日本的「空気」――超自我の外在化として読む


日本的「空気」――超自我の外在化として読む

日本社会における「空気」とは、雰囲気でも同調圧力でもない。臨床的に言えば、それは超自我の外在化である。

本来、超自我は内在化された規範であり、罪悪感を媒介に主体を統制する。しかし日本社会では、この内在化が不完全なまま、規範が環境側に配置される。「自分がどう思うか」ではなく、「空気がどうなっているか」が行為の基準になる。判断は内側からではなく、外部から降ってくる。

この外在化された超自我は、人格を持たない。誰も命じていないが、誰も逆らえない。だからこそ残酷で、かつ無責任である。叱責は個人から発せられず、「みんなそう思っている」「今はそういう感じじゃない」という形をとる。超自我は匿名化され、暴力性だけが純化される。

政治空間では、この構造が極端な形で現れる。発言の正否よりも、タイミングが裁かれ、内容よりも「今それを言うか」が問われる。これは道徳判断ではない。空気の維持に対する違反の検知である。超自我が命じているのは正しさではなく、調和だ。

このとき、抑うつポジションは成立しない。抑うつポジションには、内在化された超自我が必要だからである。自分の攻撃性を引き受け、罪悪感を感じ、修復を試みる主体が必要になる。しかし超自我が外にある限り、罪悪感は生じない。あるのは恥だけである。恥は修復を生まない。回避と隠蔽だけを生む。

結果として、日本社会では政治的失敗が反省ではなく雰囲気の更新で処理される。誰かが悪かったのではない。「空気が変わった」のだ。責任は引き受けられず、物語だけが切り替わる。これは冷酷さではない。心的装置の問題である。

プロレスが健全に見えるのは、超自我が内在化されているからだ。反則は反則として裁かれ、ブック破りは物語の内側で処理される。観客は怒るが、リングそのものを破壊しない。超自我が舞台の内部にある。

政治では逆だ。超自我が舞台の外にあり、誰もそれを名指せない。だから政治家は「空気を読む」ことに最適化され、理念は後退する。解釈は空気を乱すものとして忌避され、沈黙が美徳になる。

臨床家の目には、この構造は明確な帰結を持つ。主体が育たない。自分で判断し、自分で引き受ける主体が生まれにくい。代わりに、空気に従うことで無謬性を確保する主体が量産される。間違えないが、修復もしない主体である。

日本的「空気」とは、優しさでも共同体意識でもない。超自我を引き受けることを回避した社会が生み出した、外在化された監視装置である。それは誰も傷つけないように見えて、誰も回復させない。

政治が解釈不能であり続けるのは、この空気が解釈を許さないからだ。解釈とは、超自我を内側に引き戻す行為であり、主体化の始まりだからである。空気の支配が続く限り、政治は治らない。治らないのではない。治る主体が、そもそも呼び出されていない


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