――なぜ日本の政治は、いつも理解不能なまま続くのか
政治を見ていると、どこか既視感がある。
筋書きはだいたい分かっている。善玉と悪玉が配置され、誰かが裏切り、誰かが糾弾され、やがて次の話題に移る。それでも人々は怒り、失望し、時に熱狂する。「どうせ同じだ」と言いながら、目を離せない。
この感じは、プロレスを見ているときの感覚によく似ている。
プロレスでは、観客は暗黙の了解を共有している。これは競技であると同時に、演出でもある。だからこそ、安心して感情を預けられる。怒ってもいいし、興奮してもいい。終われば日常に戻れる。
政治も、実は似た役割を果たしている。ただしこちらは、「演出だ」とは決して言わない。あくまで現実であり、真剣勝負であると言い張る。その違いが、厄介さを生む。
政治の場では、人々の不安や怒りが、特定の人物や集団に集中する。経済が苦しいのは誰のせいか。社会が不安定なのは誰のせいか。複雑な問題は単純な物語に変換され、「敵」がはっきりすると、気持ちは一時的に楽になる。
問題が解決しなくても構わない。重要なのは、「誰かがそれを背負っている」という感覚だ。
だが、この仕組みは長くは続かない。
単純な物語は、必ず現実とぶつかる。すると一瞬、「自分たちにも関与があったのではないか」「仕組みそのものに問題があるのではないか」という考えが頭をよぎる。
この瞬間が、政治が本当に難しくなる地点だ。
自分も関わっていた、自分も支えていた、見ないふりをしていた――そう考え始めると、気分は重くなる。誰かを責めて終わるわけにはいかなくなる。時間もかかるし、答えは地味で、達成感もない。
日本の政治は、この地点にほとんど留まらない。
代わりに起きるのは、話題の切り替えだ。
別の失言、別の人物、別の対立。空気が変わり、「もう次に行こう」という雰囲気が生まれる。誰かが明確に悪かったことになり、残りは曖昧なまま終わる。
ここで重要なのは、「空気」である。
日本社会では、「正しいかどうか」よりも、「今それを言っていいかどうか」が強く働く。誰かが命じているわけではないのに、皆が感じ取っている基準がある。その基準に逆らうと、「場を壊した人」になる。
この空気は、とても便利だ。
誰も責任者にならずに済むし、誰も本当の反省をしなくて済む。間違いは「空気が悪かった」で処理され、個人も制度も深く問われない。
その代わり、政治は理解されないまま続く。
理解しようとすること自体が、どこか危険な行為になるからだ。冷静に考えようとすれば、「どっちの味方だ」と問われる。距離を取れば「冷笑的だ」と言われる。沈黙すれば「無関心だ」と見なされる。
こうして政治は、「考える対象」ではなく、「感情を循環させる装置」になる。
それでもこの状態が続くのは、理由がある。
正面から理解しない方が、楽だからだ。誰も深く傷つかず、誰も重い責任を引き受けずに済む。怒りと諦めを行き来するだけで、「関わっている感じ」は保てる。
プロレスが健全なのは、終わりがあるからだ。
試合が終われば、役割は解かれ、観客は現実に戻る。
政治には、それがない。
終わらない物語の中で、同じ役割が繰り返される。だから疲れるし、冷笑が増える。それでも舞台から降りる人は少ない。
結局のところ、日本の政治が分かりにくいのは、複雑だからではない。
分からないままでいる方が、社会全体にとって都合がいいからだ。
理解するということは、自分もその一部だったと認めることだから。
その重さに耐えない限り、政治はこれからも、どこか既視感のある試合を繰り返し続けるだろう。
