臨床・教育・若者の自己責任論は、進化論的・唯物論的世界観が、最も誤解され、最も乱用されやすい場所でもあります。
「自己責任」という言葉が、なぜこんなに強くなったのか
――臨床・教育・若者の場所から考える
進化論的な世界観を語ると、しばしば、こんな反応が返ってくる。
「結局、適応できない人は淘汰されるってことでしょ?」
「それって、自己責任を正当化しているだけじゃない?」
一見もっともに聞こえる。
だが、これは進化論の誤読でもあり、社会の責任転嫁でもある。
自然は「責任」を問わない
まず、はっきりさせておきたい。
進化論は、
- 努力したか
- 怠けたか
- 正しい選択をしたか
そんなことを一切問わない。
自然が見ているのは、ただ一つ。
その条件のもとで、たまたま生き残ったかどうか
そこに、
- 道徳的評価
- 人格評価
- 反省や改善の要求
は、含まれていない。
「責任」という概念は、人間社会が後から持ち込んだものだ。
臨床の現場で起きていること
精神科や心理臨床の現場にいると、
「適応できなかった人」が、どれほど多様な理由で苦しんでいるかが分かる。
- 生育環境
- 家族関係
- 発達特性
- 偶然の出来事
- 時代や制度とのミスマッチ
これらは、本人の努力ではどうにもならないことが多い。
進化論的に言えば、これはただの事実だ。
この遺伝子、この性格、この身体、この時代、この社会。
その組み合わせが、うまく噛み合わなかった。
そこに「あなたの責任だ」と言うのは、
自然のふりをした社会の暴力に近い。
教育は「選別装置」になりやすい
教育もまた、進化論と非常に相性が悪い場所だ。
本来、教育は、
- 多様な可能性を試す場
- 失敗しても戻れる場
であるはずなのに、
現実にはしばしば、
- 早期選別
- ランキング化
- 「向いていない」という烙印
を生む。
これは、進化の論理を短絡的に社会に適用した結果とも言える。
自然界では、
- 何度も試行錯誤があり
- 別の環境では別の価値があり
- 失敗しても、別の道がある
だが教育制度は、
一つの環境、一つの基準で、
「適応できない」を確定させてしまう。
若者の「自己責任化」はどこから来たのか
最近の若者が抱える生きづらさの多くは、
「うまくいかないのは、自分のせいだ」
という感覚に集約される。
しかし、進化論的に見れば、
これはかなり奇妙な思い込みだ。
- 生まれた時代
- 経済状況
- テクノロジー
- 労働市場
これらは、個人では選べない環境変数だ。
それにもかかわらず、
「適応できない=努力不足」
「残れない=能力不足」
と読み替えられてしまう。
これは進化論ではない。
競争社会が、自分の責任を隠すための物語だ。
臨床が果たしてきた、静かな役割
精神医療やカウンセリングが、
社会の中で果たしてきた役割は、実はとても地味だ。
それは、
「あなたが壊れたのではない」
「この環境との相性が悪かっただけだ」
と、言語化すること。
これは治療というより、再配置に近い。
- 自分を責めすぎない位置へ
- 可能性が残る文脈へ
- 生き延びるための速度へ
移し替える作業だ。
進化論的世界観は、
この作業と、実はとても相性がいい。
なぜなら、
世界があなたを評価していないことを、
冷静に教えてくれるからだ。
「意味がない」ことは、切り捨てではない
生きる意味があらかじめ決まっていないからこそ、
- 失敗しても、終わりではない
- 合わなくても、価値が消えるわけではない
- 立ち止まっても、脱落ではない
そう言える。
進化は、一直線ではない。
回り道も、停滞も、消失も含めた、
膨大な試行錯誤の集合体だ。
結び:自己責任論から自由になるために
進化論的な世界観は、
本来、人を突き放すための理論ではない。
むしろ、
- 世界は不公平で
- 条件はランダムで
- 成功も失敗も、あとから意味づけされる
という事実を、静かに示す。
臨床も、教育も、
若者が生き延びる場所も、
この事実を引き受けすぎないための装置であっていい。
意味はなくていい。
目的も、なくていい。
それでも、人は生き延びる。
それだけで、十分なのだから。
