日本社会における集団心性の精神分析的考察
要旨
本稿は、プロレスと政治の同質性を比喩的に論じることを目的とするものではない。むしろ、両者が同じ心的装置の上で作動している点を、精神分析――とくに対象関係論・クライン派の枠組みを用いて記述する試みである。転移・逆転移、スプリッティング、迫害不安、抑うつポジションといった概念を用い、日本社会における政治がなぜ「解釈不能なまま安定しているのか」を検討する。
1.問題設定――なぜ政治は理解されないのか
現代日本において、政治はしばしば「茶番」「出来レース」「どうせ裏で決まっているもの」として語られる。しかし同時に、人々は政治的出来事に強く反応し、怒り、失望し、冷笑する。この矛盾は、政治への無関心では説明できない。
本稿は、この状態を「政治が未成熟である」あるいは「市民のリテラシーが低い」といった規範的説明から切り離し、政治が特定の心的均衡を維持する装置として機能しているという仮説から出発する。
2.プロレスと政治――転移装置としての構造的同型性
プロレスは、勝敗が事前に決められているにもかかわらず、観客の感情を強く喚起する。このとき観客は、レスラーを個人としてではなく、善悪・被害・攻撃性といった心的内容の担い手として扱っている。
精神分析的に言えば、これは転移である。観客は、自らの内部にある処理困難な感情を、レスラーという対象に投影する。同時にレスラー側も、観客の期待や敵意に応答する形で逆転移に巻き込まれる。
政治もまた、この構造を持つ。政治家は政策主体である以前に、感情の受け皿として配置される。支持や批判が過剰になるのは、行為そのものよりも、そこに投影された心的内容が問題になっているからである。
3.スプリッティングと迫害不安――政治的言説の単純化
この転移構造を安定させているのが、**スプリッティング(分裂)**である。世界は善と悪、味方と敵に二分され、曖昧さは排除される。これは思考の貧困ではなく、迫害不安に対する防衛である。
クライン派の言うパラノイド・スキゾイド・ポジションでは、主体は不安を外在化し、攻撃可能な対象を必要とする。政治における「敵」の反復的生成は、この心的要請に応えるものとして理解できる。
ここでは、現実検討や複雑な因果理解はむしろ不都合である。分裂が壊れれば、不安が内部に戻ってしまうからだ。
4.抑うつポジションへの不耐――日本社会の特異性
抑うつポジションとは、善と悪が同一の対象に属していることを認める心的位置であり、そこには必然的に罪悪感と修復責任が伴う。
本稿の中心仮説は、日本社会がこの抑うつポジションにとどまることができないという点にある。政治的失敗や制度的問題が、反省や再設計に向かわず、雰囲気の更新や人格の交代によって処理されるのは、この不耐性の表れである。
重要なのは、これは道徳的欠如ではなく、心的構造の問題であるという点である。
5.「空気」――超自我の外在化
日本社会における「空気」は、しばしば文化的特性として語られるが、臨床的には超自我の外在化として理解できる。
超自我が内在化されていれば、主体は罪悪感を媒介に自己を修正し、修復を試みる。しかし超自我が外部化されると、判断基準は「正しいか」ではなく「空気に合っているか」になる。ここで生じるのは罪悪感ではなく恥であり、恥は修復ではなく回避を促す。
この構造が、政治における解釈不能性を生み出す。解釈とは超自我を内側に引き戻す行為であるため、「空気」を乱すものとして排除される。
6.臨床家の視点――なぜ解釈が成立しないのか
臨床の場では、解釈が成立しない状態がある。患者が語り続けているにもかかわらず、象徴化が起きず、意味が固定されない状態である。現代日本の政治空間は、これに酷似している。
解釈は常に「支持か攻撃か」に回収され、中立的な理解の位置が許されない。これは偶発的現象ではなく、抑うつポジションを回避するための構造的防衛である。
政治は「治らない」のではない。治ることが、心的に危険な状態として回避されている。
7.結論――政治はなぜ安定しているのか
政治が混迷しているように見えるにもかかわらず、構造的には驚くほど安定している理由は明確である。この政治は、集団の迫害不安を管理し、抑うつポジションへの移行を阻止するという点で、きわめて機能的だからである。
プロレスが健全なのは、分裂と修復が同一の枠内で完結するからだ。政治にはそれがない。あるいは、許されていない。
結局のところ、政治の未成熟さを問題にする前に問うべきは、私たち自身がどの心的位置にとどまることを選んでいるのかである。抑うつポジションに耐えない社会では、政治は永遠に解釈不能なまま安定し続ける。
それは失敗ではない。
現在の均衡が、私たちにとって最も安全である限りにおいて。
