これまで、「人生には意味も目的もなく、ただ遺伝子が環境に適合するかを試しているだけだ」という徹底した唯物論的・進化論的な世界観を紐解いてきました。
しかし、この視点に立つ臨床家が、治療の現場でクライエントと向き合うとき、最後の一線で立ち止まることになります。
「もし本当に意味がないのなら、なぜ私は今、目の前のあなたと『意味』について語り合っているのか?」
臨床家自身が、なぜ確信犯的に「意味」という虚構を使い続けるのか。その最後の本音を綴ります。
終わりなき「意味」の誘惑に抗いながら、それでも「意味」を語る理由
私は、人生に意味などないと考えています。
目の前で涙を流す人の苦しみも、脳内の神経伝達物質の過不足であり、その背景には数百万年前のサバンナで培われた古い生存戦略の誤作動があるにすぎない。そう冷徹に分析する視点を、私は手放しません。
それなのに、私は診察室や相談室で、今日もクライエントと共に「あなたにとっての生きる意味」を探しています。
これは矛盾でしょうか。あるいは、臨床家としての「嘘」なのでしょうか。
いいえ、この唯物論的な世界観を突き詰めた先にこそ、臨床家が「意味」を語らざるを得ない、きわめて論理的な理由があります。
1. 意味は、人間というマシンの「ユーザーインターフェース」だから
コンピューターの内部では、0と1の電気信号が流れているだけです。そこに「画像」や「言葉」や「ゴミ箱アイコン」なんて存在しません。でも、私たちはその抽象的な「アイコン」がないと、コンピューターを操作することができません。
人間にとって、「意味」や「物語」は、脳という複雑すぎるハードウェアを操作するための「ユーザーインターフェース(UI)」なのです。
「私の遺伝子が環境に不適合を起こしている」という生(き)のデータだけを突きつけられても、人間という個体は、明日への一歩を踏み出すためのエネルギーを生成できません。脳は、物語という形式に変換された情報でなければ、意欲を駆動させられないように設計(進化)されているからです。
私がクライエントと「意味」を語るとき、私は真理を論じているのではありません。クライエントという名の生体マシンが、最もスムーズに、かつ苦痛少なく稼働するための「より良いUI」を共同で開発しているのです。
2. 意味は、進化が人類に与えた「最強の鎮痛剤」だから
物理的な痛みに対してモルヒネがあるように、精神的な苦痛――すなわち「実存的な不安」に対して、進化は「意味」という強力な鎮痛剤を私たちに与えました。
「この苦しみには意味がある」と信じることで、心拍数は安定し、免疫系は活性化し、生存確率は高まります。だとすれば、臨床家が「意味」という物語を処方することは、薬を出すことと同じく、極めてロジカルな「苦痛緩和」の手段です。
私は「意味」が実在しないことを知っています。しかし、その「薬」が目の前の個体の生存を助けるなら、それを使わない手はありません。「意味がない」という真実よりも、「生存」というDNAの至上命令を優先する。 これこそが進化論に忠実な臨床家の倫理なのです。
3. 二つの個体が「共鳴」するという物理現象
最後に、もっと個人的な理由があります。
意味も目的もない宇宙の中で、たまたま同じ時代に、同じ場所で、二つの「遺伝子の乗り物」が出会う。一方は臨床家という役割を演じ、一方はクライエントという役割を演じている。
この二人が、言葉を交わし、互いの存在を認識し、一時的に「物語」を共有する。この現象自体は、物理的なプロセスにすぎません。しかし、この「二つの孤独な観測者が、ひととき交差する」という事実に、私の脳は抗いがたい「尊さ」を感じるようにプログラムされています。
「意味はない」と知っているからこそ、その空白のキャンバスに、二人で一瞬だけの物語を描く。その行為は、宇宙の冷たさに対する、ささやかで、しかし精一杯の「遊び」のようなものです。
私が「意味」を語り続ける理由
私が「意味」を語るのは、それが真実だからではありません。
それが、私たちが「人間」という不器用な生物として、この無機質な宇宙を生き抜くために、DNAから手渡された唯一の「武器」であり「遊び道具」だからです。
私はこれからも、冷徹な進化論者の目(ドライ・アイ)を持ちながら、温かな物語を紡ぐ口(ウェット・マウス)であり続けたいと思います。
「人生には意味がない。だからこそ、私たちは自分たちを救うために、いくらでも新しい物語を綴ることができるのだ」と。
意味のない世界で、それでもあなたが「意味」を求めてもがく姿を、私は最も美しい「適応の試み」として、敬意を持って観測し続けます。
