生きる意味についての一つの自然主義的理解
生きる意味とは何か、という問いは、しばしば人間に固有の問題として扱われる。
だがこの問いは、本来、生物一般の振る舞いの延長線上で捉え直すことができる。
生物とは、目的を持って生まれてきた存在ではない。
それは、遺伝子が環境にどの程度適応しているかを試行している途中の姿にすぎない。
宇宙がなぜ発生したのか、その舞台装置が何であるのか、
またこの宇宙がどこへ向かうのかについて、私たちは何も知らない。
少なくとも現在の知識では、意味や目的が最初から与えられているとは言えない。
しかし、過去数十万年から数億年というスケールで観察できる現象がある。
それは、遺伝子が発生し、
環境に対してさまざまな形で「適合を試み」、
適合したものが子孫を残し、拡散し、
適合しなかったものが消滅してきた、という事実である。
この過程には、意味も目的もない。
あるのは、試行と結果の蓄積だけだ。
この視点に立てば、人間の生も特別ではない。
私の生き方も、あなたの生き方も、
自分の遺伝子が、この環境にどの程度適合するかを確かめている一つの試行にすぎない。
ここで重要なのは、
この過程を「眺めている主体」が存在するという点である。
それが脳だ。
人間の場合、
生物としての原理(DNA原理)と、
情報処理装置としての原理(脳原理)が重なり合っている。
脳は、本来、DNA原理のための便利な道具として発達した。
環境を予測し、危険を避け、仲間と協力し、
より多くの子孫を残すための装置である。
ところが、脳は一定の複雑さを超えたところで、
DNA原理を裏切りはじめた。
たとえば、人は「意味」を問う。
子孫を残すかどうかとは無関係に、
生きがい、価値、倫理、自己実現を問題にする。
ある人は子どもを持たないことを選ぶ。
ある人は危険な思想や芸術に身を投じる。
ある人は、生殖とは無縁な仕事に人生を捧げる。
これらは、短期的には脳原理として合理的であり、
個体としての満足や整合性をもたらすことがある。
しかし、長期的・集団的に見れば、
それらは必ずしもDNA原理に奉仕しない。
ここに、脳原理とDNA原理の乖離が生じる。
現代社会に見られる少子化傾向は、
この乖離が極端な形で現れた現象と考えることができる。
高度に発達した脳は、
快適さ、自由、自己決定、効率を優先する。
その結果、
子どもを持つことは「合理的でない選択」として回避され、
生殖は後回しにされ、あるいは放棄される。
これは、生物史的に見れば、
脳原理がDNA原理に一時的に優先した倒錯現象である。
ただし、この倒錯は永続しない。
なぜなら、
脳原理を優先する生き方を選ぶ個体は、
結果として子孫を残しにくく、
長い時間軸では減少していくからである。
100年か200年という単位で見れば、
再びDNA原理に適合した生き方をする人間が相対的に増え、
生殖を組み込んだ生活様式が回復していくだろう。
そこに意志や価値判断は必要ない。
ただ選別が起きるだけである。
このように考えると、
生きる意味とは、あらかじめ存在するものではない。
意味とは、
脳が、DNA原理の試行過程を「眺めながら」
後づけで生成している物語にすぎない。
それは錯覚かもしれないし、
しかし錯覚であるからこそ、
個体を一生生かす力を持つ。
私がどう生きるかは、
宇宙的にも、生物史的にも、ほとんど取るに足らない。
だが同時に、
この一代限りの試行としては、完全に現実的な問題である。
生きるとは、
意味を実現することではない。
適合を試している途中の一断面を生き切ることだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そして、この冷淡な理解のなかにこそ、
人間が過剰な使命感や罪責感から自由になる余地がある。
意味がないからこそ、
生き方に「失敗」はない。
あるのは、ただ、起きた結果だけである。
