「回復しないという生き方」は、臨床家をどう守るか、そしてどのように傷つけるか


Ⅰ.「回復しないという生き方」は、臨床家をどう守る

まず守っているものから。

①「治せなかった」という罪悪感から臨床家を守る

回復モデル以前、臨床家はこう評価されがちでした。

  • 症状が残る=失敗
  • 社会復帰できない=力量不足

「回復しないという生き方」を認めることは、

臨床を〈結果責任〉から〈関係責任〉へ移す

ことです。

  • 治せなくても、関係は壊さなかった
  • 良くならなくても、尊厳は守った

これは臨床家の倫理的自己保存でもあります。


② 全能感から臨床家を守る

意味を与えない、救わない、という姿勢は、

  • 自分が人生を左右する
  • 自分の言葉が誰かを変える

という危険な万能感を抑えます。

人間学的精神療法は、臨床家にこう言い続ける。

あなたは媒介であって、
原因でも、結論でもない

これは、臨床家を支配者にならせないための防波堤です。


③ 国家や制度の代替にならないことで守る

もし臨床が、

  • 人生の意味を与え
  • 生きる理由を保証し
  • 苦しみを正当化する

ようになったら、

臨床は「小さな宗教」になります。

人間学的臨床は、
そこから一歩引くことで、
制度に呑み込まれずに済んできた。


Ⅱ.しかし同時に、この姿勢は臨床家を壊す

ここが本題です。

① 「何もしていない」感覚で削られる

沈黙を守る臨床は、外から見ると、

  • 効果が見えない
  • 成果が数値化できない
  • 変化が語れない

臨床家自身も、

自分は何をしているのだろう

という自己空洞化にさらされる。

これは、
宗教的確信を持たない者の
祈りの苦しさに似ています。


② 意味を保証できない苦しみを、臨床家が引き受ける

患者が問う、

  • なぜ自分なのか
  • 生きる意味はあるのか

に、答えないという選択。

すると、

その問いは、
臨床家の内部に滞留する

臨床家は、

  • 問いを預かり
  • 解答不能のまま抱え
  • 次のセッションへ行く

この慢性的な未完了が、
燃え尽きの正体です。


③ 「去らない」ことの代償

人間学的臨床は、

変わらなくても去らない

という倫理を持つ。

しかしこれは、

  • 境界が曖昧になりやすい
  • 終わりが見えない
  • 自分の人生が後景化する

という危険を孕む。

優しさが、自己消耗に転じる瞬間がある。


Ⅲ.医療制度の中で、この沈黙をどう正当化できるか

ここは、かなり実務的に書きます。

① 「治療効果」ではなく「害を減らす」という正当化

人間学的臨床が確実にできるのは、

  • 無理な意味づけをしない
  • 希望を強制しない
  • 自己責任論を再生産しない

これは、

医原性の予防

です。

  • 偽の希望
  • 過剰な期待
  • 回復できない人への二次被害

を減らす。

これは医療倫理として、十分に正当化可能です。


② 「時間を提供する医療」としての位置づけ

数値化は難しいが、

  • 入退院の反復を防ぐ
  • 関係断絶を防ぐ
  • 危機時の支点になる

沈黙の臨床は、

時間を延命する医療

です。

治癒ではなく、
破局を遅らせる

これは制度的に語れる。


③ 「治療」ではなく「支え」として明示する

無理をしないために、
臨床は自分の役割を
はっきり限定する必要があります。

  • これは救済ではない
  • 人生の意味は保証しない
  • ただ、ここにいる

この自己限定を、
制度文書や説明責任に
言語化しておく

沈黙は、
黙ったままでは守れません。


Ⅳ.それでも、この臨床はなぜ続くのか

理由は単純です。

回復しない人は、消えない

社会がどうであれ、
制度がどうであれ、

  • 治らない
  • 戻らない
  • それでも生きている

人は、必ず臨床に来る。

そのとき、

  • 意味を与えず
  • 希望を押し付けず
  • それでも去らない

場所がなければ、
人は本当に孤立する。


最後に、一文で言います

「回復しないという生き方」を引き受ける臨床は、
臨床家を全能感から守り、
同時に、終わらない問いによって静かに削る。

この沈黙は、
治療としては弱いが、
人間を壊さないための最後の装置である。

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