつ状態の時間は永遠に近い停滞を見せる。一分一秒が耐えがたい苦痛と共に刻まれ、過去の失敗だけが鮮明に反芻される。この「思考の反芻」は、一見無意味な自責に見えるが、実は脳が「なぜ自分は失敗したのか」「どこで間違えたのか」という問いに対し、答えの出ない検証を繰り返している状態だ。これは、深手を負った動物が洞窟にこもり、傷口を舐め続けて回復を待つ姿に似ている。
うつ状態の「止まること」には、実は深遠な意味がある。
それは、それまで信じて疑わなかった「走り続けなければならない」という強迫観念や、他者の期待に応え続けるという偽りの自己が、もはや機能しなくなったことを告げる「身体からの異議申し立て」である。
うつという停滞を経て初めて、人は自分が背負いすぎていた荷物の重さに気づくことができる。つまり、うつは「間違った方向へ全力疾走していた人生」に対する、最も強力で慈悲深いブレーキなのだ。
しかし、現代社会において、この「ブレーキ」を肯定することは極めて難しい。止まることは、競争からの脱落を意味すると信じ込まされているからだ。私たちは「止まることの意味」を再定義しなければならない。それは後退ではなく、再起動(リブート)のための不可欠なプロセスなのである。
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# 第3章:正常とは何か――地味で説明しにくい状態
「正常」という状態は、精神医学において最も定義が難しく、かつ語られにくい領域である。
躁やうつのような「極端な色彩」を持たない正常は、物語性に欠け、退屈なものとして映る。しかし、真の意味での「正常(あるいは健康)」とは、決して波のない静止画ではない。それは、外からの刺激や内なる感情の波に対して、微細な調整を繰り返しながらバランスを保ち続ける「ダイナミックな均衡(ホメオスタシス)」の状態を指す。
正常な状態の特徴は、第一に「現実検討識」が保たれていることにある。
これは、自分の能力や周囲の状況を、過大評価(躁)も過小評価(うつ)もせず、ありのままに認識する力だ。「今の自分に何ができて、何ができないか」を冷徹に、しかし過剰な悲観なしに判断できる。この地に足のついた感覚こそが、正常さの根幹である。
第二に、正常な状態には「アンビバレンス(両価性)」への耐性がある。
世の中の事象は、白か黒かで割り切れるものは少ない。躁状態の人はすべてを黄金色(最高)に見なし、うつ状態の人はすべてを灰色(最悪)に見なす。これに対し、正常な人は「良い部分もあるが、悪い部分もある」「好きだが、嫌いなところもある」という矛盾した感情を、そのまま抱え続けることができる。この「曖昧さに耐える力」が、対人関係や社会生活における柔軟性を生む。
第三に、正常な状態には「適切なリズム」が存在する。
朝起きて、活動し、夕方には疲れを感じ、夜は眠る。空腹を感じれば食べ、満たされれば止める。こうした生物学的なリズムが、社会的な要請(仕事や義務)と調和している状態だ。
しかし、この「正常」という状態は、現代社会において驚くほど軽視されている。
「普通でいいです」という言葉は、しばしば向上心の欠如や、個性のなさと同一視される。私たちは常に「普通以上」であることを求められ、その圧力が、私たちの正常な均衡を躁的、あるいはうつ的な方向へと押しやり続けている。
正常であることは、決して「何もしない」ことではない。それは、自分という複雑なシステムを、暴走も沈没もさせずに、日々メンテナンスし続けるという「静かな、しかし高度な技術」を要する営みなのだ。臨床現場で回復のプロセスを見守る時、患者が「今日、普通に洗濯をして、普通にテレビを見て笑いました」と報告する瞬間、私たちはそこに、躁の熱狂よりも深い「人間の強さ」を見るのである。
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# 第4章:三者の比較――「有効な活動」はどこにあるか
ここで、躁・うつ・正常という三つの状態を、一つの尺度で比較してみよう。その尺度とは「現実的な有効性」である。
私たちは直感的に、「活動量が多いほど、成果も多い」と考えがちだ。しかし、精神医学的な視点から見ると、活動量と有効性の間には、驚くべきパラドックスが存在する。
結論から言えば、その有効性の順列は、以下のようになる。
**正常 > うつ状態 > 躁状態**
この順列は、多くの人の直感に反するだろう。「何もしない」うつ状態が、あんなに「活動的」な躁状態よりも有効であるとは、一体どういうことか。
まず、「正常」が最も有効であることは疑いようがない。正常な状態では、エネルギーが「目的」に向かって集約される。1時間の読書、1時間の仕事、1時間の対話。それらは着実に積み上がり、結果を残す。散逸しないエネルギーこそが、最も生産的なのである。
問題は、「うつ」と「躁」の比較だ。
躁状態の人の活動量は、正常な人の数倍から数十倍に達する。しかし、そのベクトルは支離滅裂に分散している。第1章で述べたように、彼らは「100のプロジェクトを同時に立ち上げ、そのすべてを翌日には破壊する」。躁状態が生み出す成果物は、しばしば修正不可能なトラブルや、人間関係の破綻、回復不能な負債である。つまり、躁状態の有効性は「大きなマイナス」に振れることが多い。
一方、うつ状態の有効性はどうか。
うつ状態の人は、社会的には「ゼロ」に見える。何も生み出さず、ただ消費するだけの存在。しかし、その「ゼロ」は、マイナスではない。うつ状態という休息期間を設けることで、生命の全滅を防いでいるという点において、それは「生存の維持」という極めて重要な成果を上げているのだ。
躁が「プラスに見えるマイナス」であるならば、うつは「マイナスに見えるゼロ(あるいは再起動への準備)」である。
臨床において、躁状態の患者が治療によって「うつ」に転じることは、一見悪化のように見えて、実は回復の第一歩である。なぜなら、破壊的なマイナスのエネルギーが止まり、少なくとも「自分の傷を癒すための沈黙」へと移行したことを意味するからだ。
この逆説を社会に当てはめてみると、恐ろしい事実が浮かび上がる。
現代社会が称揚する「猛烈な働き方」や「絶え間ないイノベーションの追求」は、しばしばこの「躁的なマイナス」を含んでいるのではないか。中身のない会議、本質を欠いた新製品の乱発、数値目標のための数値操作。それらは「動いている」というアリバイ作りにはなるが、長期的に見れば社会の資源を浪費し、人々を疲弊させるだけの「過活動の空回り」である可能性がある。
私たちは今一度、立ち止まって問い直さなければならない。
「今、自分が行っている活動は、正常な均衡に基づいた有効なものか。それとも、単なる躁的な発散に過ぎないのか」
この問いを失った時、個人も社会も、終わりのない加速の果てに自壊することになる。
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第Ⅱ部では、個人の脳内で起きていた「躁」という現象を、社会という大きなキャンバスに拡大して写し出します。集団が躁状態に陥る時、それはしばしば「美談」や「正義」の仮面を被って現れます。
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# 第Ⅱ部 社会に現れる「躁的状態」
## 第5章:災害時に出現する集団的躁状態――「復興」という名の熱狂
大規模な自然災害や未曾有の危機に直面したとき、被災地やそれを取り巻く社会全体に、奇妙な「高揚感」が漂うことがある。家を失い、日常を破壊された悲劇の直後であるにもかかわらず、人々は寝食を忘れて片付けに没頭し、見ず知らずの他者と手を取り合い、驚異的なエネルギーで活動を開始する。
精神医学では、これを「災害のハネムーン期」あるいは「躁的防御」の一種として捉える。躁的防御とは、耐えがたいほどの悲しみや喪失感、あるいは「自分にはどうすることもできない」という無力感に直面したとき、心がその苦痛を直視するのを避けるために、あえて過活動(ハイ状態)に転じる防衛反応である。
この時期、被災地には「過剰な善意」が溢れる。ボランティアは寝ずに活動し、行政担当者は連日徹夜で対応し、メディアは一丸となって「絆」を強調する。短期的には、このエネルギーは復興の大きな原動力となり、瓦礫を片付け、避難所を機能させる力になる。
しかし、これはあくまで「無理をしている状態」である。躁状態と同じく、そこには休息のリズムが欠如している。この過活動の裏側では、本来感じるべき「悲しみ(悲嘆作業)」が先送りにされているに過ぎない。
恐ろしいのは、この熱狂が収まった後に訪れる「うつ・燃え尽き」の波である。災害から数ヶ月、あるいは数年が経ち、社会の関心が薄れ、物理的な復興が一段落した頃、先送りにされていた悲しみが一気に噴出する。
「あの時はあんなに頑張れたのに、今は何もやる気が起きない」「なぜ自分だけ生き残ったのか」という深い虚脱と自責。これは個人の脆弱性によるものではなく、初期の躁的状態の「後払い」なのだ。
私たちは、災害時の「ハイ」を称賛しすぎてはいけない。むしろ、その熱狂の中に「静かに立ち止まり、泣くことのできない不自由さ」が隠れていることを見抜く必要がある。
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## 第6章:戦争と躁――国家規模の過活動
災害が自然発生的な躁的防御であるならば、戦争は「国家によって人為的に駆動された集団的躁状態」であると言える。
戦時下において、国家は国民に対して極端な過活動と自己犠牲を求める。そこでは「立ち止まって考えること」は非国民的、あるいは臆病な行為として糾弾される。即断即決、勇猛果敢、そして死を恐れぬ突進。これらはすべて、躁状態の臨床的特徴(行為心迫、万能感、リスク評価の欠如)と驚くほど一致する。
かつての日本における「特攻」や「玉砕」という現象を振り返れば、そこには個人の理性を超えた、集団的な躁的熱狂が介在していたことがわかる。人々は「お国のために」という大義名分のもと、死への恐怖を万能感で塗りつぶした。この熱狂の中では、死は悲劇ではなく「栄光」へと変換される。これは躁状態が現実の苦痛を「全能感」で否認する構造そのものである。
戦争が恐ろしいのは、それが社会の「正常な均衡(ホメオスタシス)」を破壊し、一度躁のサイクルに入ると、自壊するまで止まれない点にある。負け戦であっても「次の一手で逆転できる」という誇大妄想的な確信が支配し、ブレーキをかけようとする者は排除される。
そして戦後、この巨大な躁が崩壊した後に訪れるのは、国全体の深い「うつ」である。廃墟の中で立ち尽くす国民の虚脱感。戦時中に称揚された「躁的価値観」が否定され、今度は価値観の真空状態が生まれる。
歴史を学ぶ意義は、この「国家規模の躁」が、いかに心地よく、いかに正義の顔をして現れるかを予知することにある。平和とは、単に戦争がない状態ではなく、社会が躁的な熱狂に頼らず、落ち着いて「不都合な現実」に向き合える「正常さ」を維持している状態のことなのだ。
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## 第7章:SNS炎上という現代的躁――指先の万能感
現代において、私たちが最も日常的に遭遇する躁的状態は、デジタル空間に存在する。それが「SNSの炎上」だ。
炎上が発生する時、参加者たちの脳内では、躁状態に酷似した反応が起きている。
第一に「即時性」だ。熟考することなく、流れてくる情報に0.1秒で反応し、指先一つで断罪の言葉を投げつける。そこには「考える」という正常な停滞がない。
第二に「過剰な正義感(万能感)」だ。匿名性の影に隠れながら、悪(とされる対象)を叩くことで、自分たちが絶対的な正義の側にいるかのような陶酔感を得る。これは、躁状態の患者が「自分は神の使いだ」と信じ込む誇大性に通じるものがある。
第三に「文脈の欠如」だ。躁状態の思考(観念奔逸)がそうであるように、炎上における批判は、相手の事情や背景を無視し、切り取られた一場面にのみ過剰に反応し、連鎖していく。
SNSという装置自体が、そもそも「躁」を誘発するように設計されている。いいねやリツイートといった「即時的な報酬」は、脳のドーパミン系を刺激し、「もっと反応せよ、もっと動け」とユーザーを駆り立てる。タイムラインは24時間眠ることを許さず、私たちは常に何らかの「過活動」の中に置かれている。
炎上の渦中にいる人々は、自分が何らかの「社会貢献」をしているつもりでいるかもしれない。しかし、それは第4章で述べた「躁的マイナス」の典型例である。膨大なエネルギーが投下されるが、そこから建設的な対話や解決が生まれることは稀だ。残るのは、対象者の精神的破壊と、参加者たちの間に残る一時の快楽の後の、虚しい倦怠感だけである。
SNS時代の倫理とは、この「デジタルな躁」の誘惑に抗うことにある。流れてくる情報に対して、あえて「すぐに反応しない」こと。指を止め、画面を閉じ、身体的な静寂の中に戻ること。この「デジタルなうつ(停滞)」を選択できる能力こそが、現代における精神の健康のバロメーターとなるだろう。
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第Ⅲ部では、なぜ日本社会が「躁」を愛し、「うつ」を排除するのか、その構造的な背景に切り込みます。ここでは、単なる文化論に留まらず、国家や資本が労働力を効率的に搾取・動員するために、いかにして「躁的価値観」を道徳として内面化させてきたかという、批判的な視点(左派的・構造主義的視点)から論じます。
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# 第Ⅲ部 なぜ日本社会では躁的状態が称賛されやすいのか
## 第8章:勤勉・根性・自己犠牲の文化史――動員される身体
日本社会において「躁的であること」が称賛される最大の理由は、それが近代日本という国家プロジェクトにおいて、極めて「都合の良い燃料」だったからである。
明治以降、西欧列強に追いつくことを至上命題とした日本は、国民の身体と精神を「富国強兵」という一つのベクトルへと組織化する必要があった。ここで発明されたのが、「勤勉」や「根性」という言葉を宗教的・道徳的な高みにまで引き上げる倫理装置である。本来、人間が持つ自然なリズム(疲れたら休み、飽きたら止める)を「怠惰」という罪悪感で封じ込め、代わりにあらゆる不調を気合で乗り越える「躁的な過活動」を「日本人の美徳」として称揚したのである。
この「動員倫理」は、戦後も形を変えて生き残った。高度経済成長期、企業は「モーレツ社員」を求め、戦時中の総動員体制をそのまま経済活動へとスライドさせた。24時間戦うビジネスマンという理想像は、医学的に見れば明らかに「軽躁状態」の維持を強いるものである。
この構造における「自己犠牲」とは、個人の生きたリズムを国家や資本に捧げることに他ならない。私たちが「根性がある」と誰かを褒める時、そこには暗黙のうちに「自分の限界を無視して、外部の目標のために暴走できること」への賞賛が含まれている。この美徳の皮を剥げば、そこにあるのは、人間を単なる「代替可能な部品」として使い潰すための冷徹な搾取のロジックである。
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## 第9章:「空気を読む」社会と躁――同調圧力が生む集団的過活動
日本的な対人関係の根幹にある「空気を読む」という規範もまた、躁的状態を増幅させる装置として機能している。
「空気」とは、その場の支配的なモード(流れ)であり、一度その流れが「活動・前進・拡大」の方向へ向かうと、誰もそれを止めることができなくなる。なぜなら、日本社会において「立ち止まること」や「異議を唱えること」は、単なる意見の相違ではなく、集団の調和を乱す「反逆」と見なされるからだ。
例えば、企業の会議を想像してみてほしい。誰もが内心では「このプロジェクトは無謀だ」と思っていても、リーダーが躁的な全能感で突き進んでいる時、その場の「空気」は過活動を正当化する。ここで「冷静になりましょう」とブレーキをかける者は、「空気が読めない、意欲の低い人間」として排除される。結果として、集団全体が「躁的ポピュリズム」に陥り、現実的なリスク評価を失ったまま破滅へと突き進む。
この同調圧力下では、個人は自衛のために「躁的なフリ」をすることを強いられる。元気で、前向きで、コミュニケーション能力が高いふりをし続けること。この「擬態としての躁」は、個人の精神を内側から腐食させていく。私たちは、集団という名の「止まれない装置」に組み込まれ、互いに監視し合いながら、加速し続けることを強要されているのだ。
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## 第10章:うつは「甘え」、躁は「頑張り」になる瞬間――評価の非対称性
日本社会における最も残酷な倒錯は、精神の状態が「人格の評価」と直結して語られる点にある。
躁的な状態にある人間が、多弁で、傲慢で、周囲を振り回していても、そこに「成果(らしきもの)」が伴っている限り、社会はそれを「バイタリティがある」「リーダーシップがある」と肯定的にラベリングする。彼らがまき散らすトラブルや人間関係の摩擦は、「天才のゆえん」「個性が強い」という言葉で免罪される。
一方で、うつ状態にある人間に対して、社会は極めて冷淡である。思考が停止し、身体が動かないという「症状」は、しばしば「甘え」や「自己管理不足」「わがまま」といった道徳的欠陥として処理される。ここでは、医学的な「不調」という概念が、社会的な「能力不足」へとすり替えられるのだ。
この評価の非対称性が、人々に「うつになるくらいなら、躁でい続けよう」という無理な適応を強いる。しかし、第1章で述べたように、躁は決して持続可能な状態ではない。躁を「頑張り」として称揚し続ける社会は、必然的に、大量の「燃え尽き(うつ)」を生産し続ける工場となる。
私たちは、この「頑張り」という言葉の暴力性を見抜かなければならない。それは、しばしば病的な過活動を正当化し、人間が当然持っている「休む権利」や「弱くなる権利」を剥奪するための言葉なのだ。うつを「甘え」と切り捨てる社会は、その実、自分たちが生み出している「躁的な狂気」に無自覚なだけなのである。
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### 【第Ⅳ部への展望】
第Ⅲ部では、日本社会が持つ「動員のロジック」がいかに躁を美徳化し、うつを排除してきたかを批判的に論じました。
次なる第Ⅳ部では、この躁的価値観が具体的にどのようなシステムによって維持されているのかを検証します。医療、教育、そして企業。これらが三位一体となって、いかにして「躁的人間の再生産」を行っているのか。その「装置」としての側面を暴いていきます。
第Ⅳ部では、日本社会の「躁的価値観」が、いかにして具体的な社会システム(医療・教育・企業)を通じて維持され、再生産されているのかを分析します。これらの制度は、一見すると「人を助け、育てる」ためのものに見えますが、その実、人間を効率的な労働力へと作り替えるための「矯正装置」としての側面を持っています。
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# 第Ⅳ部 医療・教育・企業が躁的価値観を再生産する仕組み
## 第11章:医療――「早く元に戻す」という圧力
現代の精神医療、特に日本の保険診療体制における医療は、しばしば「社会の修理工場」としての役割を期待されている。患者がうつ状態で動けなくなったとき、医療に求められるのは「なぜ動けなくなったのか」という実存的な問いに向き合うことではなく、一刻も早く「元の戦力(労働力)」として社会に送り返すことである。
ここには「社会復帰」という名の暴力的な加速装置が潜んでいる。
薬物療法は、脳内の神経伝達物質を調整し、落ち込んだ気分を底上げする。それは確かに苦痛を取り除くための恩恵であるが、一方で、社会の歪みによって引き起こされた「停止」を、単なる「生物学的故障」に矮小化してしまう危険性も孕んでいる。症状が改善し、少し動けるようになると、医療従事者や周囲の期待はすぐに「復職」や「再起動」へと向かう。
しかし、本来の「治癒」とは、単に元通りの過活動に戻ることではないはずだ。むしろ、自分を壊した社会のスピードから距離を置き、「立ち止まる権利」を確保することこそが治療の本質であるべきだ。
医療者自身もまた、病院という組織の中で躁的価値観に晒されている。「症例を効率よく回すこと」「エビデンスに基づき迅速に結果を出すこと」を求められる医療現場において、患者の「停滞」や「何もしない時間」を価値あるものとして見守る余裕は失われている。医療が「減速帯」ではなく「加速装置」になってしまうとき、それは患者を再び躁的な搾取のサイクルへと突き落とす共犯者となってしまう。
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## 第12章:教育――「主体性」という名の躁的訓練
日本の教育現場は今、空前の「アクティブ・ラーニング」や「主体性」のブームに沸いている。しかし、この教育改革の裏側には、ある特定の「望ましい人間像」への強いバイアスが隠されている。それは、明るく、社交的で、常にリーダーシップを発揮し、物事に積極的に取り組む「躁的人間」のテンプレートである。
教室において、静かに一人で思考に耽る子供や、周囲の熱狂に冷淡な子供は、「意欲がない」「コミュニケーション能力が低い」というネガティブな評価を下されやすい。評価の基準は、常に「どれだけ外側へ表出(アウトプット)したか」に置かれる。発言の量、行動の速さ、集団への貢献。これらはすべて、個人の内面的な深まりよりも、表面的な「過活動」を奨励するものである。
これは、子供たちに対する「躁的適応」の強制である。
学校は、社会に出る前の準備段階として、資本主義が求める「使い勝手の良い、常に前向きな労働力」を量産するための選別場と化している。内省的で「止まること」を好む感性は、生産性を阻害する不純物として排除される。
私たちが「教育の成果」として誇っている「ハキハキとした、活動的な子供」の姿は、実は社会の躁的欲望を内面化させられた、精神の多様性の喪失の結果かもしれないのだ。
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## 第13章:企業――「やりがい」という名の躁的搾取
現代の企業活動、特に「成長」を至上命題とするビジネスの世界は、それ自体が巨大な「躁病装置」である。
成果主義、自己責任、イノベーション。これらの華やかな言葉は、労働者に対して「24時間、常に最高のパフォーマンスを発揮し続けよ」という、生物学的に不可能な要求を突きつける。ここで発明されたのが「やりがい」という名の感情労働の搾取である。
「自分の仕事が好きなら、疲れを感じないはずだ」「ワクワクしながら働こう」という言説は、労働者が本来感じるべき肉体的な疲労や精神的な拒絶反応(うつ的兆候)を、躁的な高揚感で麻痺させるための麻薬として機能する。
スタートアップ企業やベンチャー界隈で称揚される「ハッスル・カルチャー(猛烈に働く文化)」は、その典型である。睡眠時間を削り、私生活を犠牲にして仕事に没頭することを「自己実現」と呼び変える。これは、第1章で述べた躁状態の「万能感」を、企業が組織的に利用している状態に他ならない。
そして、この躁的な過活動の果てに労働者が燃え尽きたとき、企業は「ケア」をするのではなく、「自己管理不足」というレッテルを貼って彼らを切り捨てる。あるいは、第11章で述べた「修理工場としての医療」に送り込み、再起動を待つ。
企業という装置において、人間はもはや固有のリズムを持った生命体ではなく、一定の出力を出し続けることが義務付けられた「躁的バッテリー」として扱われている。この非人間的な加速のシステムこそが、現代社会にうつ病を蔓延させている真の病源体なのである。
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### 【第Ⅴ部への展望】
第Ⅳ部では、医療・教育・企業がいかに結託して「躁的人間」を作り上げ、維持しているかを明らかにしました。これらは個人の善意を超えた、強固なシステムとしての再生産装置です。
次なる第Ⅴ部では、こうした「加速装置」としての社会において、欧米由来の「回復(リカバリー)モデル」がいかに日本で骨抜きにされ、誤解されているかを論じます。「良くなること」の定義を、資本のロジックから奪い返すための議論を展開します。
第Ⅴ部では、欧米で提唱された「回復(リカバリー)モデル」が、なぜ日本社会という土壌において、その本質を失い、かえって人々を追い詰める「加速装置」に変質してしまうのかを論じます。ここでは、個人の権利や尊厳を重視するはずの思想が、いかにして「資本への再適応」というナショナリズム的、あるいは新自由主義的な論理に飲み込まれていくのかを批判的に考察します。
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# 第Ⅴ部 回復モデルが日本でうまく根づかない理由
## 第14章:回復モデルの前提条件――「自己決定」という重荷
「リカバリー(回復)モデル」は、もともと1970年代以降の欧米において、当事者運動や公民権運動の流れを汲んで誕生した。その核心にあるのは、単なる「症状の消失」ではなく、「たとえ精神疾患という限界を抱えていても、自分らしい人生の主導権を取り戻し、意味のある生活を築くこと」である。
このモデルが前提としているのは、徹底した「自己選択」と「自己決定」である。本人が何を望み、どのようなペースで生きていきたいかを尊重し、支援者はその「黒子」に徹する。ここには、人間を「治療の対象(客体)」ではなく、「人生の主体」として捉え直すという革命的な転換があった。
しかし、この思想が日本に輸入された際、一つの巨大な「落とし穴」が口を開けていた。それは、日本における「自己決定」が、しばしば「自己責任」という冷酷な論理と表裏一体で運用されることだ。
「自分の人生は自分で決める」というエンパワメントの言葉が、日本では「自分の不調は自分で管理しろ」「他者に迷惑をかけるな」という圧力へとすり替わる。本来、回復とは「不完全な自分」を受け入れるプロセスであるはずが、いつの間にか「自律した完璧な労働主体」へと作り直されるための、新たな道徳的義務へと変質してしまったのである。
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## 第15章:日本社会との非対称性――「加速装置」化する支援
日本社会において「回復(リカバリー)」という言葉が使われるとき、それは暗黙のうちに「社会復帰(リワーク)」と混同されている。この混同こそが、日本における回復モデルの致命的な不適合を象徴している。
日本における「社会」とは、個人の尊厳を守る場ではなく、第Ⅳ部で述べたような「躁的な生産性」を競い合う戦場である。そのため、「社会復帰」を目指す支援は、必然的に患者を再び「加速のサイクル」へと送り返すプロセスになる。
「順調に回復していますね」という支援者の言葉の裏には、「そろそろ働ける(=社会の役に立てる)状態ですね」という期待が貼り付いている。ここでは、患者が「働かないまま、静かに、しかし豊かに生きる」という選択肢は、事実上、排除されている。
支援現場が「加速装置」へと変質する瞬間は、至る所で見られる。就労移行支援事業所における「規則正しい生活」の強制や、診察室での「いつから復職するか」という問いかけ。これらは一見すると善意のサポートだが、その実、資本のロジックに基づいた「人間性能の復旧作業」に他ならない。
さらに深刻なのは、日本社会には「普通以下で留まること」を許容する余白が極めて乏しいことだ。生活保護や障害年金といったセーフティネットは存在するが、それを利用することに伴う「スティグマ(社会的烙印)」はあまりに重い。人々は、経済的な自立(=労働)という「躁的な参加」を強要され、それができない自分を「社会的な死」と見なすよう教育されている。
このような環境下では、リカバリーモデルが掲げる「希望」や「エンパワメント」は、皮肉にも患者を追い詰める凶器となる。「希望を持たなければならない」「前向きにリカバリーしなければならない」という新たな「躁的義務」が、本来最も休息を必要としている人々の背中を叩き続ける。
日本で本当に必要なのは、加速を促す回復モデルではなく、堂々と「立ち止まり、停滞し、生産性という土俵から降りる」ことを保証する、言わば**「積極的な不参加の権利」**としての回復論なのではないだろうか。
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### 【第Ⅵ部への展望】
第Ⅴ部では、善意の支援さえもが日本社会の躁的構造に取り込まれ、個人を追い詰める装置と化している現状を批判しました。
次なる第Ⅵ部では、こうした加速し続ける社会に対する、唯一にして最大の抵抗について論じます。それは「普通であり続けること」の倫理です。特別な何かを目指すのではなく、ただ「何もしないこと」の勇気と、静かな生活を維持することの価値を、精神医学的な視点から再定義していきます。
第Ⅵ部では、加速し続ける社会に対する究極の抵抗としての「普通」と「静止」を論じます。誰もが「特別」であることを強要され、自己啓発や成長という名の躁的欲求に駆り立てられる現代において、あえて「何もしないこと」「凡庸であり続けること」が持つ、革命的なまでの倫理的意義を明らかにします。
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# 第Ⅵ部 普通であり続けることの抵抗
## 第16章:「何もしない」ことの勇気――内面化された資本主義への拒絶
現代社会において、最も実行困難で、かつ最も勇気を必要とする行為、それは「何もしないこと」である。
私たちは、一分一秒の空白さえもスマートフォンで埋め、何らかの情報を消費し、あるいは自己研鑽という名のアウトプットに励まなければならないという強迫観念に囚われている。この「休むことへの恐怖」の正体は、内面化された資本主義の論理である。私たちは自分自身の時間を、常に「何らかの価値を生むための資源」として計算し、何も生み出していない自分を「無価値な存在」だと断罪する。
躁状態の人は、この強迫観念の極北にいる。彼らにとって、止まることは死にも等しい。しかし、私たちが日々感じている「何かしなければ」という焦りもまた、地続きの「微細な躁状態」に他ならない。
ここで、あえて「何もしない」を選択することは、システムに対する直接的なボイコットである。それは、自分の価値を生産性によって証明しなければならないという「説明責任」を放棄することだ。
「何もしない」とは、単なる休息ではない。それは、外部からの刺激や要請に対して、自分の内側のリズムを死守する積極的な営みである。ハーマン・メルヴィルの小説に登場する代書人バートルビーは、あらゆる業務の要求に対して「そうしない方が好ましいのですが(I would prefer not to)」と静かに答え、一切の活動を拒絶した。この「受動的な抵抗」こそが、躁的な加速に飲み込まれた現代人に最も欠けている、しかし最も強力な武器である。
私たちは、社会から「無能」や「停滞」のレッテルを貼られることを恐れず、自分の時間を資本から奪い返す権利を行使しなければならない。
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## 第17章:正常を守るという倫理――波打たないことの価値
第3章で述べたように、「正常」とは地味で、退屈で、物語性に欠ける状態である。しかし、この「波打たないこと」を維持することには、実は極めて高度な倫理的意志が求められる。
躁的な熱狂は、劇的で魅力的な物語を紡ぎ出す。戦争、炎上、あるいは企業の急成長。それらは常に刺激的で、人々の注目を集める。対して、正常な生活――朝起きて、ご飯を食べ、働き、眠るという、昨日と同じ今日を繰り返すこと――には、人目を引くドラマは存在しない。
しかし、臨床の現場で、深い絶望(うつ)や激しい混乱(躁)から生還しようとする人々が最後に辿り着くのは、まさにこの「何事もない日常」である。彼らにとって、普通に洗濯をし、近所を散歩し、静かに夜を迎えることは、血の滲むような努力の末に勝ち取った聖域なのだ。
この「普通」を守ることは、社会の健全性を維持するための防波堤でもある。
一人の人間が、過剰な承認欲求や万能感に溺れず、自分の身の丈に合った生活を維持すること。それは、他者を自分の躁的な物語に巻き込まず、誰かを踏み台にすることなく生きるという、他者への深い敬意(レスペクト)に基づいている。
社会全体が躁的になり、誰かを叩いたり、極端な主張を叫んだりすることが「正義」や「娯楽」とされる時代において、「普通であり続けること」は、それ自体が過激なまでの抵抗となる。
私たちは「普通以上」を目指す教育やプロパガンダに抗い、「普通であることの尊厳」を再発見しなければならない。それは、特別な成果を上げなくても、輝かしい個性がなくても、ただ生きているだけで十分に価値があるという、生存の絶対的な肯定である。
精神医療が究極的に守るべきは、この「静かで退屈な日常」への帰還である。社会がどれほど加速しようとも、私たちはあえて歩みを緩め、小さな生活の細部を慈しむ「正常さの倫理」を、自らの手に取り戻していく必要がある。
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### 【第Ⅶ部への展望】
第Ⅵ部では、「何もしないこと」や「普通であること」が、加速する社会に対するいかに強力な抵抗であるかを論じました。
最終部となる第Ⅶ部では、精神医療という場が、この加速し続ける社会の中でどのような役割を引き受けてきたのかを総括します。「治すこと」の限界を認めつつ、それでも「生き延びること」を支える精神医療の、ある種、泥臭くも崇高な社会的責任について、本稿の締めくくりとして提示します。
いよいよ最終部となる第Ⅶ部、そして終章です。ここでは、これまで論じてきた「個人の病理」と「社会の狂気」の結節点として、精神医療という場が歴史的に何を引き受けてきたのか、そしてこれからの私たちが「普通」を生き抜くために必要な態度は何であるかを総括します。
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# 第Ⅶ部 精神医療は、社会のどこを引き受けてきたのか
## 第18章:精神医療という「減速帯」――社会的な残余を引き受ける
精神医療の歴史を紐解けば、それは常に「その時代の社会が許容できなかった人々」の受け皿としての役割を担わされてきたことがわかる。これを「社会的残余(レジデュー)」の処理装置と呼ぶこともできる。
資本主義が、加速する生産性と躁的な効率を絶対的な正義とするならば、そこから脱落し、あるいはそのスピードに身体を合わせられなかった人々は、社会にとっての「不純物」となる。精神科病院やクリニックは、こうした「加速しすぎた社会」が吐き出した失速した人々、あるいは摩擦熱で燃え尽きた人々を、一時的に隔離し、保護し、あるいは隠蔽するための場所として機能してきた。
しかし、この「残余を引き受ける」という役割には、両義的な意味がある。
一方は、社会の歪みを個人の「病気」へとすり替え、問題を不可視化する「社会の清掃係」としての側面。もう一方は、暴走する社会から逃れてきた人々を、命の危機から守り、安全に「停止」させるための「減速帯」としての側面である。
精神医療が真に誇るべきは、前者の清掃係としての効率ではなく、後者の「安全に止める技術」である。社会全体が「もっと速く、もっと前へ」と急かしている中で、「止まってもいい、むしろ止まるべきだ」と断言できる唯一の公的な空間が、精神医療であるべきだ。私たちが「社会的残余」と呼ぶものの中にこそ、効率化の名の下に捨て去られた「人間の本質的なリズム」が保存されているのである。
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## 第19章:治すことと引き受けることの違い――不完全さを守る臨床
現代医学は「キュア(治癒)」、すなわち症状を取り除き、元通りの機能を取り戻すことを至上命題としている。しかし、精神医療の現場で本当に行われているのは、キュアよりもはるかに泥臭い「ケア」、あるいは「引き受けること」である。
臨床において、すべての患者が「バリバリ働く社会人」に回復するわけではない。むしろ、長年の躁的な無理がたたり、以前のような出力はもう出せない、という限界に直面することの方が多い。このとき、医療者が「もっと頑張れば、元のあなたに戻れる」と励ますことは、残酷な追い打ちにしかならない。
真に誠実な臨床とは、その人の「不完全さ」を、社会の冷たい目から守り抜くことである。完全な回復を目指すのではなく、多少の生きづらさや不全感を抱えたままで、どうにか今日一日を生き延びることを共に支える。そこには、「成功物語」としての回復ではなく、淡々と続いていく「生存の持続」がある。
精神医療が社会に対して果たしてきた最大の貢献は、人々を「治して戦力にする」ことではなく、「治りきらなくても、そのままで生きていていい場所」を、社会の片隅に繋ぎ止めてきたことではないだろうか。この「引き受ける」態度は、効率を競う社会に対する、静かな、しかし根源的な抵抗の姿勢を示している。
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# 終章:躁でもなく、うつでもなく、「普通」を生きるために
本稿を通じて、私たちは躁という熱狂の空虚さと、うつという沈黙の重み、そしてその間に横たわる「普通」という大地の価値を辿ってきた。
日本社会が称揚してきた躁的価値観――勤勉、自己犠牲、根性、やりがい。それらは、私たちを輝かしい全能感へと誘う一方で、私たちの生命のバランスを根底から破壊し、多くの人々を深い虚脱へと突き落としてきた。教育や企業、そして医療までもが、その「加速の共犯者」として機能していた事実は重い。
では、この躁的な狂気が支配する社会で、私たちはどう生きればよいのか。
その答えは、自分の中に**「不参加の権利」**と**「説明しない権利」**を確立することにある。
社会がどれほど「もっと前向きに、もっと活動的に」と求めてきても、私たちは「そうしない方が好ましい」と拒絶していい。自分の不調や停滞について、他者が納得するような合理的な説明をする必要もない。「ただ、今は動けない」「ただ、普通でいたい」という状態を、そのまま自分に許すこと。それは、内面化された資本主義の監視官を、自分の中から解雇することでもある。
「普通であり続けること」は、決して退屈な守りではない。それは、躁という麻薬的な高揚感に頼らず、うつという絶望の淵に沈みきらず、日々微細に変化する自分の心身のリズムを丁寧に聞き取り、調整し続けるという、能動的な自由の行使である。
精神医療と社会の新しい関係もまた、ここから始まる。医療は、人々を社会の規格に合うように「修理」する場所ではなく、人々がそれぞれの「固有のリズム」を取り戻すための、時間と空間の防波堤となるべきだ。
躁の誘惑を退け、うつの暗闇を恐れず、私たちは「普通」という地味で静かな大地を、自らの足で歩き出さなければならない。特別な何かにならなくてもいい。ただ、自分の時間を自分の手に取り戻し、朝起きて、息をして、夜を静かに迎えること。
その退屈で、かけがえのない一日を繰り返すことの勇気こそが、加速し続けるこの世界において、私たちが最後に手にすることができる、最も強靭な「知恵」なのである。
(完)
