臨床家として、無宗教者の祈り
私は宗教者ではない。
教義も持たず、救済を保証する言葉も持たない。
臨床の場で、神の名を呼ぶことはなく、
「意味があります」「必ず良くなります」と言うこともできない。
それでも私は、毎日、人の苦しみの前に座っている。
理由のわからない喪失、
回復しない症状、
取り返しのつかない過去。
それらを前にして、
何かを“する”ことよりも、
まず“居る”ことを選ばされる。
この姿勢を、宗教とは呼ばない。
だが、まったく無縁とも言い切れない。
1
臨床で最も多く立ち会うのは、
「問いが答えを失った瞬間」だ。
なぜ自分なのか。
なぜ治らないのか。
なぜ生きているのか。
それらの問いは、
宗教ならば、神の意志や物語の中に回収される。
だが臨床では、回収してはならない。
問いは、問いのまま残る。
私はそれを、解釈せず、
意味づけず、
ただ、その問いが壊れないように見守る。
これは祈りではない。
しかし、問いを消さないという点で、祈りに近い行為だと思う。
2
無宗教者の祈りは、何かを願わない。
治りますように、とは言わない。
救われますように、とも言わない。
代わりに、こう願っている。
──この人が、
意味を失いきってしまわないように。
この苦しみが、
完全に孤立しないように。
それ以上のことは、
臨床家には引き受けられない。
引き受けてしまえば、
それは祈りではなく、
支配や操作に変わる。
3
沈黙の時間がある。
患者が言葉を失い、
私も言葉を探さない時間。
この沈黙は、
診断にも、治療計画にも、
制度上はほとんど価値を持たない。
だが私は知っている。
この沈黙が壊れた瞬間、
人は「もういい」と言って立ち去る。
沈黙に耐えること。
何も起きない時間を、
「失敗」と呼ばないこと。
それが、
無宗教者の祈りの作法だ。
4
臨床家は、救えない。
それを受け入れるのに、
長い時間がかかる。
救えないまま、
去らない。
意味を与えないまま、
関係を続ける。
これは美談ではない。
しばしば、
徒労感と自己嫌悪を伴う。
それでもなお、
この立場を選ぶ理由があるとすれば、
それは、人を一つの結論に閉じ込めないためだ。
5
宗教は、
「あなたはこういう存在だ」と語る。
臨床は、
「あなたが何者か、まだ決まっていない」
という空白を残す。
無宗教者の祈りとは、
この空白が、
制度や効率や善意によって
潰されないことを願うことだと思う。
6
私は祈らない。
だが、祈りに似た姿勢で、
今日もまた人の前に座る。
答えを持たず、
救済を約束せず、
それでも立ち去らない。
もしこれを祈りと呼ぶなら、
それは神に向けたものではない。
人が、
まだ人であり続けられる余地に向けた祈りだ。
