それでも別れるという回復
――壊れた関係のあとに残るもの
離婚は、たいてい「失敗」と呼ばれる。
長く続けると誓った関係が終わるのだから、そう言われるのも無理はない。
けれど臨床の現場にいると、ときどき逆の感触に出会う。
続いている関係のほうが、人を静かに壊している場面である。
関係が壊れることと、人が壊れることは、同じではない。
むしろ、関係が終わることで、人がようやく壊れずに済む場合がある。
この章では、不倫をきっかけに離婚に至った一家を念頭に、
「それでも別れるとき、何が回復として残りうるのか」を考えてみたい。
1 元に戻らないという回復
多くの人が「回復」と聞いて思い浮かべるのは、
元通りになること、修復されること、なかったことにすることだろう。
割れた皿を接着剤で元に戻すように、
壊れた関係も、丁寧につなぎ直せば戻るはずだ、と。
しかし一度割れた皿は、どんなにうまく貼っても、
光にかざせばひびが見える。
無理に使い続ければ、次に割れるときはもっと粉々になる。
回復とは、
割れなかったことにすることではない。
割れたという事実を引き受けたうえで、
それでも日常を生きていける状態に戻ることだ。
元に戻らない回復。
それが、このケースの出発点になる。
2 女性に残る回復――「正しかった」から一歩ずれる
この女性は、家庭を放棄したわけではなかった。
家事も育児もこなし、夫との関係も表面上は維持していた。
恋愛は、生活を壊さないよう、慎重に管理されていた。
彼女の内側には、こうした感覚があったはずだ。
私は、やるべきことはやっていた。
この感覚がある限り、罪悪感は生まれにくい。
罪悪感は「やってはいけないことをした」と感じたときに生じるが、
彼女は自分を「役割違反者」だとは感じていなかったからだ。
しかし壊れたのは、役割ではなかった。
壊れたのは、相手が信じていた意味である。
夫にとって彼女は、
生活の共同運営者であるだけでなく、
「自分は選ばれている」という感覚を支える存在だった。
その意味の部分が、彼女には見えていなかった。
この女性に残りうる回復とは、
自分を全面的に否定することでも、
「仕方なかった」と開き直ることでもない。
私は合理的だった。
でも、あなたが何を生きていたかを、想像していなかった。
この一文を、言い訳でも自己処罰でもなく、
事実として引き受けられること。
それが、彼女に残る回復である。
3 夫に残る回復――怒りが看板にならないこと
夫の怒りは、当然のものだ。
しかしこの怒りは、単なる道徳的憤りではない。
彼の内側で崩れたのは、
- 自分は信頼されていたのか
- この結婚は本物だったのか
- 自分は何者だったのか
という、自己像そのものだった。
怒りは、その崩壊を一時的に支える足場である。
怒っているあいだ、人は「自分は間違っていなかった」と立っていられる。
問題は、怒りが悪いことではない。
怒りが人生の看板になることだ。
回復とは、怒らなくなることではない。
怒っていた自分を、後から振り返れるようになることだ。
あのとき、自分は壊れていた。
でも、壊れたからといって、無価値だったわけではない。
この地点にたどり着けたとき、
怒りは役目を終える。
4 娘に残る回復――何も言わずに済んだこと
10歳の娘は、多くを語らない。
だが、何も分かっていないわけではない。
家庭の空気は、子どもにとって天気のようなものだ。
誰かが怒っている、誰かが理屈で固まっている、
そのすべてを、子どもは肌で感じ取る。
この娘にとって最大の不幸は、
「どう思う?」と意見を求められることだった。
どちらの味方をすればいいのか。
何が正解なのか。
そんな問いを、子どもは引き受けられない。
この娘に残りうる回復とは、
語らされなかったことである。
沈黙は、失敗ではない。
それは、大人が自分の問題を自分の言葉で処理した証拠だ。
彼女が何も言わずに大人になれたなら、
それは静かな成功である。
5 敵にならずに終わるという倫理
離婚は、しばしば戦争になる。
被害者と加害者、正義と悪が固定され、
子どもはその戦場に立たされる。
もしこの二人が、
相手を人格ごと否定せず、
「分からなかった」という余白を残したまま別れられたなら、
その関係には回復が残っている。
和解ではない。
仲良くなる必要もない。
ただ、敵にならなかったという事実。
それだけで、関係は人を壊さずに終われる。
終わりに――喪失を消さない
回復しても、失われたものは戻らない。
信じていた物語も、無邪気な時間も、取り戻せない。
回復とは、
それらをなかったことにすることではない。
喪失を喪失として置いたまま、
それでも生きていける。
それが、
「それでも別れる」という選択に残りうる、
もっとも静かな回復である。
