プロレスと政治の同質性


プロレスと政治の同質性

プロレスを「八百長だ」と言って鼻で笑う人は多い。しかし、政治を「茶番だ」と言う人は、同じ口でそれを嘲る。私はこの二つの態度のあいだに、ほとんど差異を見出せない。

プロレスは、勝敗が事前に決められていることが問題なのではない。観客の多くは、そのことを薄々知っている。にもかかわらず、リングに上がるレスラーの痛み、汗、流血、呼吸の荒さを前にして、人はなお熱狂する。技が決まった瞬間に立ち上がり、ブーイングし、歓声をあげる。その反応は、作為を見抜いた冷笑ではなく、作為を引き受けたうえでの参加である。

政治もまた、驚くほど似た構造を持っている。

選挙の結果が、制度・資金・組織・既得権によって大きく規定されていることを、有権者はどこかで知っている。政策が理念よりも調整の産物であり、対立がしばしば演出されたものであることも、完全な秘密ではない。それでも人は、街頭演説に足を止め、討論番組に怒り、拍手し、失望する。そこには、政治が「本気で信じられている」というより、「本気で信じているふりをすることに賭けている」姿がある。

プロレスと政治の同質性は、「嘘か本当か」という次元にはない。むしろそれは、「どのような嘘を、どの程度の現実を伴って引き受けるのか」という問題である。

プロレスラーは、本当に殴られ、本当に痛めつけられる。ただし、その痛みは物語の枠組みの中で配置されている。政治家もまた、本当に疲弊し、本当に攻撃され、本当に失言する。しかし、その行為は、制度という脚本の中で意味づけられる。どちらも「完全な虚構」ではない。むしろ「過剰に現実的な虚構」と言うべきものだ。

重要なのは、観客=市民の立ち位置である。

プロレスの観客は、暗黙の了解を共有している。「これは真剣勝負ではない。しかし、真剣にやっている」。だからこそ、裏切りや乱入や反則に怒る権利を持つ。政治においても、本来そのような成熟した距離が可能なはずだった。「これは理想の実現ではない。しかし、現実の中での選択である」。そう理解したうえで、批判し、支持し、責任を問うという態度である。

だが現代政治では、この距離がしばしば崩れる。一方では、すべてを茶番として切り捨てる冷笑があり、他方では、物語を文字通り信じ込み、裏切りを許さない過剰な同一化がある。どちらも、プロレスで言えば、リングに石を投げ込むか、試合結果に本気で訴訟を起こすようなものだ。

プロレスが成立するのは、観客が「演出であること」と「身体の現実」を同時に引き受けているからである。政治もまた、本来はそのような二重性の上にしか成立しない。制度は虚構であり、同時に現実である。約束は守られないかもしれないが、それでも約束として扱われなければ、何も始まらない。

私は、政治がプロレス化しているのではないと思う。むしろ、政治は最初からプロレス的だったのだ。異なるのは、私たちがその見方を忘れ、どちらか一方に片寄ってしまったことだ。

プロレスを楽しむとは、騙されることではない。構造を知ったうえで、なお関わることだ。政治に必要なのも、同じ成熟である。熱狂でも冷笑でもなく、「わかっていながら引き受ける」という態度。そのとき初めて、政治は単なる茶番でも、救済の物語でもなく、人間の営みとして、リングの上に立ち続けることができる。


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